ことほぎ

青原凛

始まりは透明な歌声






 凪いだ海、夜明け前の星が空に海に散って、天地の境がどこにあるのかわからない。

自分が今どこにいるのかさえも見失う、記憶に知らぬ果ての場所。






 ざざと海が小さな音を立てて、白い花を浜辺に咲かせます。波が運ぶ泡の花を、ぽう、と男は見ていました。

 朝に近づく夜の海、暗く濡れる深い闇をいろどるように鮮やかな星々が揺らめきます。空の風に、海の波に、優しく揺らぐ光に包まれて男はそこに立っていました。

 男は自身のことを何も知りません。

 自分がなぜここにいるのかも、自分の名前も知りません。わかるのはここが海だということ。空に浮かんだあの光が星で、今目の前に広がる景色がそれはそれは美しいものだということだけでした。

 ぽつりぽつりと心の泉に泡が浮かんで弾けるように、浮かび上がる言葉たちだけが確かに男のなかに息づくものでした。

 波音だけが響く海の彼方から、歌声が聞こえます。空にとける澄んだ歌声にきゅう、と心がしめつけられました。少し息苦しく、詰まったように力をこめた喉の奥。ふっとほどいた瞬間に漏れる息が少し熱を帯びているような気がしました。

 なおも続く歌声は遠く遠くへと響きます。

 いつの間にか白く輝きはじめた水平線に、星よりもずっと近く強い光が、海を、空を照らして世界の色を映し出します。

 朝焼けの訪れとともに沢山の小さな白い粒が浜辺をふわりと舞いはじめました。はじめ丸いかと思われたそれは三角形や四角形と形を変えながら踊るように空中を移動しています。白い粒がいくつか集まったと思ったら少し大きな白い粒になり、鳥の形になって羽ばたいていくものもいます。

ゆっくりと強くなる太陽の光、それを反射して波間にきらめく光、紡がれる歌声に合わせて白い粒たちは舞い踊っていました。

 くるくると、きらきらと、新しい日を祝福するように、それらは空を舞います。

 やがて、水平線から太陽が昇りきる頃に白い粒は光にとけて見えなくなってしまいました。

 輝く海にふたつ、ひときわまばゆい光をはなち、海の底へ、夜のように深く沈んだ青い水の底へと何かが沈んでいきました。



 美しい夜を越えて、男は色づく世界にたたずみ続けています。

 男の右手にそっと柔らかいぬくもりが触れました。

 そちらを見やれば自分のひじの高さほどもない子どもが、昇る朝日の方をみて目を細めながら男の手を握っています。

「……ねぇ、あなたはだれ?」

 すい、と向けられた瞳は先ほどまで包まれていた濡れるような黒。言葉を紡ぐその声は涼やかに凛と響く、曇りないメゾソプラノ。

「私は……だれ、だろうか。」

 質問に答えられずに零れた言葉に、ああこれが自分の声なのかと男は思いました。考えてもわからない自分のことを一つ知ることができましたが、それでもまだわからないことばかりです。

 男の答えにそっか、と考えるように少しうつむいていた子どもは、じゃあ、と再び視線をあわせました。

「あなたのことを知りに行こう。僕もこの世界を見に行く旅をしたかったから、ちょうどいいよ。」

だから一緒に行こう、と手を引かれて、男は初めて自分の後ろを振り向きました。

 さっきまで広がっていた青のように、どこまでも続く美しい若草色。踏み出した左足に蹴られて虹色の光を秘める朝露がぽろぽろと零れては大地にはじけます。

「君にはここで一緒にいる人がいるのでは……。」

 いないよ、だから行くんだ。そう笑って子どもは草をわけて行きます。

 進む先は一面の草原、あの海のような青をたたえた空にゆっくりと雲が流れていました。



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