旅立ちに贈る砂糖漬け






 甘い甘いシロップ、ゆっくりじっくりことこと煮込むの。優しい時間をたっぷりかけて。

 黒く焦げて苦くしないように気をつけてね。


 本当に上手にできたなら、あなたの作った美しい砂糖漬け、かけた時間のそれ以上、素敵な時間を紡ぎ出すわ。






 緑も美しく朝露の輝く草原を進んでいる二人の前に、白い小さな道があらわれました。人一人が通れる幅の狭い道がずっとまっすぐ草原の向こうまで続いています。

 草原の向こうには青々と生き生きと森が横たわっていて、遠くから鳥の鳴き声が聞こえました。道に出るまでの少しの間、草原の中をわけいった足元は朝露に濡れ、心地よい風が少しだけ冷たく感じられます。

 男の数歩先を歩く子どもは時々男を振り返りましたが、言葉を発することもなくただただ男が一緒にいるかを確認して何もなかったかのように前を向いて歩いてゆきます。そんな子どもと何を話すべきかという自身への問いかけには心の中の男自身、首を振るばかりで一向に答えらしい答えをだせずに男は静かに子どものあとについてゆくばかりなのでした。

 きこえていた波音はゆっくり遠ざかり、潮風だけが海の存在を彼らに知らせるものになったころ、森へと続く道、その途中にある小さな白い家が彼らの目に映りました。

「おうちがあるね。」

 浜辺をでてから一言も話さなかった子どもが呟くように言います。

 そうだな、と男も小さく子どもの言葉に返しました。どちらもその続きを話すこともなくそのままに道を歩いていきますと、そんなに長い時間はかからずやがて小さな白い家に辿り着きました。

 家の白ばかりが目立っていましたが近づいてみれば、その家の周りには整えられた広い庭がいくつもあり、それぞれに色とりどりの花が咲いています。家の影に隠れてみえなかった場所には木々も植えてあり、花を咲かせているもの、実をつけているものなどさまざまです。果実のなっている木にはいくつかの実を除いて紙のポケットがかけられていて、どれも丁寧に世話をされているのだろうと思われました。

 あんまり綺麗な庭だったので二人が立ち止まって花や木を見ていると、からからんと柔らかな音色を奏でて家の扉が開きました。中から出てきたのは家と同じに真っ白く、風や動きに合わせてふわりと揺れる膝丈のワンピースを着た年若い女性でした。

 女性は男と子どもに気がつくと、微笑んで、あらこんにちは、と扉で揺れる鈴のように柔らかく穏やかな声で言います。

「どうぞ、お時間あったら寄っていってくださいな。」

 途中まで開かれた扉をめいっぱいに開いて二人に微笑む女性に、男と子どもはお互いに少しだけ目を合わせてから、お邪魔しますと白い家へ足を踏み入れました。



 家の中は壁も柱も木でできていて、奥にある壁だけが煉瓦でできています。木の壁にはたくさんの棚があって、シロップ漬けの果物の瓶や花のジャム、お茶の葉など、すぐには数えきれないくらいの瓶が並んでいました。瓶と瓶の隙間には冠をかぶったことりの置物や少女の置物なども見え隠れしています。男の背ほどの本棚にはびっしりと本が詰め込まれていますが、それでも入りきらなかったのか部屋の真ん中に置かれた半分になった切り株のような少し歪な半円の大きいテーブルのはじっこに本が重ねて置かれていました。

 棚がない壁にも、ドライフラワーを作っている最中なのか花が下を向くようにかけられていて、部屋はハーブや花、甘いジャムの香りでいっぱいです。いろいろな香りがしますがそのどれもが良い香りで、優しく包み込まれるような気持ちになります。

 向き合うようにある二つの窓を女性が少しずつ開くとその中にかすかに潮の香りが混ざりました。

「ハーブティーはお好きかしら?」

 置いてあった薪ストーブにかけられたなべの蓋がことことと音を立てはじめました。

「飲んだことがなくて……。」

 そう答えた男にふふ、と笑った女性は、お口に合うといいのだけれどとティーポットとティーカップにお湯を注ぎ入れます。

 そちらの方は、ときかれた子どもは小さくうなずきながらいただきますと返しました。

 女性は棚に並ぶ瓶から一つを取ってきて銀色の小さなスプーンで中身をすくうと一度入れたお湯を流して何も入っていない無色に透き通ったティーポットにさらさらと注ぎ入れました。

