十六話
アカデミーへ連れられて行ったクライスト隊長はすぐにヘルマン院長に会うと、透明化薬を盗み、使用したことを素直に告白した。これに至るまでの経緯はこうだ――事件のあった五歳から犯人への恨みを一時も忘れなかったクライストは、魔法戦士になってからも引っ越しを繰り返し、犯人の行方を捜していたが、とうとう居場所を特定した。露天商として菓子を売り、平穏に暮らす犯人の様子を見て、クライストの中には燃えたぎる殺意が生まれた。だが警備隊長として務める彼には冷静さもあった。すぐに殺すのは簡単だが、それでは自分も罪に問われてしまう。親の敵に対して死んで償う気はさらさらなかった。そうならない方法はないものかと、クライストは犯人を見張りながら日々の任務をこなしていた。
そんな時にあったのがヒルデとレヴィンを監視する任務だった。透明化の禁術を使った研究をしているかもしれないとして、クライストは部下と共に確認のための監視を始めた。望遠鏡で窓から見えたのは何かの研究作業。若い夫婦は毎日部屋にこもってそれに没頭していた。特に夫のレヴィンは寝る間も惜しんで手を動かしていた。その様子を観察し続けたクライストは、やがて研究に禁術が使われていることを確信した。部下も同じように思い、クライストに報告をしましょうと提案したが、あえて監視を続けることにした。その時のクライストの頭にあったのは、透明化薬が自分の敵討ちに役立つということだった。それを手に入れるには透明化薬が出来上がらなければならなかった。それまでの時間を稼ぐため、クライストは報告せずに監視を続けたのだった。
レヴィンの研究は動物実験の段階に移っていた。さすがにこれ以上監視は続けられず、クライストは報告をせざるを得なかった。他に担当していた任務上、夫婦の連行は部下が行うことになり、透明化薬を手に入れる予定は少し先になった。それでもクライストに焦りなどなかった。三十年も待った身に数日の時間など、ほんの一瞬のようなものだった。
アカデミーへ連行されて来たレヴィンは、禁術を盗み見た罪を認め、研究の内容を明かした。取り調べをしながら没収した研究資料を調べるが、その中に透明化薬はなかった。監視時点では確かにあったはずで、この予想外の事態にクライストは計画を考え直すしかなかった。
しかし状況は好転する。取り逃がしていた妻のヒルデを見つけたが、彼女の身体は透明化していたという報告が上がってきたのだ。これを聞いたヘルマン院長はレヴィンに解除薬を作らせるため、その研究をさせることにした。その過程では検証のために必ず透明化薬を作る必要があるはずで、クライストにとっては絶好の機会を得ることになった。警備隊長としてレヴィンの研究室の様子を何度か見て、そこに透明化薬を見つけたクライストは、その日の夜、警備に立つ部下と交代すると、研究室に忍び込んで透明化薬を少量盗み取ったのだった。
これで誰にも知られず犯人に罰を下せる――そう意気込み、休職届けを出したクライストは早速透明化薬を飲んだ。実験段階の薬を身体に入れるのはかなり危険ではあったが、腹を壊そうと高熱が出ようと、透明にさえなれば耐えて見せるつもりだった。だがそんな心配はまったく要らなかった。皮膚はじわじわと色を失って透けると、やがてその輪郭はすべて消え失せてしまった。服を脱げば何の形も存在もない、透明人間がそこにはいた。想像通りのできに満足したクライストだったが、思わぬ欠点はないか調べるために数日間様子を見て過ごすことにした。しかし、その慎重な行動のせいで敵を討つ前にレイとヒルデに見つかってしまうこと、そして薬を飲めば死が待っていることなど、この時のクライストは思いもしていなかった。
「――私は死んでもいい。だが一年以内に、あのクズを裁いてほしい。私が生きている間に……今の望みは、それだけだ」
アカデミーの個室内で、服を着せられて拘束されたクライストは、部下だった魔法戦士に見張られながらそう懇願した。透明な表情は見えないが、ヘルマンはそこに厳しい目を向ける。
