十五話
王立図書館――ここには古今東西のあらゆる書物や文献が収められており、知識を深める場として勉強熱心な者達が多く訪れる。文学、政治、科学はもちろん、世界の歴史も調べられるが、ここ地元の歴史も当然知ることができる。さらに言えば王都内での事件や祭りなど、小さな出来事さえも記事として残されている。人間の足跡を文字にして後世に残す――それが王立図書館の役割でもある。
静まり返った広い館内をレイは歩き回る。目的は三十年前の死亡記事。残されているのかわからないが、あると信じて地元記事が収められた本棚を順番に見ていく。昔の記事にはヤギの盗難事件、偽魔法使いによる詐欺事件、二日後に見つかった迷子のことなど、本当に小さな出来事までが残されている。王国の歴史には載らない庶民の記録。ヤギが盗まれたことが残されているなら、夫婦が心中したことも十分残されている可能性はある。
「年代的には、この辺りだと思うんだけどな……」
三十年前の記事がちらほら出てくるようになり、レイはまとめられた記事の束を確認しては次の束に移る。そうして一時間ほど探し続けていた時だった。
「……あった」
記事を凝視する青い目が確かめるように何度も文章をなぞる。より明るいところで読もうとレイは光の差し込む窓際の机へ移動した。
「王国歴六百七十三年、六月十日、王都西区の民家で心中事件が起きた――」
記事によると、息子と三人で暮らしていたクライスト夫婦が住居の部屋で血を流して死んでいたという。捜査と検視の結果、ヘンリ・クライストが妻をナイフで刺し殺し、その後自分の胸を刺して死んだと見られ、無理心中をはかったと結論付けた、とある。
「……本当に心中だったのか……」
記事には続きがある。夫婦の一人息子であるマキシミリアン君は、捜査官に両親は男の人に殺されたと訴えたようだが、精神的に不安定であり、他殺の証拠もないため、マキシミリアン君を保護して医師に診せることにした、とある。
「幼い隊長は、両親が死ぬところを目撃してたのか……?」
記事はこう締めくくられている。夫婦は周囲にわからない苦悩を抱えていたのだろうが、何よりも気の毒で心配なのは残されたマキシミリアン君だ。両親を失ったことで言動が不安定になっているようだが、辛い時を乗り越え、どうにか希望を持って前に進んで行ってほしい――
読み終えるとレイは腕を組んで宙を睨んだ。
「一、二歳ならまだしも、五歳の子供なら、両親がどうやって死んだのか理解できそうだけど……本当に精神が不安定だったのか?」
隊長が目撃していたのなら、大きな衝撃を受けて動転するのもわかる。しかし男に殺されたと嘘までつくだろうか。そうだとしても一体何のために犯人がいると主張するのか。
「……犯人は、実在するんだ」
おそらく隊長は犯人とその犯行を目撃していたのだ。しかし捜査官は動転した子供の言葉を信じず、自分達の出した結論を押し通した。無理心中と言いながら一人息子を残したことが不思議だったが、これが他殺だとすればつじつまが合う。隊長は事件の目撃者であり、唯一真相を知る人物――
「だとすると……まさか隊長、そうなのか?」
レイは記事の束を棚に戻すと、足早に図書館を出た。
「いろいろなことがつながってくるな……間違いならいいんだけど」
犯人がいるという訴え、家族の話に黙る隊長、盗まれた透明化薬、引っ越しを繰り返した痕跡――それらがレイの頭の中で動きながら結び付いていく。だが確信はない。それを得るには本人に直接話を聞いてみるしかないだろう。
アカデミーに戻ったレイは一気に四階まで駆け上り、研究室の前までやって来た。
「ヒルデさんを呼んでくれないか。話があって」
警備をする魔法戦士はわかりましたと言うと、何の疑いもなく研究室の扉を開けてヒルデを呼んだ。するとヒルデはすぐに出て来てレイに聞く。
