第5話
「へ……誰…?」
「懐かしい言葉。もしかしてこの子が救世主ですか?」
モモはその丸っこい瞳を見開き、ぱちぱちとゆっくり瞬かせた。
モモの前に現れた魔法使いは、おっとりした口調で、黒髪の、そしてやたらと胸の大きな女性だった。背丈はモモよりあるように見える。
「え? 通じて…日本語……」
「かわいそうな救世主さん。大人たちの政治に振り回されて」
口調に反して、きっと落ち着いた人じゃないだろうと言うのがその服装からしてわかった。胸元がシースルーになったドレスは、足元もスリットが入っている。
「寧々。見ない間に覗きが趣味になったのかな?」
「違いますよ。……先生もひどいです。以前私に会った時から魔法の香りを変えましたね?」
「君みたいに尾けてくるひとがいるからね」
「え、え、え……」
モモがパニック気味になり、呼吸が乱れているのを見て、ディオンはその手を握り「大丈夫だ」と繰り返した。
「どうして話せるの、なんで…言葉がわかるの? もしかしてあなた…」
モモに向かって魔法使いは微笑む。
「私は300年…もう少し前でしたか。貴女と同じ、救世主だったんです」
「なんで…? じゃあ、帰れるってのは嘘だったの?」
「違うよ」
「じゃあなんでこの人はここにいるの!」
モモが珍しく声を荒らげる。ディオンは極めて冷静に、「そうじゃない」と否定し、モモの背中を撫でた。きいきい騒ぐモモとは反対に寧々は退屈そうだ。モモとディオンの間を引き裂くようにモモを退かして、2人の間に腰掛けた。モモはベッドから滑り落ち、ミシッと古い床が鳴る。
「そんなのどうでもいいんです。私は先生のせいで魔法使いになったんだから、どのみち帰れません」
「……」
「ディオンのせい…?」
ディオンを見つめたまま、寧々は頷く。彼はぽりぽりと頭をかいて、いつも通り人の良さそうな笑みを浮かべた。
「邪魔しないでほしいな。せっかくモモと友情が芽生えてきたところだったのに」
「友情? 若い子にこんな格好させておいて、先生は相変わらず嘘つきですね」
寧々がとん、と彼の肩を押すと、簡単にディオンはベッドに押し倒される。その上に彼女が乗っかって、豊満な身体とディオンの身体が密着する。
モモは頭のどこかで、柔らかそうだな、とぼうっと見ていることしかできなかった。
「退いてくれる?」
ディオンが微笑む。魅了を使ったが、寧々には特に効いていないようだった。
「もう簡単な魔法なら弾けるようになりましたよ」
「感心だね」
それからしばらく、静寂が訪れた。
モモの角度からはよく見えなかったが、二人が同時に黙ったこと、そして頭と頭が重なってもおかしくない位置にあること、寧々の「ん…」と鼻から抜けるような、男を喜ばせるような色気のある声が聞こえてきたことが、彼らの行動を容易に想像させた。
10秒ほど経つと、ディオンはもう一度「退いてほしいな」と言う。今度は寧々も黙って立ち上がり、この部屋から忽然と消えてしまった。
ため息をつきながらディオンは起き上がって、ベッドのそばに座り込んだままのモモへ手を差し伸べた。
「モモ、大丈夫?」
「……」
モモは首を横に振った。
◇◇◇
「あの村はそのうち滅びるよ」
眠りにつく前、エイブレッドの前に立ち寄った村についてディオンは言った。
モモはなにも言わなかった。なにせ、それどころじゃなかったから。
ディオンはそれもわかっていたけれど、一応最後まで、寝物語のように穏やかな声で話した。
警察の命令で、品評会も含めて奴隷ビジネスを一斉に検挙した。あの村がそれで成り立っていることは火を見るよりも明らかだった。
あの村で商売する人々も、
あの村を訪れる人も、目的はひとつ。
ディオンがこう言ってもなお、モモは何も言わなかった。
幸いにも、隣町までは歩ける距離だ。どんなに捨てられない思いがあろうが、生活できないとなったら話は変わってくるはず。
自分で考えられる人々なら、きっとそうする。それ以外は、まあそういうことだ。
モモは目をぎゅっと瞑って、覚醒しそうな頭をどうにか眠りへと誘う。
「寧々のことが気になる?」
