第2話 超スローボール

 いつの間にかマウンドに来ていたキャッチャーが、そっと俺に告げるような声色で話した。


「オリバーは怠慢で寝ているわけじゃない」

「具合が悪いのか」

「それに近い」


 怠慢なんて疑うわけがなかった。


 俺だって高校時代に、熱で練習を休むたびに監督に怠けていると言われたものだ。


 健康な人間には分からないことは案外多いものだ。


「かつては三番ショートで、打率四割に最も近づいた男だと言われていた。


 オーバーワークで脳の伝達物質がおかしくなって、今は眠る時期と起きる時期を繰り返して生きているって」


「よく知っているね」


 自分の不調を事細かに知られて、オリバーは嫌じゃないのだろうか。


「皆知っているよ。メジャー時代に急に成績が低下した時、球団から発表されたんだ」


「オリバーは嫌じゃなかったのかな」


「オリバーの許可がなかったらさすがに発表しないだろ」


 そうなのかな。確かに許可は取っただろうけど、許可しなきゃいけない圧力とかがあったのではないだろうか。


 俺が皆の前でマネージャーになれと監督に言われた、あの春の日みたいに。


 観客が少し増えていて、歓声が上がった。寝ぼけ眼のオリバーがチームメイトにグローブを付けさせられている。


 かつての栄光で今でも客を呼べるのか。


 生まれた時から病弱な俺が、不可逆の病に侵された元メジャーリーガーと対峙するなど不思議な物だ。


 オリバーから圧は感じなかった。

 春先のまどろみのように穏やかで、頼りなかった。


 俺はアウトローの外側に、ボールになるように直球を投げた。


 見られた。


 多分、俺は臆しているのだ。

 病を持って生きるという共通点に、同情してしまっている。

 馬鹿みたいだ。

 俺は相手に何か思われたいと思わないのに、相手に対しては何かを思うなんて。


 次はゾーン内に投げよう。そう、決意しなければならなかった。



 アウトローに高速シンカー。


 凄まじく速い一振りで、ファール。

 右打席から三塁側の観客席に入った。お客さんがボールを手に取り喜んでいる。


 オリバーは少しは目が覚めたらしく、数度瞬きしていた。


 続いて、インハイに直球。

 木のバットの打撃音に俺は恐怖した。


 レフト方向に柵越えファール。あと少しでホームランだった。


 オリバーが俺を見た。何を思ったか、彼はにこりとした。


 こいつは過去の栄光で生きていない。未だに化け物だ。


 眠るのと起きるのを繰り返しているのに、打席に立ちさえすれば野球選手になるんだ。


 俺はどうだ。


 マウンドに立っている間はピッチャーという人格のはずなのに、怯えている。


 どうしても選手でいたいはずなのに。


 誰に止められても、アメリカで暮らせるようにバイトして金を作って、飛行機に乗って、言葉も覚えた。


 病弱なのに好きなことをする俺はワガママなんじゃないかと自分を疑っていた。


 幼い頃は機械と管に繋がれていた。


 奇跡的に自由になって、それだけで嬉しいことなんだよと親に何度も言われていたし、俺もそう思っていたから。


 だけど目の前のオリバーは眠る合間に試合に出て、夢の途中のように穏やかに笑っている。


 メジャーリーガーが独立リーグに来るなんて滅多にない。金のためではなく野球をしている。好きなことをしている。


 勝たなければならない。


 強力な打者に勝てないようなら上には行けない。体に不具合があるのは同じ。

 それなら負けられない!


 俺がモーションに入ると同時にオリバーは目覚める。


 脳がおかしくなっても打席にいればバッターである。


 俺はマウンドで自分の右脚に体重をかけるとき、ベビーカーのような機械に常に乗っていた幼少期を過去にできる。


 アウトローに決め球のシンカー。はっきり言って、最高の一球だった。


 オリバーのホームラン。


 俺はマウンドの上に崩れた。


 ベンチに戻ったオリバーが、病魔に負けてとろとろ眠り出す。


 試合後、俺はウィズを呼び止めた。


「今度の自主トレーニングに付き合ってくれませんか」

「分かった」


 俺の決め球のシンカーは打者の手前ではなく、その前から曲がり出す。


 緩急を作るには最適だがひっかけさせられないのでうまく打たれれば飛ぶ。

 オリバーがそうしたように。


 俺はウィズに直球以外にも打者の手前を意識した球を増やしたいと告げ、二人で特訓することに決めた。


 その夜、吐き終わった後にオリバーを思い出した。

 彼も体の不具合に苦しめられているのだろうかと。

 それでもなお野球を続けているのはどうして。

 俺だって、どうしてこんなに毎日吐いているのに野球をしているのだろう。

 していいのだろうか。



 投球練習場のトイレに一番近い場所は俺専用になった。

 ウィズは思う存分吐いていいよと言ってくれる。

 皆に迷惑をかけているのかもしれない。


 ある試合後、ウィズが腕を組んで、顔をしかめた。


「あんたの強みすらなくなったじゃない」


 俺は何も言えなかった。


 オリバーに負けてから打ち損じさせることのできる球種をいくつか習得したが、試合に出ても内野安打を許したり、四球を与えたりといまいちだった。


 ホームランを打たれることはなくなったがぽこぽこ打たれるようになっていた。


「前の三振を取るスタイルに戻そうか」

「でも、シンカーにしか頼れなくなってしまいます」


 俺の直球では戦えない。

 皆に迷惑をかけた分勝って取り戻したいのに。

 ウィズが不敵ににやりとした。


「投げられないのは速い球でしょ?」



 シーズン半ば、再びオリバーのチームと試合をする。

 俺は抑えでオリバーはラストの代打。前と同じだった。

 オリバーが目を覚ますまで、10分ほど試合が動かなくなった。


 オリバーに勝ちたい。


 元メジャーリーガーであり、どんなに病気でも野球をすることを許される彼に勝ちたい。


 初球、ゾーン内にシンカー。


 空振りで一安心。オリバーはとんとんと足元の土をならしている。


 初球ボールはアメリカではあまり好まれないと聞いてから、ストライク先行を心掛けてここまできた。

 アメリカのやり方を飲み込んだ俺は強くなった。


 俺は吐き気を抑えるより打者を抑える方が得意なクローザーになってきた。


 オリバーを倒せば、マイナーリーグにアピールできるとウィズが言った。

 オリバーが目を細める姿に、映像の中の彼の全盛期を思い出す。打率3.98の恐ろしい男。

 緊張して吐きそうだ。いつも吐いてるけど。


 二球目。


 俺のフォームは途中まで同じだが、リリース直前にわずかに肘先を上向かせた。


 高く上がったボールにスタジアムの観客の視線が集まり、大きな山なりの軌道を描きながらオリバーの横に落ちる。

 オリバーはバットは振らないがボールの軌道に視線を揺さぶられていた。


 ボールだがスタジアムは盛り上がった。


 超スローボールだ。


 そして三球目にインハイの直球。

 空振り三振だ!

 たった140半ばのストレートで!


 オリバーは苦笑いしていたが、少し楽しそうだった。

 オリバーに勝てた俺はきっと野球をしてもいい。


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