トリックシーム
左原伊純
第1話 分かっていても打てないシンカー
「あんた、三日後にクビになるんじゃない?」
球団に入るなり、肉感のある体のキャミソールとショートパンツ姿の女が言う。
「余計なお世話だ!」
俺は駐車場の隅の草むらに吐いている姿だった。
体が弱く、すぐに吐き、すぐに熱を出す。
高校の野球部監督から再三マネージャーになれと言われたが、それでも選手でいたかった。
だけど甲子園の片隅で吐いた。
「で、ドラフトにかけられるわけもなく渡米したってこと?」
「そうだよ」
再び吐きながら、彼女に背を摩られている。俺の背は誰に摩られても平気な背である。
「逆輸入でNPB目指すつもり?」
「いや、野球ができるならどこでもいいよ」
この体質が許されるのなら。
体が弱いのに投手でいたいという我儘を許されるのなら。
ここは米独立リーグ。
実力はマイナーリーグの1A相当。
つまりここで通用しなきゃNPBでも通用しないってこと!
トライアウトだ。
緊張すればどうしても癖は出るものだけど、俺の場合何を投げるのかバレても問題なかったりする。
腕をしっかり振ることと、時にリリースポイントを変えることを忘れないこと。
右のサイドからの直球とシンカーだけ。
野球の本場の見事なスイングでも空を切るなら意味がないんだ。
マウンドから降りて、トイレに行って吐いてからマウンドに戻ると、トライアウトの合格を言い渡された。安心して再び吐いた。
「おめでとう」
「ありがとう」
よく分からないけどさっき背を摩ってくれたお姉さんが拍手してくれる。
「お名前は?」
「深山桃悟です」
「よろしくね、トーゴ」
そう言ってアメリカのお姉さんがひらひら手を振って去って行った。
また会うことが、まるであるみたいな言い方。
練習初日。
「私が投手コーチのウィステリア。呼びにくければウィズと呼びなさい」
「投手コーチだったんですね」
「気を遣わなくていいよ」
独立リーグの全体練習の時間は一日に三時間ほどと短く、それ以外は全て自主練習だった。
「抑えになりたいんです。それが駄目なら中継ぎ」
「先発だと合間に吐く?」
「はい」
高校生の頃は先発、というか一番手を任されることも多かった。その際は攻撃の際にしれっと吐いて、守備になると何事もなく戻っていた。
仲間たちが俺の打順になるとトイレまで呼びに来てくれた。
余談だが、俺の同級生は吐いた物の処理の仕方が物凄くうまくなり、野球よりもそっちが上達したのではないかとコーチが言った。
彼らはきっと道端で誰かがいきなり吐いても眉一つ動かさず、始末するだろう。
「抑えになるなら、ちょうど空きがあるからそのうち試合に出られるよ」
「本当ですか!」
「ただし、相手のチームにいい代打がいる。練習しないとね」
開幕六連戦の三試合目の九回裏、俺の登板。
ウィズが手を振っている。
彼女と、仲間たち全員に頷いてグラウンドに向かう。
ベンチの控えが洗面器とビニール袋を持って俺に頑張れと言う。
「吐かなくて大丈夫か?」
「もう吐いた」
心配そうなキャッチャーに大丈夫だと頷く。
このチームに来て一か月だが、既に俺は吐くものとして受け入れられている。
マウンドから打席までの距離は日本の野球と変わらないはずなのに、打者が迫って見える。
それはそうだ。俺は日本のプロとも試合をしたことがなく、高校球児としか野球をしたことがない。
だけど臆してはいけない。
すぐに吐いてしまう弱い人間であっても、マウンドに立っているその瞬間だけはピッチャーという人格である。
体を捻り、反動で大きく翻す。横の回転。柔らかく、美しくなるように。
ふわりと浮いたかと思わせて落ちる、カーブと逆方向で、カーブより鋭いシンカー。
空振らせた。
二球目はもう少し遅く大きく変化するシンカー。再び空振り。
三球目はボールゾーンに落ちるシンカー。見られた。
四球目、高速シンカー、空振り三振!
一人目を抑えた。
キャッチャーが走って来る。
ちなみにアメリカではリードは投手自らすることが多いので、このリードも俺が考えた。
あまり芸はないリードだと思うけど。
二人目も同様に抑えた。
リードに知恵がなくても、何を投げるか分かっていても、打たれない。
あと一人。
代打が出される。
オリバー・スミスとコールされたが、なかなか出てこない。
相手ベンチが騒がしく、起きろ、だの出番だ、だの言っている。
オリバーらしき選手はぐったりと背もたれに頬を付けて眠っており、他選手が頬を叩いて起こしている。
具合が悪いのか?
「あいつは元メジャーリーガーだ」
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