第五章 ありえない

17

 獅童さんの車に再び乗り込む。あたりはすっかり暗くなり、西の空には夕焼けの名残かほんのりとしたオレンジ色。金星の光が強い。南天に向かうにつれ紺色が濃くなっていく空にはそこかしこに星が輝き始めていた。

 獅童さんは何も喋らない。音楽もなにもかけられていない車内は静かで、ボクは助手席でうとうととしかけてはハッと目覚める、を繰り返していた。

 獅童さんは運転が上手く、不快な振動がほとんどない。スムース。その言葉がぴったりだ。

「まだ少しかかる。寝てろ」

 立てかけたスマートフォンの地図アプリを見ながら獅童さんが言う。

「でも、運転していただいてるのに申し訳ないです」

「こっちが無理をさせたんだ。言うことを聞いて寝てろ」

 獅童さんは正面を見据えたままだ。彼の声は耳心地が良い。最初は圧を感じて怖いと思った声だったのに、いつの間にかその響きには優しさが宿っている気がする。あの声とは偉い違いだ。

 ムーンストーンにダイブしているときに聞こえた、あの声。獅童さんの声と同じような低い声だったけれども、彼とは違って優しさや思いやりはひとかけらもなかった。ただ、ボクが何者なのかを探り、正体を見極めるためだけに名前を聞いてきた、冷淡で低く響く、抗えない強さを持った、死者の国王ハデスのような声……。

 ボクはいつの間にか寝入ってしまったのだろう。気がつくと、獅童さんの手がボクの肩を揺すっていた。

「起きたか」

「あ……すみません、ボク、つい」

「お前の家の前まで送ろうと思ったんだが、通行止めになってる。消防車が何台もでてるから、火事かもしれんな」

「え」

「この先は車は入れないから、ここで降りてもらうしかないが大丈夫か」

 ボクはふるっと頭を振った。そして外に目をやる。確かに、ボクのアパートがある方面に何台もの消防車が止まっていて、何やら騒がしい。

「ご面倒おかけしました。ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」

「おい、本当に大丈夫か」

「はい、大丈夫です。気をつけてお帰りください」

 ボクはドアを開けて外に出た。途端、喧騒に耳を殴られたような衝撃を受ける。いや、この衝撃はボクが特異体質だから受けるのであって、通常の人にとっては許容範囲のはずだ。このハイパーにセンシティブな体質、本当にどうにかならないものか。

 ボクは車を降りるとウィンドウ越しに見える獅童さんに頭を下げ、アパートに足を向けた。ざわざわと人の気配がする。いつもより多い。ボクはポケットの中のモリオンをぎゅっと握りしめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る