「……知りたいことはわかったの?」
「ああ。こっちで話すよ」
そう言ってレイは研究室から離れ、廊下のベンチにヒルデと共に座った。
「隊長のご両親が亡くなったことを調べてたのよね?」
「その記事を見つけて読んだんだけど、当時の隊長は心中じゃなく、男に殺されたと訴えてた。でもそれは捜査官達に受け入れられなかったみたいだ」
「殺人事件だというの? だけど五歳の子供の言うことじゃ誰も……」
「そう。信じにくい。しかも両親が死んで衝撃を受けた状態だ。周囲はますます疑い深くなるだろうね。だけどもしそれが事実だったらどう?」
「どうって……?」
「隊長は両親が男に殺される瞬間を見てた、唯一の目撃者ってことだ」
「犯人がいるのに捜してももらえないのは、さぞ悔しいでしょうね」
「うん。悔しくて、犯人を恨んでるはずだ。大人になった今も」
ヒルデは見えない目でレイを見やる。
「つまり、あなたはどう考えたの?」
「隊長は自分の手で犯人を裁こうとしてるのかもしれない。そのために透明化薬を盗んだ」
ヒルデは黙り込み、しばし考えてから口を開いた。
「そんなこと、あり得るの? だって何十年も昔よ? 小さい頃に見た犯人を特定するなんて――」
「両親が殺された衝撃的な事件だ。五歳だったとは言え、その光景を鮮明に覚えててもおかしくはない。あるいは、その犯人の男をもともと知ってたとか。それなら特定する手間はない」
「犯人を捜して、透明化薬を盗んで、それで隊長はどうする気なの?」
「捕まえるか、殺人の証拠を見つけるか、殺して復讐を果たすか……でも透明化薬を盗んだのであれば、殺すのが有力だな。透明になれば不意を突けるし、誰にも目撃されることはないから」
「数十年越しの復讐……それが隊長の目的?」
「それを今から確かめに行く。全部俺の妄想で済めばいいけど……ヒルデさんはどうする? って言うか、アカデミーの外へ出てもいいの?」
「残念ながら、許可を得た付き添いがいないと出られないわ。私も一緒に話を聞きに行きたかったけど……」
言葉通り沈んだ声のヒルデに、レイはパッと笑って言った。
「なら大丈夫だよ。俺、ヒルデさんのお目付け役だから」
「でもそれは出任せじゃ……」
「警備が信じれば出任せじゃなくなる。別に悪いことしに行くわけじゃないんだ。行きたいなら一緒に行こう。ヒルデさんがいてくれれば、俺も何かと安心できるし」
「安心じゃなくて、役に立つから、でしょ?」
「……あ、やっぱばれてたか」
ヘヘッと笑いごまかすレイにヒルデも笑みを浮かべる。
「話を聞くだけだから今回は役に立てないと思うけど、でも行くわ。薬のことが関わってる以上は。だけど問題になったら後始末はお願いね」
「わかってるよ。じゃあ行こう」
二人は階段を下りてアカデミーの入り口へ行くと、そこに立つ警備に外出許可を得ていると嘘を伝え、街中へ出て行った。
クライスト隊長の住む家はアカデミーから歩いて三十分ほどの場所にある。広場を抜け、商店通りを過ぎ、やがて人影がまばらになった住宅地に入る。ヒルデが調べた住所を頼りに道なりに進んで行くと、ようやくそれらしき民家が見えて来た。
「……あの茶色い三角屋根の家がそうかしら」
十字路の角に建つ、小さな家を指差す。石造りの少し古そうな家だ。
「いるかな……」
二人は玄関の前に行くと、レイが扉を叩く。
「すみません。クライスト隊長、聞きたいことがあって来たんですが……いますか?」
コンコンと何度も扉を叩いて呼ぶが、その奥から人の気配は感じられない。
「……留守かな」
「しばらく待つ?」
「戻るかわからないからな……こっちから捜してみるか」
するとレイは玄関から離れ、そこから家の横へ回り込む。