 ひとすくい。ふたすくい。

 最後に窓際の植木鉢に咲いた白い小さな花を摘み、その花びらだけをティーポットに入れてお湯をゆっくり注ぎ入れます。くるくると透明なポットの中で茶葉と白い花びらが舞い、白い蒸気がポットの小さな口から立ち昇りました。

 ことりとティーポットの横に砂時計を置いた女性は落ちてゆく砂を指しながら、少し待ってねと微笑みます。

「二人は旅をしているのかしら。している、というよりはじめた、という感じかしらね。」

 そう言いながら瓶の角砂糖を小さな陶器のお皿に移している女性に、男がどうしてそれを、と小さく驚いたように呟くと女性は微笑みながら言葉を続けます。

「会話が少しぎこちなかったから。慣れている人はなんとなく喋り方でわかるわ。それとね、そこの道はほとんど人が通らないのよ。」

 旅の人や荷物いっぱいの行商人がとても稀に通りかかるくらいね、と女性が続けたところで砂時計の最後の砂が落ちました。

 カップを満たしていたお湯を流し、いつの間にかゆっくり色づいていたティーポットのお茶を注ぎます。ふわりと花の香りが昇りました。 

「カモミールティーよ。」

 まずはストレートで、あとは好みで砂糖をいれてみてねと差し出されたティーカップは白い陶器に小さな花と金色の模様があしらわれており、色づきながらも透き通るカモミールティーで満たされています。

 いただきます、とそっと口をつけると熱すぎずに温かいカモミールティーが体いっぱいに広がります。口の中を満たし喉をつたうお茶の香りは鼻を抜けてゆきました。

「……おいしいな、とても。」

 ほう、と息をついて笑う男と、うん、おいしいと返してまたカップを傾ける子どもに嬉しそうに女性が微笑みます。時の流れがゆっくりになったようにティータイムは穏やかに静かに進み、やがて幕を閉じます。

 しゃらしゃら、と音がしました。

 あら、お客さまね、と女性が立ち上がります。

「一緒にくる?」

 ちょうど飲みきって空になったカップを一度見て、また視線を合わせた男と子どもは、行こうか、と少しばかりの言葉を交わしてから、ごちそうさまと席を立ちました。

 


 この部屋に全部で三つある扉のうち、二つは木の扉にくすんだ銀色のドアノブがついているだけですが、唯一扉に何かの模様のようなものが掘られまだ新しく艶めくノブには蔦の葉が絡まる装飾がほどこされています。女性が手を触れたのは奥の煉瓦の壁に二つ並んだ小さな扉の右側、その唯一装飾のある扉でした。

 しゃら、と音を立てて開かれた扉の女性が握ったノブと反対側の面には、細い銀色の棒がいくつかまとまってついており、棒同士が触れ合ったところからしゃらしゃらと涼しげな音が響きます。男たちの目の前に現れた部屋は、先ほどまでいた部屋と同じくらいの大きさではあるものの全く異なる空気をもつものでした。

 先ほどまでお茶を飲んでいたものとよく似た歪な半円のテーブルと、椅子、置かれている家具と言えるようなものはそれだけです。なによりも目を引くのは、壁のいたるところにあるたくさんの扉。そのどれもが大きさや色かたちが違い、同じものは一つもありません。今入ってきた扉のある煉瓦の壁を除いた残り三面の壁いっぱいに扉はあり、煉瓦以外の壁は一様にまっしろく漆喰で塗り固められています。天井から下がる小さなランプは、うっすらとオレンジを纏い、漆喰の白を少しだけ色づけます。

