第3話 魔球『トリックシーム』


「オリバーを抑えることができたね」

「でも、これはいつか対策されてしまいますね」

「だけど選択肢が増えた」


 ウィズはファイリングされた分厚い資料を俺に渡した。

 俺に渡したのは古い資料だった。


「今度はこれ。トリックシーム」

「なんですか? これ」


「途中までストレートのようで手元で変化させるというピッチトンネルと真逆の発想」

「真逆?」


「途中まで変化して最後に真っ直ぐになる。どの位置まで曲げるかを操れるようになれば徹底的に緩急を付けられる。投げている人はいないよ」


「だけどかなり前の資料ですよね? 誰か投げたんじゃないですか」


 投げていない、とウィズが首を振った。


「トリックシームが考案された後、投げる人が現れるまでにメジャーの傾向が芯を外す投球に変わってしまった。実現される前に時代遅れになってしまったの」


 資料の中にしか存在しない。

 なんだか可哀想な気がした。


「日本のシンカーと途中まで似た軌道なんだよ。やってみない?」


 俺はすぐに頷いた。


 その晩、吐きながら俺はオリバーの苦笑いを思い出していた。

 あれが本当の笑いになればいい。



 高校生の頃、休んで迷惑をかけることを試合で勝つことで返していると思っていた。


 ルートリーグの最強の代打であり元メジャーリーガーのオリバーを抑えられたなら俺は許されるのではないだろうか。



 ポストシーズンのラスト、優勝を争う試合。


 俺は抑えとして毎試合出場するようになっていた。ちょうど七回に吐くこともルーティンになった。


 吐いても熱を出しても打者を抑えるようになった俺は、相手チームにとって風邪より怖い存在になったと誰かが言った。


 オリバーは完全に目を覚ましている時期で、試合前にいまだに応援してくれるファンにサインを書いていた。


 オリバーと同じ病気の人々に寄付をするとも発表していた。


 若い全盛期の頃のような澄んだ瞳がマウンドの俺を見ている。


 オリバーは勝負だけを見ている。

 俺は勝負だけを見ていただろうか?


 風が吹く。スタジアムの歓声が耳に流れ込んでくる。遠い異国の地に来た。


 病弱なのにいいのかな、なんて言っていられない場所に来たのだ、俺は!


 一球目のシンカーは三塁側へファール。

 危なかったが抑えた。


 二球目は高速シンカー。

 芯を外し自打球に。


 当たったのが太ももの裏なのでオリバーは平気そうだ。


 そして三球目。


 指で縫い目をなぞり、仕掛ける。


 トリックシームを。


 バッターボックスに入る前にふわりと浮いて、これから落ちる――オリバーは狙いをつけて下から振り上げようとする――ように見せかけた。


 ふわりと浮いたまま、ほぼ落ちずそのままの速度でミットに入る。



 オリバーの現役時代を思わせる鋭いスイングは空を切ったのだ。


 喜んでマウンドを飛び上がる俺に皆が集まる。


 優勝だ!


 スタジアムのトイレで吐いた。心なしか勝利の味がする……わけないか。


「うまくいったね!」


 ウィズがにこにこして嬉しそうだ。


「ウィズはトリックシームが好きなんですね」


「私の父が開発したんだよ。父が公式戦で使う前に亡くなったから、投げた人がいなかったってわけ」


「お父さんは病気だったんですか?」


「幼い頃から元気だったらしいよ。突然だった」


 機械に繋がれた幼い頃は大人になる前に死ぬと思っていたけれど、大人になった俺は今も病弱ながら生き続けている。


 ずっと元気だった人が突然いなくなることもある。不思議なものだ。


「君、上に行くのか?」


 いきなり現れて話しかけてきたのはオリバーだった。


 元メジャーリーガーに話しかけられて慌てる俺と違い、ウィズはにこやかに頭を下げていた。


「トーゴくん?」

「はい!」


 オリバーに名前を知られていた……試合をしているから当たり前か。


「僕のことを可哀想だと思っていた?」

「え……」


 オリバーの緑色の目が俺を見ている。

 思っていた。罪悪感が溢れてくる。


「すみません」

「思っててもいいよ」

「え?」


 オリバーは帽子のつばを掴んで位置を直した。


「同情されたって気にしてないよ。実際、僕自身も不運だと思っているから」


 オリバーは最初から病気だったわけじゃない。だからこそ病気になって苦しむのだろう。

 不運か。


「生きてるだけで幸運だって思わなきゃいけないと、ずっと思ってきました」


 考えもせず俺は話した。

 オリバーは続きを促してくれた。


「幼い頃は大人になる前に死ぬと言われていて、親に苦労をかけました。だけど奇跡的に病弱とはいえ野球ができるくらい元気になって。幸運なんです、でもたまに」


 泣きそうだった。


「自分は幸運だと思わなきゃいけないというのが、しんどくて」


 涙をこらえた。


「野球をしていいのかなって」


 毎日吐いているのに涙を落とした経験はごく僅か。頬を伝う慣れない感触を指で拭う。


 オリバーは何かを考えている様子で、俺を見ている。


 俺もオリバーも体に不具合を抱えているけど、オリバーは健康だった頃はメジャー屈指の打者だった。


 俺は生まれた時から不具合があり、過去の実績は無い。


 俺とオリバーは違うんだ。


「野球をしちゃ駄目な人がいるって、聞いたことないよ。人より苦労して生きているんだから、その分やりたいことをやらないと」


 オリバーは病弱な人である以前に、優しい人だったのだ。


「僕も体が動くうちは野球をするつもりだよ」

「はい!」


「君もメジャーを目指せよ」


 メジャーリーガーはあっさりそう言うのだ。


「メジャーのグラウンドのトイレの方が綺麗さ」




 それから数年。


 俺はメジャーのグラウンドで今日も吐いている。


 病弱なのにいいのかな、なんて言っていられない場所まで来れた。

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トリックシーム 左原伊純 @sahara-izumi

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