「経緯はわかった。事情もな……。しかしだからと言ってお前のしたことは許されることじゃない。窃盗に殺人未遂……これらは立派な犯罪で、アカデミー内で収めることはできない。悪いが保安事務所に連絡させてもらう。魔法薬を飲んだ状態のお前を突き出すのは少々気が進まないが……」
「好きなようにしてくれ。私はすべてに従う」
クライストは諦めたように言う。
「連絡の際には昔の事件のことも伝えておく。お前は犯人を知ってるとな。その先は捜査官の判断次第になると思うが」
「……感謝する……迷惑をかけて、申し訳なかった」
「まったくだ。新たに魔法戦士を雇わなきゃならなくなった。お前に並ぶ人材が見つかればいいが……ではな」
少し笑いながら、しかし別れを惜しみながらヘルマンは部屋を後にした。
四階の院長室へ戻ると、そこにはレイとヒルデが待っていた。
「……隊長に話を聞きに行ってたんだろ? どうだった?」
「もう隊長ではない。……保安事務所に連絡して、じき連行されるだろう」
「いいのか? 透明化薬や禁術のことが知られるかもしれないのに」
「それは私も心配することだが……説明を求められたら適当に言っておく」
「そんないい加減にやって大丈夫なのか? まあ、俺には関係ないからいいけどさ。……ところで親父、俺に何か言うことない?」
にやついたレイの目がヘルマンを見つめる。
「……クライストを捕まえた感謝の言葉が欲しいのか?」
「そうだね。でももう一つあるだろ?」
「感謝の他に何がある」
首をかしげる父親にレイは大きな声で言った。
「謝罪だよ! 俺が薬が盗まれたって言っても全然信じなかっただろ? でも実際はその通りだったんだ。もし俺が気付かなかったら、今頃街じゃ殺人事件が起きてただろうね。それを俺は阻止したんだよ? あの時否定して悪かったって、俺の探偵としての腕を認めてもいいんじゃないか?」
「おい、二つになってるぞ。お前の言葉を信じなかったのは謝るが、なぜ探偵として認めなきゃならないんだ。それはまた別だろう」
「別じゃないって。俺は探偵としてクライストの不審な行動に気付き、そして捕まえたんだ。そうだよね、ヒルデさん」
横にいたヒルデは小さく頷く。
「ええ、最初に気付いたのはレイさんよ。そこから調べて行ったら、ほとんどレイさんの予想通りだった。探偵として抜群の推理力を持ってる人よ」
「ほら、雇い主が褒めてくれたんだ。親父も認めて――」
「あーもう、うるさい! 用が済んだならさっさと帰れ! 君も、研究室へ戻って解除薬作成の手伝いをしたらどうだ」
「何だよ、怒鳴って追い出す気か?」
「そうだ。私には仕事があるんだ。だから出て行け。ほらほら」
ヘルマンは両手を振って、まるで鶏を追いやるかのように二人を部屋から追い出した。
「お前の顔はしばらく見たくない。当分来なくていいぞ」
ヘルマンはそう言って部屋の扉をバタンと閉めた。
「……意地でも探偵業を認めない気か。まったく」
呆れながらレイは溜息を吐く。
「院長は認めなくても、私は優秀な探偵だと認めてるわ。レイさんのおかげで夫にたどり着いたし、今回のこともレイさんじゃなきゃ明るみに出なかったかもしれない。本当にありがとう」
「感謝の言葉は励みになるよ。……ヒルデさんとレヴィンさんは、これからが正念場だね」
これにヒルデは少し暗い表情になる。
「そうね……一年で解除薬作成……かなり難しいだろうけど、レヴィンと一緒に頑張ってみるわ。レイさんとは、もしかするとこれが最後かもね」
寂しげな笑みを浮かべたヒルデにレイはすぐに言った。
「駄目だって。諦めるのはまだ早過ぎるよ」
「別に諦めたわけじゃないけど、そうなることもあるかもしれないから……。あ、そうだ。今度こそ報酬を渡さないと――」
ヒルデは懐を探ると、そこから金の入った小さな布袋を取り出した。
「依頼を果たしてくれてありがとう。盗難事件を解決してくれた分だけ、ちょっと多めに入れておいたわ」