「少しだけ、そこの椅子に座って静かにしていてね。」

 女性が指さしたのは煉瓦の壁沿いに置いてある二つの椅子でした。言われたとおり、男と子どもはその一つずつにそっと座ります。

「ここは……」

 子どもが小さく呟いたのに重なるように、右手にある緑色で小さめの扉からこつこつと音がしました。

 女性は音がした扉に近づき、銅色の持ち手を自分の方へとひきます。

「ようこそ、こんにちは。」

 こんにちは、と返ってきた声は二つ、扉の前にいたのは年若い男女とその腕に抱かれた小さな赤ん坊でした。

 扉から入る暖かく強い太陽の日差しが部屋の白い壁に反射し部屋中を明るい光で満たします。

「家族が、増えました。」

 嬉しそうに微笑みながら母親が赤ん坊をみます。

「ええ、本当におめでとう。」

 中へどうぞ、と扉を大きく開ききって親子を中へと女性が招きいれました。

 


 仄かなオレンジ色の灯りが包む部屋の中、どうぞ、と用意された椅子に皆が座るころ、母親の腕に抱かれた赤ん坊はうとうととまどろみ始めました。

「お茶はいかがかしら。」

 そう女性がたずねますと、夫婦はふるりと頭をふり、ありがとう、でもお気持ちだけありがたく、と笑いました。

「この子に、祝福をあげたいのです。」

 椅子に腰かけた母親が赤ん坊の柔らかなまぶたがくっついたり離れたりするのを見て穏やかに微笑み、女性へ話しかけました。

「二人で育てて作った砂糖です。真っ白くはないのですけれども……。」

 父親が持っていた麻の袋から、麻の色がほんのりとうつったような砂糖がいっぱいに詰まった瓶をことりと机に置きます。そのまま、砂糖でいっぱいの瓶をす、と女性の前におくりだしました。

「まぁ、てんさい糖ね。こんなにたくさん……十分すぎるくらいだわ。」

 ありがとう、と瓶に触れる女性に、今年は豊作でしたので、感謝と、それにお裾分けも一緒にと思いまして、と夫婦がにこにこ笑っています。ならばありがたくいただくことにするわね、と女性が微笑みました。

「少しだけ、時間がかかるわ。明後日に、また来ていただけるかしら。用意しておきます。」

 そう夫婦に言えば、もちろんですありがとうございます、と口々にお礼を言いながら二人は椅子をたちました。

 いつの間にか瞳を閉じてすやすやと眠ってしまった小さな赤ん坊を起こさないように、ゆっくりと頭を下げながら、二人は扉をくぐり暖かい日差しの中へ消えていきました。

 ぱたりと、緑色の扉が閉まります。

「さて、聞きたいことがたくさんある、という感じかしらね。」

 ずっと煉瓦の壁沿いに用意されていた二つの椅子に座っていた男と子どもを女性が振り返ります。

「まずは、お部屋に戻りましょう。」

 順を追って、話すわ、と言いながら先ほどの部屋へつながる扉にむかう女性の後を追うように、二人は席を立ちました。


 甘い香りでいっぱいのはじめの部屋に戻った女性は、砂糖の瓶をテーブルの上に置き、そのすぐ横に置いてあった小さなかごを持ってそのまま外へつながる扉へと向かいます。いつのまにか太陽は空のてっぺんにもう少しで届きそうな高さまで昇っていました。

 色の溢れる庭の間にある道をゆっくり歩きながら、女性が口を開きます。

「私はね、砂糖漬けを作っているの。」

 後ろをついてきている男と子どもを振り返ることなく、女性は咲いた花ばかりを見つめています。

「この世界のことは、知っているのかな。」

 そう言って少しだけ足をとめて、はじめて女性は男たちを振り返りました。世界のことをしっているのか、その問いの意図するところを少し考えましたが、自分自身さえままならぬ男は、首をふるりと横に振りました。子どももまた、困ったようにほんの少し目線を下に向け考えています。

