影は何でも知っている

朝倉亜空

第1話

「それじゃあ、また明日ね。ユウジくん」

「あ、はい。ナミ先輩、お疲れさまでした」

 ふたりは都内某商店街にあるファミレスでアルバイトをしている者同士。

 偶然、帰宅方向が同じだったため、仕事のアップ時間が揃った時は、決まって一緒に帰っていた。そして今、ここからはお互いの方向が違ってくるという分かれ道で、挨拶をしたのだった。

 半年前、大学に入学したてのユウジがアルバイターとして入ってきた時、三つ年上のナミが彼の新人研修係にあてがわれた。

 呑み込みが早く、教えたことをすぐに吸収するユウジを、ナミは嬉しく、また頼もしくさえ思っていた。ユウジはユウジで、丁寧で教え上手なナミのことが、女性的な優しさにあふれる、魅力的な人と映っていた。

 いつしかふたりは互いに異性として意識し、好意を寄せ合うようになっていた。しかし、その思いは双方とも相手には伝わってはいなかった。

「ああ、今日も肝心な一言が言えなかったんだよなぁ……」

 ひとりで歩きながら、ユウジは言った。「ナミ先輩、好きです! 僕と付き合ってください!、って言えないよなぁ。俺みたいな年下男なんて、幼稚っぽく思われているだけだろうし……」

 ユウジは、はあー、と大きくため息をついた。

 一方、ユウジと別れたナミの方は。

「ユウジくんは年上の女の子なんて興味ないよね、きっと……」

 ナミも一人でつぶやきながら、歩いていた。「三つも上に離れていたら、超オバサンだよ……」

 ナミはふぅ、と小さなため息を零した。

 相思相愛なのに気付いていない、実らぬ片想いだと思い込んでいる。そんなふたりを、ふたりの影たちはじれったく思っていた。

 影は光との距離や方向で、大きくなったり縮んだり、細くなったり短くなったりする。その中で、本来、別々のふたつの物の影が、クロスするように重なり合ったりもする。その時、影はふたつではなく、大きなひとつの影となる。そして、影の意識も混じり合い、ひとつとなる。地域猫の影と重なった時に、ナミの影は、この猫が角の魚屋のサンマを狙っていて、いつか咥えて走り去ってやろうと考えていることを知ったし、ユウジの影は、ユウジの自宅マンションには、テレフォン詐欺師の一味が隠れ住んでいることを、ある男の影とスリ合わさった時に知ることとなった。

 ユウジの影とナミの影も、初めて重なった時に、一瞬でふたりは両想いであると分かったのだった。

 さっきの帰り道でも、本当は手をつないで歩きたいと思っているふたりの後ろで、沈む夕日によって映し出されたその影たちは、時に腕の部分を触れ合わせ、互いの想いを確認していたのだ。

(いつでも一つに重なっていたいよ。わたしも同じこと思ってる。だけど、光の加減でまた離れてしまうんだ。そんなの嫌だわ。今日こそサンマとるにゃー。早くユウジたちもお互いの気持ちに気づいてほしいよ。そうよ、わたしたちのためにも……)

 ひとつとなった影の中で、ふたりの意識はこのように語り合っていた。途中、いつもの地域猫とすれ違っていたようだ。

 それから、暫く日にちが過ぎての仕事帰り、ふたりは一緒に帰り路を歩いていた。だが、雰囲気はいつもと違い、何かとげとげしいものだった。原因はユウジの仕事ミス。発注を通し忘れ、お客を散々待たせた挙句、おまけに注文とは違う料理を運んでしまったのだ。

「あれじゃあだめだよ、ユウジくん。失敗の取返しに失敗を重ねるなんて……」

「分かってますって! そんなに責めないで下さい」

 最近はいつもナミのことが頭を離れず、それでつい、やらかしてしまったのだ。

「ナミ先輩だって、このところポカが目につきますよ」

「えっ、それは……」

 ナミもユウジと同じで、ユウジのことで頭が一杯なのだ。

「もうバイト、辞めちゃおうか、ぼくにはあまり、向いてないようだし……」

 ユウジは言った。ナミと会わなければ、諦めもつく。

「そ、そう……。嫌々やってても良くないしね」

 ナミも言った。「こうやって、一緒に帰るのも無くなっちゃうね……」

「今日、帰ったら店長に電話します。みんなには迷惑かけちゃうけど、今の僕は、店にいたって迷惑だし」

「……」

 何も喋ることのないまま、ふたりの分かれ道のところまで来た。

「今までいろいろお世話になり、ありがとうございました」

「……」

「ナミ先輩って、本当に優しい女の人ですよね。実は僕、感激してたんですよ。へへへ」

「……」

 ナミは弱い笑顔を作って、微妙な揺れで、首を横に振った。

「じゃあ、お元気で……」

「……ユウジくんも、元気でね……」

 意に反しての強引な作り笑いは、決して相手の目には美しく映らないと知りつつも、この時のナミは、それ以外にどうしようもなかった。

「辛い時にその笑顔で励ましてくれましたよね。いつも通り、今も可愛いです」

 ユウジの言葉に泣きそうになる。

 ふたりは別々の道を歩いて行った。

(これじゃ、いけない!)

 ユウジの影は思った。そして、影は咄嗟に動いた。

 通常、影はその実体の動きに追従する。一瞬の時差もなく、完全なる無時限差シンクロで。実はそのことは逆にも言えるのだ。つまり、影が動けば、実体も同時動作する。よく、スポーツ選手の勝利インタビューで、「あの場面でなぜあの動きができたのか分からないが、気付いたら、勝手に体が動いていた」というシーンがあるが、あれは、ほぼすべて、影が先動し、実体を動かしている時なのだ。

 ユウジの影はくるりと踵を返し、ナミの影に向かって走り出した。もちろん、ユウジがナミに駆け寄ることになる。

「えっ、えっ! なんだなんだ⁉」

 自分の意とは無関係に、いきなり走り出した身体に戸惑うユウジ。

 ナミの真後ろまで近づいた。ユウジの影が、左手をのばし、ナミの影の右手を掴む。(これでよし!)

 不意に右の手を掴まれ、ナミは驚いて振り向いた。

「ユウジくん!」

「あの……、ナミ先輩……、あの、その……」

 一番驚いていたのは、ユウジ本人だったろう。

「やっぱり、辞めるの止めます!」

 ナミの手のひらの柔らかさと温かさを感じながら、ユウジは言い足した。「ナミ先輩に、逃げた弱虫って思われたくないですから」

「そうだよ! それがユウジくんらしいって!」

 ナミは笑った。今度は本当に嬉しそうに。

「はい! でも、ちょっと気分転換が必要なんですよね。ナミ先輩、今度の休みの日、どこか一緒に遊びに行きましょうよ!」

 ついに言ったーっ! と心の中でユウジは叫んだ。

 

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