「それは依頼じゃなくて、俺が勝手にやったことだ。提示額より多く貰うのは――」
「まあいいじゃない。感謝の気持ちだと思って受け取って。それで困ることなんてないでしょ?」
「そりゃ、そうだけど……本当にいいの? 後で返せって言われても返さないよ?」
ヒルデはにこやかにどうぞと差し出す。ためらいを見せながらもレイはそれを受け取った。
「……じゃあ私、行くわね」
「ああ……最後まで諦めるなよ」
「だから諦めてないってば。気を付けて帰って」
明るい声で言ったものの、その端々にうかがえる不安や沈痛さをレイは見逃していなかった。そんなことは知らずにヒルデは平静を装って研究室へ戻る。自分で言った通り諦めてはいない。わずかな希望も持ち続けている。だが現実的には困難なことだと理解していた。レヴィンといられるのもあと一年――突然突き付けられた寿命に覚悟をしなければならないが、心は平静を装うだけで精一杯だった。その奥には大声を上げたいほどの迫る死の恐怖がある。しかし叫ぼうとも逃げ出そうとも無意味だとわかっているヒルデは、重くなりそうな足で研究室へ向かう他なかった。わずかな希望にすがりながら……。
それから数週間後、一連の事件の後始末も進み、余韻の騒がしさがアカデミー内から消え始めた頃、彼は院長室を訪れ、その扉から顔をのぞかせた。
「いる?」
その声に机に向かっていたヘルマンは顔を上げると、眉をピクリと動かし、息子を睨み付けた。
「……しばらく顔は見たくないと言ったはずだぞ」
「親子なのにつれないな。今日はいい物を持って来たんだ」
レイはヘルマンの前までスタスタとやって来る。
「部屋に入る許可は出してない」
「これ見てもそんなこと言える?」
レイは得意げな笑みを浮かべると、上着のポケットから小さなガラス瓶を取り出し、机に置いた。
「……何だこれは」
「解除薬だよ」
「解除薬? 何の」
「今一番必要な解除薬って言ったら、一つしかないだろ」
ヘルマンは眉間にしわを寄せながら小瓶をじっと見つめる。
「……まさか、レヴィン・レーワルトが作った魔法薬の、か?」
「他にあるの?」
どうだと言わんばかりのレイと小瓶を、ヘルマンは交互に何度も見つめた。
「う、嘘を言うな! 研究は今も続いてるが、完成までにはまだ程遠い状況だ。それがなぜ、お前が先に作ることができたというんだ!」
「俺の手元には万能な生き物がいるからね」
ハッとしたヘルマンの目がレイを見やる。
「……ピプラに聞いたのか? しかし聞き出す対価は相当な物を要求されただろう。それを手に入れたのか?」
「解除薬があるってことは、そういうことだ」
ヘルマンは前のめりになって聞く。
「解除薬の作成方法はどんなだ? 使う素材は何だ? 何をどのぐらい――」
レイは手のひらを向けて父親の言葉を止めた。
「それは教えられないね」
「何? じゃあなぜこれを見せた。単に見せびらかしに来たのか?」
「違うよ。解除薬はあげるけど、作成方法は教えないだけだ。それなりに苦労したからね」
「出し惜しみする気か……いくらで売るんだ」
「金や欲しい物を出されても、悪いけどこれは教えるつもりはない。知りたかったら自分達で研究してくれ。ヒルデさんとレヴィンさん、今も頑張ってるんだろ?」
「もちろんだ。毎日頭を抱えながら作業してる」
「二人にこの解除薬の成分を分析してもらえば、作成方法も見えてくるかもね。それでもわからなかったら、俺が作って売ってもいいけど?」
「ふん、協力的なふりをしても、結局金か……だがなぜ解除薬を作ろうと思ったんだ。私に恩でも売りたかったのか」
レイは鼻の頭をポリポリとかいて言う。
「そんな下心はないって。ヒルデさんのためだよ。彼女が死ぬのをどうにかしたかったから……それと、報酬を多めに貰っちゃってね。その分のお返しでもある」
「随分と太っ腹なお返しだ。あの二人は大喜びするだろう」
置かれた小瓶をレイはずいと差し出す。
「これを飲ませて、早く喜ばせてやってくれ」