「そうね、まずそこから教えましょう。」

 そうして女性は男に語りはじめたのでした。


 この世界には、言葉を魂に持つものがいます。あるいは、魂に言葉をもつのかもしれませんが、どちらにしてもその二つが糸で繋がれていることに違いはありません。

 言葉がもつ、その意味を、生として受けるもの。名前こそがその存在の、生の種となるもの。言葉から生まれた命。

 それだけで世界は構成されているわけではありません。異なった起源をもつ命も数えきれないほどにある中で、そういった命も存在するというだけ。

 言葉を起源とする命は、己の真実の名前を大切に抱きながら生きています。その真名だけで生きるものはほんの一握り、多くは別の、親しみやすい名前をもっています。

 真名を教えるということ、名前を導として生きるもの達にとってそれは、自分の命、存在のすべてを明かすということです。

 小さな数多の命の真実は、そうして秘めやかに、世界に息づくのです。



「私が知っていて、おぼえている世界のお話はこんなものね。」

 知っていて何かが変わるわけではないけれど、知っていることでみえるものがあるかもしれないわ、と最後にそう女性は言ってそのお話はおわりました。

 一呼吸おいて、女性はまた男たちに背をむけ、庭の花をひとつひとつゆっくりと時間をかけてみつめます。

 今の女性の話を頭のなかで男はゆっくり繰り返しました。繰り返しているうちに、水面に泡が浮かぶように疑問が浮かびます。

 なぜ、その話をきかせてくれたのか。自分はそれならば、そういった存在なのだろうか。ならばなぜ、自分は自分自身のことを何もわからずあそこに立っていたのだろうか。

 ぽこりぽこりと疑問の泡が連なるころに、前をゆく女性が立ち止まりました。

 その場で膝をおり、そっと花々に伸ばした手が持ち上がると、そこには小さな黄色い花が握られていました。花びらの形がそれぞれ違い、少し大きく数の少ないその花びらの集まる場所には、星空を映した夜露がそのままじんわりと染みこんだように色づいています。きらめく太陽の黄色と、静かな夜空の深い青。

「あの愛らしい赤ん坊には、この小さなパンジーにしましょう。」

 そっと摘み取ったパンジーをかごにいれ、また女性は歩き始めます。

 先ほどのようにゆっくり花を見ながら歩くのではなく、今度はす、と前を見て歩き始めました。家の中に戻るのかと思っておりましたが、女性はそのまま扉の前を通って、家の横に植わる低木の前へと足を進めます。

 立ち止まった目の前にあったのは、あかくほころぶ薔薇の木でした。

 いくつか咲いている花を一つずつ見て、女性はその中で一番小さく、一番色の深い薔薇をそっと手に取ります。かごの中に薔薇に触れていない手を伸ばし、小さなはさみを取り出しました。棘をさけながら伸ばしたはさみでぱちりと茎を切り、花を木から摘み取ります。

「これは若い奥さまに。」

 そう呟かれた言葉に、男はえ、と息を漏らしましたが、女性はそれには答えずに家へと戻っていきます。

 三人が家に戻ると、女性は先ほどの父親から受け取った砂糖の瓶を男に渡しました。

「その瓶の底をみてごらんなさいな。」

 女性の言葉に瓶を持ち上げると、そこには四つにたたまれた小さな紙がついていました。開いてみてもいいものかためらっていると、見ても大丈夫よと女性が笑います。

" 新しい私の家族と、命をとして新しい命を守った我が最愛の妻に、どうか祝福を。"

「だから、二つ。」

 女性はそう微笑みながらかごを置き、摘み取った二輪の花を両の手でそっとすくうようにのせました。

「花が美しいうちに、水につけるの。」

 そういって台所へむかった女性は、花を木の板の上にのせ、小ぶりな水差しに水をたっぷりくみとりました。その水に花をいれ、優しく花を洗うと、もう一度新しい水を汲みなおして二輪の花を水中につけます。

「まずはこれで下準備はおわり。」

 花の入った水差しの横に、少し大きめで、きゅ、と細く細く中央がひねられた砂時計をことりと置きました。台所から戻ってきた女性はふわりと椅子に座ります。

「あら、立ってなくてよかったのに、どうぞお座りなさい。」

 女性に促されずっと立っていた男と子どもも椅子に腰かけます。

「さて、あなたたちにはまだ全部答えていなかったわね。」

 ふ、と息を吐きだして、それから言葉を続けて紡ぎだします。

「隣の……さっきの部屋のたくさんの扉。あれらは全て別の場所にある、別の場所へと通じる扉なの。そこにある、扉と同じようにね。」

 す、と示した女性の視線を辿れば、煉瓦の壁にある唯一の装飾された扉、先ほどの扉の部屋へ通じる扉がありました。

「扉すべてが魔法なの。魔法なんてないと思った?そんなことはないわ、種から命が芽吹くように、それらすべてが存在するのよ。」

 気付ける人や、使える者が少ないだけでね、と女性は少しだけ悲しそうに瞳をふせました。

「それを利用してね、害をなそうとした者が過去にいたの。目に見えないものしか信じられない者達だった。元々はこちらとあちらの部屋は一つだったのだけれど……だからここにも扉があるのよ。」

