第13話:意志


        ――― あなたまで壊れてしまうのかしら

     れはいけませんわよ、我らの希望の子が悲しんでしまいます ―――




 怪物のような姿になったサイワンがゆっくりと近づいてくる。アリスが応戦の意思を表情で示すと、彼は一気に加速した。人間とは思えない速度で走り込んできて、無造作にパンチを繰り出した。大きな拳で、アリスにも劣らないほどの速度で放たれたパンチは先程までナナクが隠れていた瓦礫を一撃で粉々にした。衝撃波が周囲をビリビリと震わせる。


「なんて威力なの!」


 アリスは驚いていた。シャロンやプルートとの戦いで、高速に動く相手との接近戦は経験があったが、それに匹敵する速度だ。そして体格により力任せに放たれる打撃のエネルギーは彼女たちの何倍にもなる。相手の攻撃を交わして反撃をしようとしても上手くガードされてしまう。実戦経験の豊富さで言えば相手も同じだった。むしろアリスをも上回る百戦錬磨の軍人だ。うまくガードを撃ち抜いたとしても、鎧のようになったその肉体にダメージを与えられるかは分からない。アリスとて格闘戦は決して得意というわけではない。唯一の武器、APBは先程破損してしまった。それに仮に残っていたとしても役に立たないだろう。


「アリス、無理だよ。逃げよう。」


 後ろからナナクが叫ぶ。しかしサイワンをここで倒さないと結局宇宙船まで追いかけてくるから同じことだった。サイワンの猛攻が続く。攻撃はまだアリスに当たってはいないようだが、限界ギリギリの戦いだった。一撃もらうだけでそれは決着点となってしまう。アリスも反撃しているが、牽制にもなっていないようだった。いくらアリスのほうが速くても、そのパンチが超音速だとしても、あの細い腕ではモンスターと化したサイワンには有効打とはならない様子だった。


 ナナクは何か武器はないかと周囲を見回していた。彼が先程借りて降下した、セレスの日傘が中途半端に開いて転がっていた。傘が武器になるとは到底思えなかったが、藁にもすがる思いだった。全く正体不明のセレスだったが、だからこそ何か打開策になるのかもしれないと思った。日傘へ向けて這っていき、手を伸ばす。すると傘が開いてフワリと舞った。


「あら、ここにいると、ご存知でしたのね。」


 日傘が転がっていたと思ったその場所に、気がつけば傘を持ったセレスが立っていた。いつの間に、とナナクは一瞬驚いたが、彼女はそういう存在なのだともう受け入れていた。


「セレス、見ていたなら分かるだろう。」

「何を、でしょうか?ナナク様だけでなく、あの隊長さんもあの子達に気に入られるなんて、一体何をしたのかしら。とは言え、あの方はそれを持て余してしまったようですが。」


 セレスは落ち着いた表情でサイワンとアリスの戦いを見つめていた。ナナクは彼女が何故そのように落ち着いていられるのか分からなかった。


「その話じゃない。あのままだと勝てない。なにか武器はないの?」

「わたくし、面白いものが見られればそれで良いのです。どちらが買っても負けても、構いません。他の方たちももう帰られたようですし、ここで観戦いたしませんこと?」


 ナナクは立ち上がって、セレスの一歩近づき、訴えた。


「そんな、アリスがここで負けたら、軍や市や、僕たちの母港までとんでもないことになるんだ。」

「それもわたくしには関係ないことですが。それと、以前よりお伝えしておりますが、お言葉使い、直してくださります?ナナク様。」


 セレスは日傘を短く畳んでピッとナナクの方を指してそう言った。ナナクは彼女の言う意味を理解した。


「セレス様、アリスが負けそうなんです。助けてください。」

「さて……50点。それでもその誠意に免じてお手伝いいたしましょう。わたくしあの醜い塊のような方は、あまり好きになれないのですよ。一方で今のアリス様、とても美しいと思いませんこと?」