「ど、どこに行くの? まさか窓から忍び込む気じゃないでしょうね」
「空き巣の真似なんてしないよ。……お、あった」
レイは狭い庭にまとめて置かれていたゴミを見つけると、そこを漁り始めた。
「……空き巣はしないけど、浮浪者の真似はするの?」
ヒルデは怪訝な声で聞く。
「違うよ。隊長の使った物を探してるだけだ。割れた食器とか、破れた服とか」
「ああ、それを使って探索魔法で捜すってことね。でもゴミだと捜しづらいんじゃない?」
「まあね。持ち主を捜すなら毎日身に付けるような私物がいいんだけど、長く捨てられた物でも捜せないわけじゃない。その代わり、精度は落ちるけど」
そう言いながらレイはゴミの中から汚れてボロボロになった雑巾を引っ張り上げた。
「ここまですり切れて汚れたってことは、それなりの回数使ってたってことだよな? ちょっとやってみるか」
握った雑巾にもう一方の手をかざし、レイは集中する。
「……どう?」
ヒルデの問いかけに答えず、レイは黙って集中し続ける。それが二分ほど続くと、レイは口を開いた
「……ぼんやりとだけど、隊長の気配を感じた」
「どこにあったの?」
レイは東の方向を指差す。
「あっちだ。そう遠くないと思う。王都は出てないはず」
「移動しちゃう前に早く見つけないと。行きましょう」
レイに先導され、ヒルデは気配のある東のほうへ向かう。が、ここでふと気付く。
「……でも私、隊長さんの顔を知らないわ。レイさんは知ってるの?」
「俺も知らない」
「え? じゃあどうやって――」
「俺には探索魔法がある。この雑巾から感じ取れる気配とまったく同じ気配の男を捜せばいいだけだ。だから見つけられるよ」
それを聞いて一安心したヒルデは、レイに付いて気配の発するほうへ向かって行く。
「……人通りのあるところね」
たどり着いたのは、数軒の店が並ぶ通りだった。だが商店通りほどの数はなく、買い物客もそれと比べれば少なめだが、露店や歩いて回る物売りなどもいて、それなりに騒がしく活気のある場所だ。
「この辺りなのよね」
「ああ。もう一度探ってみる」
そう言ってレイは雑巾に手をかざし、再び気配を探り始めた。
「……移動はしてない。やっぱりこの近くにいるよ」
ヒルデは周囲を眺めた。店から出て来る者、商品の品定めをしている者、道の隅で休憩している者……様々な人がいる中を、魔法戦士らしい容姿の男性を捜して視線を動かす。レイも気配を特定しようと集中し続けるが、その表情は険しい。
「……どうしたの?」
「おかしい。絶対近くにいるはずなんだけど、気配をたどってもそれらしい人がいないんだ」
「気配はどこ?」
「あっち。露店のほう……」
示した先には客がまばらな露店があり、中年の男性がおやつにちょうどよさそうな小さな焼き菓子を売っている。その周囲を見てみるが、女性や親子連れの姿が多く、男性を見つけても高齢だったり急がしそうに働いている者ばかりだった。
「あの辺りから気配を間違いなく感じるんだけどな……」
首をかしげながらもレイは尚も集中して捜し続ける。魔法に長けたレイが間違えるとは思えず、示した近くに必ず隊長はいるはず――そう信じてヒルデは目を皿のようにして捜した。露店の周り、街路樹の陰、道の反対側――
「……ん? あれは……?」
ヒルデはある場所で目を止めた。道の角に積まれた大量の木箱。その陰に何かほのかに光る物体を見つけ、目を凝らす。だが今いる場所からは全体像が見えず、少し移動して確認してみる。と――
「……ヒルデさん? どうかした?」
突然背を向け、顔を伏せる行動を取ったヒルデにレイは声をかけた。
「あ、あそこに、男の人が、裸で……!」
動揺した声でヒルデは指で示す。
「え? 裸?」