ヘルマンはそれを手に取ろうとしたが、そうせずレイに押し返した。
「これはお前が持って来た物だ。お前が直接渡せ」
「え、いいの?」
「私の手柄だと勘違いされるのも困るからな。……付いて来い」
椅子から立ち上がったヘルマンは真っすぐ部屋から出て行く。その後をレイは追った。
警備の魔法戦士に挨拶をされ、二人は研究室の扉を叩いて入った。
「院長、どうされましたか?」
研究作業の真っ最中だったレヴィンは、一時手を止めてヘルマンを見る。そのすぐ横には顔の見えないヒルデも立っていた。だがレイの姿を見ると嬉しそうな声を上げる。
「……レイさん! こんなすぐ会えるなんて思わなかったわ」
「状況はあまり変わってないらしいね」
「ええ、いろいろ試して頑張ってはいるんだけど……」
吐息混じりの暗い声には、先の見えない不安と日々の疲労が感じられた。
「そんなヒルデさんに、こんな物を持って来たんだ。……はい、解除薬だ」
見せられたガラスの瓶を夫婦は揃って見つめる。
「解除薬って……え?」
「あなた達が作ろうとしてる物、そのものだよ」
ヒルデとレヴィンはお互いの顔を見合い、そしてレイを見る。
「……あなたが、作ったんですか?」
「ど、どういうこと? レイさんがどうして……」
「説明するよ。これは――」
レイはピプラのことを話し、作った経緯を簡単に説明した。ヒルデはこの話が冗談などではなく、本物の解除薬を作ったのだとわかると、見えない目を見開き、興奮したように聞き返した。
「――それじゃあ、私のこの身体は、元通りになって、一年後に死ぬこともないのね?」
「ピプラの答えに嘘はない。その通りに作った薬だ。飲めば透明化が治るはずだ」
レイは小瓶を渡し、促す。
「……さあ、飲んでみて」
ヒルデは小瓶の蓋を取り、中をのぞく。匂いはなく、薄紫色の液体が揺れている。これが求めていた解除薬――興奮で震えそうな手を懸命に抑えながら、ヒルデは小瓶を口元へ持って行くと、そこへ数滴流し込んだ。ゴクリと飲むと、かすかな甘味を感じながら喉から全身へ波立つような感覚が広がって行った。
「……ヒルデ?」
レヴィンに呼ばれヒルデは振り向いた。そこに見えた顔には少しずつ肌の色が戻り始める。目、鼻、口、髪と、それらが浮かび上がるように戻り、輪郭もはっきりしてくる。
「私の顔、どうなってる……?」
不安そうにヒルデは聞く。
「すごい……戻った……元通りになった!」
「もう透明じゃない?」
「うん、君の顔がはっきり見えるよ! 手袋を外してみて」
言われてヒルデは両手の手袋を外す。と、そこには見慣れた自分の手があった。手のひらと甲を交互に確認して、どこも透けていないことに喜びを込み上げさせる。
「……レヴィン! 戻ったわ! 私、元の身体に戻れた!」
「よかった! これで君はもう死ななくて済むんだ!」
二人はお互いを引き寄せ合うと、キスを交わし、力いっぱい抱き締め合い、喜びと温もりに浸った。
「嬉しい気持ちはわかるが、いちゃつくのは後にしてもらえるか」
院長の冷静な声と視線に二人は慌てて離れる。
「し、失礼しました。つい……」
レヴィンが恥ずかしそうに謝る。
「いいじゃないか親父、水を差さなくたって」
ヘルマンは横の息子をじろりと見やる。
「喜び終えるのを眺めているほど、私は暇じゃないんでな。……レヴィン・レーワルト、これで君が、アカデミーで研究する理由はなくなった」
ハッとした表情でレヴィンはヘルマンを見た。
「じゃあ僕は、家へ帰れるんですか? それとも禁術を盗み見た罪を問われて……」
「君は自分のしたことを隠さず、素直に認め、白状した。態度にも反省を感じられたし、家へ帰りたいと言うならそうしてもいい」
「い、いいんですか? 僕のしたことを許していただけるんですか?」
「甘い判断だと言われそうだが、二度と同じ過ちをしないと誓うなら許してやってもいい」
レヴィンの顔が嬉しさに明るくなる。