はっ、と息を呑んで、瞼を開けた。ディオンがいつのまにか寝床から降りて、二人のベッドの間にある窓辺に立っていた。カーテンが閉まっていてほとんど様子は見えないが、きっとこちらをじっと見ているんだろう。
今まで抱いたことのない感情を、ディオンに感じていた。目の前の光景にモモはぞくりと背筋を震わせる。
勇気を出して、モモはディオンに問う。
「ディオン…」
「うん?」
「怖いよ」
「俺が?」
モモはシーツを口元にかぶったまま、ちがう、と呟いた。ディオンはそんな小さな声も聞き逃さない。
「帰れないことが?」
「全部怖い。寧々さんは、元は救世主だったんでしょ。あたしもそうなるの?」
「モモはきっとならない。寧々は元々、ここに来た時に体内に魔力を宿していた。ここで過ごすうちに、いろんな魔法使いと交わってああなったのさ。モモに魔力はないよ」
「寧々さんは人間でしょ。それなのに魔法使いになれたの? 人間も、魔法使いになるの?」
「俺も長いこと生きているけど、初めてだ」
ディオンは寧々が初めて彼を求めて来たときのことを思い出した。師匠を喪ってから一千年、ディオンはずっと厭世的になっていたから、正直あの頃のことはよく覚えていない。ただ、彼女と肌を重ねたことは一度もない。そうなってしまえば、おかしくなるのは自分の方だと目に見えていたから。
だからといって、自分が死んだ後、誰かにその骨を埋められるのも嫌だった。
もう自分の骨に触れてほしい人はこの世にいないのだから。
動かないディオンはどうやら何か考えているらしい、とモモは起き上がって、窓辺に立っている彼の目の前に立ち、カーテンをばっと開いた。もう起きている人もいない時間で光源は月明かりしかなかったが、お互いの姿も、表情も、はっきりとわかった。
ディオンは嫌な目だ、と思い目を逸らした。無垢な娘に何もかも見透かされているような気さえする。
異世界から降り立った者は、須くこの世界に何か重大な変化をもたらす者でなければならない。
ディオンはそんな特別な者たちのことが、好きだった。
男も、女も、それ以外も関係ない。こちらにきたばかりの救世主たちがディオンに惹かれるように、彼らと向き合って、焦がれるのはディオンだって一緒だった。
だけど、離れて行くのも、いつだって一緒だ。
大魔法使いと呼ばれた師匠は、魔力の弱い自分を可愛がってくれた。長生きだけはしたものの、平凡な魔法使いの自分と偉大な師匠を比べては傷ついている。そんなことは誰かに言うものでもないし、きっとこれからも言う必要はない。
だから生まれながら、いや、こちらに来た瞬間に特別な存在でいられる彼らが羨ましかった。
「モモ」
騒がれては面倒だ。今後もきっと。
ディオンは手を伸ばした。モモはきっとこの手を取ってくれる。そうすれば魅了の魔法をかければいいし、拒まれたっていずれそうすれば問題ない。
「バカにしないで」
だが、モモはその手を取らなかった。
そして、皆がディオンの家を出る際に必ず言う台詞──「ディオンには感謝してる」と続けた。
「言葉もディオンしかわかんないし、多分ディオンは魔法で私の気持ちを操ることだってできる。だけど、この力を使ってそんなことするなんてずるいよ」
「……なんでわかった?」
「ディオンの考えることぐらい、わかる。それに」
モモは相変わらずの素直な視線を彼に向けた。ディオンは日頃の薄ら笑いを封印して、冷たく、鋭い表情を浮かべている。
「ディオンのこともう好きだから、効かないよ」
意外だったのか、もしくは演技なのか、ディオンは眉を少しだけ上げた。
「ふ……っ、あはは」
「おやすみ。寝てる間に何かしたら許さないから」
「さっきはあんな格好してたのに? ……呼ぼうか? えっと、彼を」
アレクを呼んでしまわないように、ディオンはわざとらしく言った。モモはいいよ、と断って、ディオンの手を引いた。あろうことか自分のベッドに彼を引き入れる。躊躇った彼を「いいから」と強引に促し、そのまま2回目のおやすみを呟いた。
◇◇◇
「寧々さん」
ディオンが買い物に出たタイミングを見計らって、彼のいない部屋でひとり、モモが宙に向かって呟いた。
ふわりとベリーのような甘い香りが漂ったが、なかなか姿を見せない。モモは仕方ないなあという様子で窓を開ける。