レイは積まれた木箱のほうを見る。だがそこに人影はない。
「誰もいないけど」
「い、いるじゃない! ほら、木箱の陰に隠れるように立って……」
そちらをなるべく見ないようにヒルデは指で強く示す。その先をレイはたどって見てみるが、やはりどこにも人の姿はなかった。
「……あの木箱だよね。やっぱりいないけど」
「そんなはず……ちゃんと見て! 一番奥の陰、光を発してる男の人がいるじゃない」
ヒルデはためらいながらも、またそちらへ目を向けた。そしてそこにしっかり男性がいるのを確認する。
「光も男も、何もないけど」
「どうして? 何で見えないの?」
歯がゆそうなヒルデにレイは困惑の表情を浮かべる。
「見えないものは見えな――あ、まさか」
ハッと気付いたレイは木箱の周囲の様子を見て言う。
「見えないのは俺だけじゃない。裸の男があんなところにいれば、通行人はすぐに騒ぎ出すはずだが、そんな様子は微塵もない。気付いてるのは今、ヒルデさんだけだ」
「あの人、私にしか見えてないの? 一体何で……」
「理由はわからないけど、想像するにヒルデさんも透明化してるからなんじゃないか? 俺とヒルデさんの大きな違いって言ったらそれぐらいしかない。そして男とヒルデさんに共通するのは、透明化だ」
これに息を呑んだヒルデはレイを見つめる。
「もしかして、あの人が……?」
「ああ。おそらく隊長だ。透明化薬は俺が疑った通り、外へ持ち出されてたってことだ。しかも飲んで使われてる。どうりで気配を追ってもそれらしい人がいないわけだ。透明じゃ見つかりっこない」
「隊長さんは透明になって一体何をしてるの? 声をかけて話を聞かないと――」
「いや待って。裸になってるってことは、誰にも見つからずに何かしようとしてるはずだ。しばらく様子を見てその目的を探ろう」
「でもレイさんは見えないから様子なんて……」
「うん。だから代わりにヒルデさん、頼むよ」
「わ、私が? だけど向こうは裸で……それをずっと見てるのは……」
恥ずかしがるヒルデにレイは真面目に言う。
「そんなこと言ってる状況じゃないんだ。透明化薬が盗まれたとわかった今、隊長から目を離すことはできない。それを見れるのはヒルデさんしかいないんだから。怪しい動きがあったら俺に教えてほしい」
ためらいはあるも、確かにレイの言う通りであり、ヒルデは小さく頷くしかなかった。
「……わかったわ。動きがあったらレイさんに伝える」
ヒルデは気持ちを整えると、隊長と思われる男性がよく見える場所へ移動し、その様子を眺めた。隊長らしき裸の男性は先ほどから木箱に身を隠すように立って、そこからある一方だけを見続けていた。まさか透明になった自分に気付く者などいないと思っているのか、離れたところから見るヒルデにはまったく気付いていないようだった。
「隊長は木箱の陰に隠れて何してるんだ?」
レイは向こうに不審がられないよう、そっぽを向きながら聞いた。
「何か見てるみたいだけど……」
「何かって何?」
「近くの露店のほう……その方向をずっと見てるわ」
男性の視線の先には焼き菓子を売る露店、そこにいる数人の客、その前を通り過ぎて行く人々ぐらいしか見当たらない。
「まさか露店の菓子を盗み食いする気じゃないだろうな」
冗談めかしてレイが言う。
「だとしたら、あの焼き菓子が死ぬほど大好物なんでしょうね。透明化薬を盗むほどに」
ヒルデは笑いながら返す。だが男性の視線は露店の方向から少しも動かず、本当に盗み食いでも狙っていそうな気がしてくる。一体何を見ているのか――変わらない状況が二十分ほど続いていた時だった。
「……あ、動いた」
ヒルデは思わず声に出す。ずっと隠れていた男性はおもむろに動くと、木箱から離れて露店のほうへ向かい始めた。
「露店に向かったわ」