「もちろん誓います。自分が馬鹿だったと今ならよくわかってます。盗んだもので成果を出したって、それは本当の実績とは呼べない。家へ帰ったら自分を見つめ直すつもりです。院長の寛大なお心に感謝いたしま――」
「その前に一つ、提案がある」
「……提案?」
ヘルマンは軽く咳払いをしてから言った。
「今回、このような形で君を留めたわけだが、その間、研究者としての君について調べさせてもらった。目立つ実績はまだないものの、研究技術についてはいくつかの発見をしているそうだな。それらは基礎研究に大いに役立つ技術だと聞いてる」
「そう仰っていただけると、光栄です」
「そこで提案なんだが、君さえよければこのままアカデミーで研究を続けてみないか」
思いもしない言葉をかけられ、レヴィンは思わず息を呑む。
「……それは、つまり、どういう……?」
「簡単に言えばアカデミーの研究員にならないかということだ」
驚きのあまりレヴィンは顔を引きつらせながら聞いた。
「ほ、本気ですか? 僕はここで研究ができるほどの能力は……」
「そんなことはない。実際、君は透明化薬を独りで作ってしまったじゃないか。こんなことは万人にできることじゃない。まあ、禁術を使用した違反行為ではあるが……それを抜きにしても、君には潜在する能力がある」
「で、ですが……」
戸惑いを見せる夫に、ヒルデはその手を握って言った。
「何を迷うことがあるの? アカデミーの研究員になるのは、夢の一つだったじゃない」
「そうだけど……こんなことがあっていいのかな」
「いいに決まってるでしょ! 院長が直々に言ってくれてるのよ? あなたはここの研究員になれるの!」
ヒルデに強く言われ、レヴィンはようやく笑顔を見せると、ヘルマンに控え目な口調で聞いた。
「こんなこと言うのはおこがましいとわかってるんですが……僕が研究員になったら、ヒルデを助手として採用してもらえませんか? 彼女にはいつも側にいてもらいたいんです。僕が間違ったことをした時に止めてもらうために」
「いいだろう。研究が捗る環境を整えるのも大事なことだ。夫婦で励むといい」
「すごい……おめでとうレヴィン!」
ヒルデは感激して夫に抱き付く。レヴィンも喜びの力で妻を抱き締めた。
「だからいちゃつくのは後にしろと言っただろう……研究員としての最初の仕事は、その解除薬の分析からになると思うが、詳しいことはまだ未定だ。それが決まり次第、君達には知らせる。それまで思う存分いちゃつくといい」
ヘルマンの呆れた目に気付いて二人は身を離す。
「す、すみません、また……院長、ありがとうございます! こんなに嬉しいことはありません」
笑顔が溢れる二人に、レイもニコニコして言う。
「ヒルデさん、よかったね」
「レイさん、これはあなたのおかげでもあるわ。あなたに助けられたから私達はここにいられる。これからもレヴィンの目指す研究を手伝うことができる……心からのお礼を言わせて。本当にありがとう!」
ヒルデの差し出した手をレイはギュッと握り、握手をする。
「こっちこそありがとう。ヒルデさんが雇ってくれてなかったら、俺も貴重なものを手に入れてなかったよ」
「貴重なもの……? って何のこと?」
「個人的なことだ。気にしないで。何か魔法絡みの問題が起きたら、また俺に相談してよ。全力で解決するから」
「そうするわ。レイさんに出会えてよかった。またいつか会えるといいわね」
「その時はお茶でもしよう。レヴィンさんも一緒に」
言葉と笑顔を交わし、二人は再び別れた。次に会うのはいつになるかわからないが、五年、十年先だろうと、お互い忘れることはないだろう。今回の出来事はそれだけ二人にとって印象深いものだった。取り分け、レイにとっては。
「――これで荷物は最後だな。じゃあ行くか」
幌の付いた荷台に大量の野菜を載せ終えたひげ面の男性は、前へ回って馬を一撫ですると、馬車に乗り手綱をつかむ。だがその時、後ろから物音がしたと同時に、荷台が小さく揺れた気がして男性は振り返った。
「……ふむ」
荷台の様子を確かめるが、特に異変はなく、男性は気にせず荷馬車を走らせた。載せた荷物が増えているとも知らずに。