 淡々とそう話す女性の表情からは柔らかい笑顔が消えています。静かで、記憶のどこかに立っているように、彼女は遠くを見つめていました。

「たった一つの扉の向こう側にいる人たちの過ちで、全ての扉を閉じることはできなかった。でも起きてしまった全てをなかったことに、そのまま続けることも難しかったの、そうして部屋は二つに分けられた。」

 それにね、と少し笑顔になった女性は男たちのことを見ていました。

「過ちは悔い改めれば正しい道に戻ってくることができる。たとえそれが全く同じ道ではなかったとしてもね。過ちを犯した人の周りにいた全ての者が間違っていたということも言い切れないでしょう。」

 少しだけ開けられた窓から暖かい昼下がりの風が吹き込みます。

「祝福は、すべての命に与えられるものよ。」

 一呼吸、ふわりと微笑んだ表情は優しく。

「私の名前は、祝福。」

 その名前は彼女をそのまま言葉にしたような、そんな柔らかさを秘めていました。

 ほんの少し、けれども穏やかな時間は時に永遠のようで、横たわる静寂の中を風だけがゆるりらとたゆたっています。

 幾百かの砂の粒が空から地へ落ちた頃、男がそっと口を開きました。

「しゅく、ふく……。あなたは、さきほど話してくれた言葉を種とする、人なのか。」

 その問いに、女性はこくりと頷きます。その答えに少しだけ考えた後、男は再び言葉を紡ぎます。

「本当の名を明かすことはほとんどしないと言っていたのに、なぜ……。」

「そうね、そうよね。……それはあなたが、自分を探す者だったからだわ。」

 男は返ってきた答えにあれ、と思いました。なんだか、何かがひっかかるなぁ、と考えていると女性が小さく声を出して笑いました。

「ふふ、なぜ自分自身のことを知らないことを知っているのか、じゃないかしら?」

 あぁ、それだ、と引っ掛かりがすとんとおちて、男は少しだけすきっとしましたが、あれ、またなんでわかったのか、という新たな問いも一緒に浮かび上がります。

「私は長く生きていますからね、少しだけわかることが多いのよ。」

 それと、と女性は細いその人差し指をそっと口元に当てて、しぃ、と声をひそめました。

「あなた自身のことに関してはあなたしか探せないわ。旅は知らないことが多い方が楽しくなるものだしね、何もかもがわかっているよりそっちの方がわくわくするでしょ?」

 そう言って、さぁ、と彼女は立ち上がります。

「やることがいっぱいあるの、一緒にやっておゆきなさいな。」

 強要するわけではなく、男と子どもに問いかけるような語調の女性に、少しだけ二人は考えましたが、急ぐ旅路でもなし、そうしますと頷きました。



 さて、と女性は台所においてあった小さな手鍋と木べらを用意して、マグカップに水をいれます。視界のはしをちらりと彩った、花の浮かぶ水差しの横。そえられた砂時計はまだ半分も落ちていませんでした。

 何をすればいいかわからずに立っている男と子どもに椅子を持ってらっしゃい、と言って女性は手招きしながら煉瓦の壁の前の薪ストーブへ向かいます。ストーブの横の小さな台に持ってきたものをのせて、彼女は台所にもう一度向かおうと足を向けましたが、何かを考えるように一瞬足を止めました。くるりと体をひるがえしてテーブルに置かれていた砂糖の瓶だけをもって戻ってきます。