「本気で盗み食いか? ちょうど店主が店を空けたところだぞ」
見れば露店の中に人はおらず、店主の中年男性は道を歩いて路地へ曲がろうとしていた。透明な男性は無人の露店に近付くが、その前を素通りしてさらに奥へ歩いて行く。盗み食いではなかったが、しかしその足は中年男性と同じ路地へ入って行った。
「店主と同じ路地を曲がって行ったわ。追わないと」
「先導してくれ。付いて行く」
ヒルデが先行し、二人は小走りで路地を曲がった。左右は建物と塀が並び、人影があまりない静かな道だ。その中を全身をぼんやりと光らす裸の男性はずんずんと進んでいた。二人は距離を取りながらその後を慎重に追って行く。
「……何だか、前の店主を追ってるみたい」
男性はその先を行く店主と一定の距離を開けながら同じ道を進んでおり、どう見ても尾行しているようにしか見えなかった。
「嫌な予感がするな……危なそうだったらすぐに教えて」
二人は小声で言葉を交わし、ヒルデは前を注視しながら歩き進む。
すると店主が右へ曲がり、そこにあった家へ入ろうとした。それを見た裸の男性は一気に距離を詰めると、背後から店主に両手を伸ばした。
「店主がつかまれた……レイさん!」
「やばい、止めないと!」
「私が引き剥がすわ」
ヒルデは走り出すと一直線に裸の男性の元へ向かう。
背後から突然首根っこをつかまれた店主は慌て驚き顔を振り向かせるが、そこに人影はない。だが首には確実につかまれる感触があり、この理解できない状況に頭を混乱させていた。
「なっ、何なんだ、これは……」
「お前には、人に恨まれる覚えがあるだろう……?」
耳元でそう囁かれ、店主は目を白黒させながらその場を逃げようとするが、首根っこをつかむ力がそれを許さない。
「ひぃ……だ、誰……」
「お前に殺された無念、一時も忘れたことはない」
これに店主の顔は見る見る青白く変わり、呼吸は浅く小刻みに繰り返される。
「まさか、あの時の……ナイフで……」
「そうだ。お前が殺した夫婦の――」
「その手を放して!」
いきなり聞こえた知らない声に裸の男性は視線を向ける。と、勢いよく走って来たヒルデは首根っこをつかむ手を迷わず押さえ、店主から引き離そうとする。これに今度は裸の男性が驚く。
「どういうことだ……どうして、私のことが……」
動揺した口調の男性を見てヒルデは言う。
「あなた、クライスト隊長でしょ? この人をどうするつもりだったの?」
力強い視線はしっかり男性の目をとらえ、その存在を認識している。自分は見えない存在と思っていた男性はさらに驚き動揺を見せる。
「女……お前は、一体……」
「あなたと同じように、透明化薬を飲んだ者よ。不思議だけど、飲んだ者同士だとお互いの姿が見えるみたい」
「何……?」
「何をする気だったか知らないけど、もう悪いことはできないわよ」
呆然とする男性の隙を突き、ヒルデは首根っこをつかむ手を引き剥がす。その途端、自由になった店主は腰を抜かしたように地面に倒れ込み、怯えながら家の壁際まで避難した。
「レイさん、隊長さんを捕まえたわ。こっちに来て」
呼ばれたレイは何も見えない姿に戸惑いの目を向ける。
「そこに、隊長がいるのか? どんな状態?」
「私の目の前で右手をつかまれて立ってるわ」
「そう……隊長、あんたにはいろいろ話を聞かなきゃならない。アカデミーまで来てもらうよ」
「………」
「聞いてるのか?」
黙る隊長にレイは溜息を吐く。
「今さら存在を消したって無意味だ。あんたはもう見つかったんだから」
これに隊長はフッと鼻で笑う。
「見つかったのは、この女にだけだ。お前には今も私のことが見えていないだろう」
「確かにそうだけど、でも存在は――」
その瞬間、隊長はヒルデを突き飛ばすと、続けてレイに体当たりを食らわし、猛然と駆け出した。