「はあい」
ご機嫌な声が部屋に響き渡って、昨日とはまた違う、今度はよくあるような町娘の格好で寧々はあらわれた。それでも豊満な体のラインは隠しきれていないが。
彼女はディオンとモモが寝ていたベッドに腰掛け、なにか考えながらシーツを撫でている。
「モモちゃんだったかしら。今期の救世主ちゃんね」
モモは頷いて、時間がもったいないからと早速切り込んだ。
「機関からのお達しです。帰ってくる気はありませんか?」
「ないわよ。実験台にされるのはもうこりごり」
寧々はついさっきも訊かれたことかのように軽くあしらって、それだけ?と口角を上げる。
「随分演技が上手なのね。研修制度が変わったの? 私の時はたしか、…1年だったけれど」
「寧々さんのせいで3年に延びたんです」
モモの表情筋が緩んで、ディオンと話すときのように口を尖らせて拗ねたような表情をした。
まるで本物の女子高生みたいに。
寧々はなるほどね、と肩をすくめる。
「寧々さんがこちらに来て10年は経ちました。このままだと、あなたの身体に異常が起きるかもしれませんよ」
「そうね」
「貴女の受験理由は経済的なものだったはずです。戻らないと報酬は支給されないのではありませんか?」
「そうかもね。でも、魔法使いに突然変異した個体が元の世界に還ったら、どうなると思う?」
モモが答えずとも、寧々は「賢い子だわ」と頷いた。
そんなの決まっている。機関からは絶対に逃れられない。たった一つ、ここの世界に留まるという例外を除いては。
「ここで過ごして300年は経った。…早いものね。まだあっちの流行は『魔法使い』なの?」
寧々は呆れたように長い髪の毛を指でいじり、足を組み替える。モモははあ、とため息をついて「そうですよ」と答えた。
「たかが10年ちょっとでブームが去るわけないじゃないですか」
「そんなものよね。せっかく会えたけれど、ごめんなさい、私は──」
「寧々さんに言うべきか迷いましたが、今度の狙いは彼ですよ」
モモは誰もいないベッドを指差した。
「……え」
言葉の意味をじわじわ理解したのか、寧々はようやくキャラに似合わないほど焦って、モモに詰め寄った。
「条約違反だわ! 異世界交流で重要とされる人物はサンプルに認定されないはず。違うの?」
「私みたいな末端の人間がわかると思いますか?」
「どうして、……魔法使いは元の世界じゃ長生きできないはずよ。持ち帰る個体は重要な人物を避ける、…もしくは本人の強い希望、最悪寿命が近ければという例外もあった。だけど魔法使いの寿命はまばらだって、これまでの研究からわかっているのに……まさか」
モモは頷いて、「死期が近いと言われたんです」と答えた。
「探るつもりが、2日目の朝に。『夢を見る』と。……」
「……あの人は、本当に、もう!」
寧々は苛立ったように声を荒らげた。
本人から言われたということは、本当にそうなんだろう。疑いようがない。訊く手間が省けただけ、ラッキーだ。
その時、ドアの外から声がした。
「──モモ、誰かいるのか?」
「!」
寧々はモモの顔を引き寄せ、その唇に自身のものを重ねる。乱暴な口付けを終えるとそのままふっと消えてしまった。彼女が結界を張っていたのだろう、しばらくしてディオンが部屋の扉を開けて帰ってきた。
「おかえり!」
「この匂い、……あいつが来てたのか。ずいぶん香りが強いね? ……何にもされてない?」
ディオンははっと何かに気づいたように荷物を下ろして、モモの肩を両手で掴む。指で唇をなぞって、一言「ごめん」と呟いた。あまりにも素直に謝るものだから、モモはふっと笑ってしまう。
「いいって。油断してたあたしが悪いの。なんなら上書きする?」
「しない」
「もう。つれないなー」
目を瞑って顎を上に向けてもディオンには効かない。だけど、モモはそれで満足だった。腕に抱きついて、怖かったかと訊かれれば頷き、か弱い少女のままの振る舞いをした。
魔法使いの愛に関する記録と考察──孤高の大魔法使いディオンを例として 羽柴諒 @acoly
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