 薪ストーブの前には三つの椅子が用意されています。

「あら、私の椅子も用意してくれたのね。どうもありがとう。」

 男と子どもにお礼をして女性は瓶も鍋たちと一緒の台に乗せました。

「火力を調整するのに少し時間がかかるから椅子に座っていてね。喉がかわいたら、温かくはないけれどハーブティーが台所の大きな瓶に入っているわ、自由に飲んでね。」

 何かわからなかったら言ってちょうだい、と笑って、女性は薪ストーブの温度計と火の様子を見比べながら、吸気口をゆっくり調節していきます。ぱちぱちと音をあげていた赤い光は少しずつ勢いをひそめ、穏やかに、光と熱を伝えます。

 男は変わっていく炎から目をそらしませんでした。いえ、そらせなかった、という方が正しかったかもしれません、薪を燃やす赤、時々音をあげて飛び跳ねる火の粉、そのどれもが美しく、彼の体だけでなく心をも暖めるようでした。

「美しいでしょう。」

 炎を見つめて背中を向けている女性がそう言いました。はい、と静かに男も答えます。

「眩い光と、熱は、強い生命。でも付き合い方の距離を誤ればそれはたちまち死の影をまとう。危うさと、強さと、儚さ。」

 命はとても美しいけれど、光には影がつきまとうのよ。呟くようにそう言った女性の瞳には、穏やかに揺らめく火が映っていました。

「少し、喋りすぎたわね。」

 だめだわ、ついね、と言いながら困ったような笑みを浮かべて女性が立ち上がりながら男たちに向き直ります。

「これで大丈夫。さぁシロップを作りましょう。」

 ぱちん、と両の手のひらを合わせて女性が今度は楽しそうに、にっこり笑いました。



「砂糖漬けをつくっている、というのは言ったわよね。砂糖漬けは花や果物、あとは野菜を言葉通りお砂糖に漬け込んで作るの。ジャムなんかも砂糖漬けの一種ね。今回はジャムではなくてお花の形を残したまま甘くしていくわ。」

 手鍋の底に薄く広がるくらいの水をカップから移し、砂糖が入った瓶の蓋をきゅ、とまわして開きます。

「私は祝福のひとつの形として、砂糖漬けを作るの。でもね、本当に大切なのは目に見えないもの。本当の祝福はね、誰かが誰かを想う気持ちなの。」

 あなたたちも、それをどうか忘れないでね、と女性が言いました。傾けた瓶から砂糖がさらさらと鍋に零れてゆきます。水を覆い隠すように注がれた砂糖の上から女性はまた少しだけ水をたらしました。

「いつもはまっしろのお砂糖やはちみつを使うのだけれど、今回はあの二人が作ったお砂糖を使いましょう。」

 砂糖の瓶の蓋をしめて木べらと小鍋の取っ手を持った女性は、それを薪ストーブの上に乗せました。

「火はうんと弱火にして。焦げてしまわないようにね。木べらで底からすくいあげるようにゆっくり混ぜるの。」

 はじめはしゃりしゃりと形の残っていた砂糖がゆっくりととけていきます。

「水に一時間ほどつけた花を、このシロップに漬けこんで、かわかして、を繰り返すのよ。甘さが浸透するように、そして朝露を浴びた花のような艶めきをまとわせるの。」

 砂糖が形を残さずに溶け、砂糖の淡い亜麻色に輝く透明なシロップが小鍋にゆらめきました。それを女性は手を休めることなくかき混ぜ続けます。

「美しい砂糖漬けの隠し味は、優しい時間。甘い甘いシロップ、ゆっくりじっくりことこと煮込むの。優しい時間をたっぷりかけて。黒く焦げて苦くしないように気をつけてね。」