「に、逃げたわ!」
レイは辺りに目をやりながら聞く。
「逃げた? ど、どっちに!」
「向こうよ! あっちのほう!」
ヒルデは路地を指差すが、当然レイは目で追うことはできない。
「俺じゃ見えない! ヒルデさん、追って!」
「私じゃ追い付けないわ! ……レイさん、魔法で止めて!」
「見えないのにどうやって――」
言葉を聞き終える前に、ヒルデはレイの右腕をつかんで道の真ん中に立たせると、逃げる隊長を狙ってその手を向けた。
「狙いは私がつける。早く止めて!」
意図を瞬時に理解したレイは口角を上げて言う。
「わかった……頼むぞ!」
ヒルデがつかむ右手から魔力の塊が飛び出す。キラキラと光を放ちながら飛んで行くのは姿の見えない隊長の走る背中。ヒルデの狙い通り、レイの放った魔法は透明な背中のど真ん中にぶつかると、その動きを鈍らせ、やがて身体の動きを止まらせた。
「う、くっ、あいつ……魔法使いだったか」
隊長は身動きできず、悔しげに呟く。
「こんなもの、解呪すれば――」
「おっと、それはさせないよ。抵抗するならもっと強力な呪縛魔法を使うけど……どんなに苦しい魔法か、知ってるよね?」
やって来たレイが隊長の声を頼りに話しかける。視線はまったく合わせられないが、浮かべた笑みは隊長に向けられる。
「さて、もう少ししっかり縛っておくか」
レイは見えない隊長の身体をペタペタ触り、胴や腕の位置を確認すると、そこに手をかざして魔法の縄で縛り上げた。
「隊長さん、あなた研究室から透明化薬を盗んだわね」
見据えて聞いてくるヒルデを隊長は横目で見やる。
「……そうか。どこかで見たことのある女だと思ったが、あの研究者の妻か」
「ええ。あなたは私達を監視してた時から透明化薬を狙ってたの? それとも夫がアカデミーに来てから魔が差したの?」
「………」
隊長は顔をそらして黙り込む。
「詳しい話はアカデミーに戻ってからだ。ひとまず帰ろう」
レイは魔法の縄をつかみ、隊長を歩かせて路地を引き返して行く。
「……お前は誰かに頼まれて私を捕まえに来たのか?」
うつむきながら隊長は小さな声で聞いた。
「いや、頼まれてはないんだけど、探偵として気になってね」
「探偵……?」
「レイさんは私が雇った探偵で、アカデミー院長の息子さんなのよ。見たことない?」
これに隊長は顔を上げると、隣のレイをじっと見つめた。
「噂は聞いていたが、会うのは初めてだ。院長のご子息は魔法に関してはかなり優秀だと……なるほど。私を見つけることなど朝飯前だったか」
「そんなことない。ヒルデさんがいなきゃずっとうろうろしてたかもしれない。彼女のおかげだよ」
「私は偶然見つけただけよ。透明化薬を飲んでたから隊長さんの姿を見ることができただけ。最初に疑問を持って動いたのはレイさんよ。それまで薬が盗まれたなんて思いもしてなかったんだから」
笑顔で聞いていたレイだったが、その表情が真面目なものに変わると隊長に聞いた。
「それにしてもあんた、透明化薬を飲んだらどうなるか、わかって飲んだのか?」
「身体によくないだろうとは思ってる」
「よくないどころじゃない。一年後に消えて死ぬんだぞ」
聞いた隊長は一瞬瞠目したが、すぐに薄い笑みを浮かべた。
「そうなのか……死ぬ、か」
「あんたがやろうとしてたことは、死んでまでやりたいことだったのか?」
「死んでも構わない、かもな。敵が討てるなら……」
すると隊長は足を止めると、視線を左へ向けた。そこには壁際で未だ怯えてうずくまる露天商の男性がいた。
「その男は、私の両親を殺した殺人犯なんだ。それなのに罪に問われず、まるで善良な市民のように暮らし続けてきたやつなんだ」
「三十年前の、夫婦の心中事件だね」