気付かれない荷物は、そうして目的地方向へ行く馬車を乗り継ぎ、自分の住む街に到着すると、そこから歩いて森の中へ向かった。そしてそこに隠された小さな家に入る。
「ただいま」
扉を開けて入って来た顔の見えない人物を、薄桃色の魔法生物はつぶらな目でじっと見た。
「……いつもの姿はどうした」
「すごいな。透明なのに、俺がレイだってどうしてわかった? あ、もしかして声か?」
そう言いながらレイは机に置かれていた数本のガラス瓶から一本を取り、その中の液体を飲んだ。すると見えなかった顔が見る見る浮かび上がり、姿は元通りに戻った。
「声を出さなかったら俺だってわからなかっただろ」
「……それは、質問か?」
これにレイは面倒くさそうに顔をしかめると、手を振って話を切った。
「お前には礼を言っておかないとな。手掛かりをくれて、ちゃんと役立ってくれたから。おかげで貴重な禁術を覚えることができた」
レイはピプラににこりと笑いかける――彼はヒルデの依頼でアカデミーに出入りしていたわけだが、その依頼とは別に、実は密かな目的を持っていた。それは新たな魔法の習得だ。レイは魔法に関する知識や技術をすべて自分のものにしたい欲求があり、透明化したヒルデを見た時、その使われた魔法をどうしても手に入れたいと思った。そしてアカデミーにたどり着き、それが禁術だと知らされた。誰も使うことが許されない禁術……レイの欲求がさらに刺激される事実だった。
廊下や院長室など、一人になった時にレイは動いた。禁術に関する資料を探し回り、そこで得た情報を自分なりに組み立て、魔法を作り上げた。こうなるともう独自の魔法と言ってもいいかもしれない。ちなみに解除薬を作れたのも探し回ったおかげだった。日頃から貴重そうな品や植物を集めていたレイは、院長室に飾られていた植木に目を付けていた。触るなと怒鳴るほど貴重なものなら少し欲しいと、レイは実のなった枝を短く折り、こっそり持ち帰ったのだ。その後、ピプラに作成方法を聞く対価を求められた時、聞き慣れない木の実を言われて調べてみると、それはまさに持ち帰った植物だとわかり、無事解除薬の作成方法を知ることができたのだった。そんなことをされていたとは、父親のヘルマンは今も知らないでいる。
品行は別として、魔法を作り出せる能力と勘を、ヘルマンは高く評価しているわけだが、レイの目指す先に研究員になる道はない。一つの魔法を追究するより、多くの魔法を扱い、さらには自分が考える究極の魔法を生み出す――それがレイの最大の夢だった。だがその思いに野心などよからぬ考えはない。究極の魔法で何かしたいことなどはなく、ただの自己満足のためで、それ以上でもそれ以下でもない。レイは言わば魔法収集家であり、魔法に対して純粋な気持ちを向ける魔法オタクでもあるのだ。彼は愛する魔法のためなら、どんな苦労もいとわないだろう。
「禁術なんて、一生お目にかかれないと思ってたけど、地道に頑張ってれば自分のものにできることもあるんだな。この調子でまた手に入らないかな……」
「……そんなもの、覚えてどうする」
「誰も使ってない魔法だぞ? 俺しか使えないんだ。すごいことじゃないか」
ピプラは黒い目をクリッと動かし、レイを見上げた。
「……欲を追い過ぎれば、不幸になる」
「ほお、お前って説教もできるのか……でもまあ、確かにその通りだ。欲深人間になったら終わりだ。無理せず、ほどほどに頑張るよ。目標を叶えるためにね」
そう言ってレイは机に向かうと、紙やペン、植物や鉱石を取り出し、何やら作業を始める。その様子をピプラは横からしばらく眺めていたが、視線を正面に戻すとゆっくり目を閉じた。レイの努力と熱意が果たして夢に届くのか――それはピプラしか知らない、またべつの話だ。
クリア! 柏木椎菜 @shiina_kswg
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