 マグカップから少しだけ水を足して、とろ火でゆっくりとシロップを温めます。

 くるくる。優しく撫でるように。

 くるり。木べらから滴る甘いシロップは流れ星のように輝く糸を一瞬残し、水面へ戻ります。

「小さな泡が出てくるようになったら、火からあげるの。」

 シロップの中を、小さな泡が泳ぎ始めます。小鍋からふわりと浮き上がったそれは木べらに触れる前にぱちりと弾けました。

 女性は小鍋を薪ストーブからあげて、小さな台に戻します。少しだけそのままくるくるとかき混ぜていましたが、やがて両の手を離しました。

「あとは熱がとれるのを待って、シロップは完成よ。」

 さぁ次は、といって後ろでシロップ作りをずっと見ていた二人に笑いかけます。

「あなたたちが作る番よ。大丈夫、鍋はあと二つあるわ。」



 女性が言った通りにそれぞれに渡された手鍋と木べらを使い、二人もシロップを作ります。

 薪ストーブは小さな手鍋二つくらいなら暖められる広さがあったため、二人は一緒にシロップを作ることにしました。二人の間には女性が座っています。

「そうそう、そうよ。」

「あ、もっと底からすくいあげないと焦げちゃうわ。」

「うまいわね、その調子よ。」

 二人を見つつ、シロップが美味しくできるように、アドバイスをしています。それもあり、二人の作ったシロップはそれぞれ焦げることもなく出来上がりました。

 さすがに小さな台には小鍋といえど三つものらないため、二人のシロップは台所に持っていきます。

 いつの間にか、台所においてあった砂時計の砂は落ちきっていました。

「一個目に作ったシロップはもうそこまで熱くないでしょうし……漬けていきましょう。」

 そう言って女性は、白いお皿に花をすくって、水差しの水を流しました。白い新しいコットンで、はなに残る水分を優しく吸いとります。

 花とシロップをテーブルに持っていき、椅子も戻して花をシロップに浸けます。

「シロップが染み込むように、このまま置いておくわ。さっきの砂時計を何度も繰り返すの。漬けては乾燥させて、それの繰り返しよ。時間も手間もかかるけれど、それが大切なのよ。」

 慌てずに急がずにね、歌うように女性は続けます。

「本当に上手にできたなら、あなたの作った美しい砂糖漬け、かけた時間のそれ以上、素敵な時間を紡ぎ出すわ。」

 嬉しそうに、幸せそうに、女性は微笑んでいました。



 シロップは瓶に移し、花をそこに漬けては、取り出してを繰り返します。小さな花を包み込みシロップの瓶詰めは昼さがりの光を、夕暮れの光を、さやかな月の光を、朝の眩い光を映しては、その甘さをゆっくり移してゆきました。



 扉の部屋にやってきた、これから皆で遊びに行くのだという小さな子供たちに祝福のキスをあげて見送るのについて行ったり、空いた時間に庭の花の名前をいくつかおしえてもらったり、薪ストーブで揺らめくオーロラを作ったり、パンを作ったり、砂糖漬けを作る合間に色々なことを女性に教えてもらいながら、時間は流れていきます。

 そうして二つの夜と二つの朝を迎え見送り、約束の時間はやってきました。

 しゃらしゃらりと、聞き覚えのある音が響きます。

 一度棚にたちより、二つの小さな木箱を手にしてから女性は扉へと足を向けました。扉を開ける前にそうだわ、といって、女性が振り返ります。

「この部屋は別の扉から入った者の姿をお互い見えなくするの。でもこの扉だけは特別、こちらから入ったものだけは全てを見届けることができる。介入はできないけれどね、だから本当に、見届けるだけ。」

 あぁ、私だけは別よ、と言って女性は部屋へと続く扉を開けます。

「この間村の子供たちが来た時に少しだけ言ったことと同じになるけれど……彼らにあなたたちの姿は見えないし、声も聞こえていないわ。」

 あとできちんと話そうと思ってあの時はそれしか言わなかったのだけれど、と言いながら、初めてこの部屋に来た時と同じまま二つ置かれた椅子に、どうぞ、と二人を座らせると女性は手に持っていた箱を二つ重ね、テーブルにそっと置きました。こつこつと扉をノックする音がきこえます。

 二日前と同じように緑の扉へと迷うことなく歩みよった女性は、銅色の持ち手を自分の方へとひきました。

「こんにちは、お時間大丈夫でしたか?」

「こんにちは、もちろんよ。どうぞ入ってちょうだい。」

 扉の外は今日も穏やかに晴れていて、親子は今日も幸せそうに笑っています。

 暖かい風が男と子どもの頬をふわりと撫でました。いつも何もないテーブルにぽつりと置かれた木箱は、近づかなくても目に入ります、部屋に足を踏み入れた夫婦の顔が、嬉しそうに輝きました。