「あれは心中ではなかった。私は見ていたんだ。最初から最後まで。こいつは隣人で、日頃から母さんに言い寄って来る気持ちの悪いやつだった。あの日も父さんがいない時間を見計らい、家に来て母さんにしつこく迫っていた。我慢の限界だった母さんは強く言って追い返そうとしたが、それに逆上したやつは逃げる母さんを追って台所へ入り、そこにあったナイフで胸を突き刺したんだ。私はあまりに恐ろしくて、息をひそめて机の下に隠れるしかなかった……」
話す隊長の声は弱々しく、時折震えていたが、その中には隠しきれない怒りの感情がこもっている。
「その直後、普段より早く父さんが仕事から帰って来てしまい、やつは慌てふためいていた。血まみれの母さんを見て、父さんはやつにつかみかかろうとしたが、その前にやつはナイフで胸を刺した。苦しみ、倒れる父さんを見下ろし、やがてその呼吸が止まったのを見ると、ナイフを父さんの右手に握らせ、偽装工作をし始めたんだ。無理心中をしたかのように……!」
今にも歯ぎしりをしそうな苦々しい表情の隊長をヒルデは見つめ、耳を傾ける。
「子供だった私の声は聞き流され、捜査はずさんに進み、心中事件として片付けられた。犯人であるやつは何も変わらず隣で暮らしていた。無関係を装って、善良な市民を装って!」
怒りの感情に押され、隊長は怯える店主に向かって駆け出そうとした。が、レイはすぐに魔法の縄を引き、その動きを止める。
「やめろ! 何する気だ」
「何をする気かだと? 罰を与えるに決まっている! 両親の命を奪っておきながら平穏に暮らせる権利など、こいつにはない!」
「あんたがこの人を殺せば、あんたも同じ殺人犯になるんだぞ」
「そんなことはどうでもいい。私はどうせ一年後に死ぬんだろう? ならばこいつに罰を下してから死ぬ。こんな人間とも呼べないクズが、何も苦しまず幸せに生きていいわけがない!」
「何も苦しんでないわけじゃないと思うわ」
ヒルデの一言に、隊長は射るような目付きで振り向く。
「何を知ったような口で……」
「私は何も知らないわ。この人とは今日初めて会ったから。でもほら、聞こえるでしょ? この人は自分の犯した重大な罪に、きっと苦しめられてる」
口を閉じ、隊長は店主の声に耳を澄ませる。
「――悪かった。許してくれ。殺すつもりはなかったんだ。少し脅そうとしただけで……ごめんなさい。俺のせいだ。何もかも、俺が悪いんだ――」
うずくまる店主はまるで祈りの言葉を繰り返すかのように謝罪をし続けていた。
「自分の罪を裁かれないことで苦しむ人もいるのよ。誰にも言えない罪は、やがて心を壊すものなのかも」
「だから見逃せと言うのか? 何も罰は下すなと?」
「そうは言ってない。本当に殺人犯なら法の裁きを受けさせるべきよ。だから隊長さん、あなたが個人的に罰を下す必要はないわ」
「だが三十年も前の事件だ。ずっと自首しなかったこいつが今さら犯人だと認めるとは――」
「見た感じ、罪の意識で相当参ってるようだ。あんたが証言すれば、すんなり認めてくれるんじゃないか? それでも難しいっていうなら俺が協力するよ」
「私に、同情するのか」
「協力だって言っただろ。有難迷惑なら遠慮するけど?」
隊長は二人の顔を見ると、フッと息を吐き、笑う。
「薬を盗んだ私を捕まえに来たのではないのか? こんな犯罪者になぜ協力的なんだ」
「確かにあんたは泥棒だけど、事件の被害者でもあるんだ。それだけを無視なんてできないよ」
微笑むレイを見つめ、うずくまる店主をいちべつすると、隊長は穏やかな表情で言った。
「……私を、アカデミーへ連れて行ってくれ。少し疲れてしまった」
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