 扉をぱたりと閉めた女性が、テーブルの木箱を二つ重ねたまま手に取りました。二人の前にす、と木箱を差し出します。

「新しい命の旅立ちに、祝福を。」

 美しい祈りの言葉のように音を紡ぎます。

 赤ん坊を両の手で抱き抱えている母親に代わり、父親が木箱の蓋をゆっくりとひらきました。

 そこにあったのは、小さく輝く、可愛らしいパンジーの砂糖漬けでした。鮮やかに眩しい黄色と、穏やかに染み込む青色、きらきらと、露に濡れたように瑞々しい小さな花。花びらの先端には、亜麻色の輝く粒が散りばめられ、それはまるで朝焼けを映した露が滴るようでした。

 言葉をなくして息をのむ夫婦でしたが、やがて呼吸をおもいだしたように大きくひとつ深呼吸して、本当にありがとうございます、と口をそろえます。

 女性は幸せそうに微笑みました。

「すこしだけ、赤ん坊をお父さまに抱いていてもらってもいいかしら?」

 女性の言葉に一瞬きょとんとした様子の母親でしたが、すぐにええもちろんと父親に赤ん坊を抱かせます。

 女性がパンジーの砂糖漬けをテーブルに置くと、母親の前にはもう一つの木箱がありました。

「これは……?」

「開けてちょうだいな。」

 女性の穏やかな声に、母親はそっと小箱の蓋を開きました。

「新しい命を守り、育んだあなたに、祝福を。……あなたを一番愛している人からよ。」

「…………あなた……!」

 横にいる夫を振り返り、口をおさえる若い妻の頬を、温かい雫が伝います。それはとても澄んでいて、美しい涙でした。

「頑張ってくれて、本当にありがとう。一緒にこの先ずっと、この子と…俺と生きてください。」

 愛しい人と、愛しい人の腕に抱かれた我が子とを霞む視界で精一杯とらえながら、はい、と彼女は頷きました。

 木箱を嬉しそうにみつめ、大切そうにそっと蓋をした妻はそれを女性から受け取って両の手で包み込みました。ほんの数呼吸の間だけ瞳を閉じてそのまま木箱を包んでいましたが、やがてそっと瞳を開き、テーブルの上の木箱にも蓋をしてその手に一緒に持ちました。

「本当に、どうもありがとうございました。」

 頬に涙の跡を残しながら、心の底から嬉しそうに幸せそうに笑う母親と赤ん坊を抱いて優しく笑う父親は、何度も何度も彼女を振り返りお礼を言いながら、緑の扉の向こう側へと帰っていきました。




 砂糖漬けを作る手伝いをして、渡すのを見届けた男と子どもは、扉の部屋から帰ると女性に礼を述べ、太陽が光をのこすうちに彼女の家を発ちました。

 女性は驚く様子もなく、そう言うかと思っていたわ、とほんの少しだけ哀しみの色を瞳に浮かべて、いつものように微笑んだあと気を付けてね、と玄関先へと彼らを見送ってくれました。

「これを。」

 最後に女性は後であけてねと、男たちに一つの小さな木箱を渡し、彼らは花に囲まれた小さな白い家を背に、広い森へと二人歩んでゆくのでした。



 女性の言うとおりに、旅立ったあと白い家が見えなくなるころに開いた小箱には、折りたたまれた手紙と、彼女と飲んだ小さなカモミールが二輪はいっていましたので、砂糖漬けを作るときに言われた、私の作る砂糖漬けの命はそんなに長くないのという言葉を思い出しながら二人は一輪ずつ食べることにしました。彼らの作ったシロップを使って、祝福が彼らに言わずにそっと作ったカモミールの砂糖漬けは、甘くていい香りがして、ほんの少しだけ苦く、最後に優しい甘さを残し溶けるようになくなりました。






 幸せなことばかりではないでしょう。かなしいことも、辛いこともあるでしょう。

 それでも。

 それらすべてがあなたに語りかけるはずです。どうかおそれないで。

 あなたの行くさきに、幸のおおからんことを。

 祝福をあなたに。






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