 そう言い終わるとセレスは日傘を伸ばしてアリスめがけて放り投げた。傘は矢のようにアリスめがけて飛んで行った。アリスはそれを空中で受け取った。使い方は知っていた。自らがほんの少し前に何度も突き刺されていた武器だったから当然だ。アリスはサイワンと一旦距離を取ると、その傘をレイピアのように構えた。先端部は鋭利な刃物の切っ先のようになっていた。


「そんな棒切れのような物で一体何ができる。」


 構わずサイワンが突撃してきた。アリスは冷静だった。何も考えずに突撃してくる相手を剣の間合いで対応する。この動きは彼女が過去に何度も対峙したことがある相手、戦闘ロボットと同じだった。殴りかかってくる彼をサイドステップでやり過ごし、レイピアで突き刺す。鋼のように固くなったサイワンの肉体であっても、セレスの傘の先端部分は的確にダメージを与えていた。対物ブレードなのか、もしくはナノマシンを切り裂く性質を持ったものかもしれない。突き刺しても、血は出てこなかった。何かよくわからない液体が滲んでいる。


 サイワンはアリスの攻撃をものともせずに戦い続けている。アリスは前後左右にその暴力をすべて翻弄するようにかわし、手に、足に、背中に、レイピアでの一撃を食らわせる。ナナクが見たそれは、無心に突撃してくる猛獣を相手にしているようだった。まるで闘牛士の動きのようだった。とは言えアリスにとっては一瞬たりとも油断できない戦いだった。サイワンの体はますます肥大しているように思えた。


 何度も突き刺している傷口はそのたびに塞がり、更に体を拡大させ、打撃の威力も増しているようだ。もはや人間であるかどうかもわからないほどだった。彼女はその状況にも的確に対処していた。レイピアでの戦いはそれほど経験があるわけではなかったが、彼女はこの場でサイワンの動きと武器の性質を見極めて、より戦い方を高度化させていた。諦めずにサイワンの体を突き続ける。どこかで限界が来るはず。彼女はそう考えていた。それが自分なのか、相手なのかは分からない。ただ二人には戦い続ける選択肢しか無かった。


「アリス、下がれ!」


 突然背後からナナクの声が聞こえた。彼は対物ライフルを構えていた。アリスはナナクの狙いを理解し、一歩飛び退いた。その直後に、研究所に砲撃音が響き渡る。対物ライフルから発射された巨大な銃弾はサイワンめがけて飛んでいき、膝に命中した。ナナクは二人の戦いをよく観察していた。徐々に肥大していきその体の輪郭を失っていくサイワンの足の動きが次第に鈍っていたことを彼は見落とさなかった。アリスフレームやそれに準ずるものに対しては、例え対物ライフルであっても致命傷にはなり得ないことをシャロンとの戦いで学んでいた。あの時と同様に、手足の動きを封じるために使う武器だと理解していた。


 銃弾はサイワンの膝にめり込んで、止まった。足を吹き飛ばすことも貫通させることも叶わなかったが、その衝撃はサイワンの動きを一瞬止めるには十分だった。ナナクはその様子を見ることなく次の銃弾の装填を始めていた。次の一撃はアリスがやってくれる。そう信じていた。その期待通り、アリスはその隙を見逃さなかった。全力で踏み込み、跳躍し、サイワンの喉元にレイピアを深く突き刺す。


 これがアリスとナナクの二人の戦いの真骨頂だった。ナナクの遠方射撃で敵を牽制し、アリスが接近してとどめを刺す。二人が出会って、共に戦う中で生み出された最強の戦術だ。喉元を深々と突き刺されたサイワンは、絶叫を上げた。


「アガアアァアァァ……。貴様ら、殺してやる。殺してやるぞ。」


 サイワンはまだ動けるようだった。アリスは突き刺さったレイピアを彼の首から抜こうとしたが、彼は首もとに力を入れ、それが抜けないようにしていた。無理矢理に来抜こうとしたことで、彼女の体が彼の方へ引き寄せられた。アリスがしまったと思った瞬間には既に彼のその大きな右手でレイピアごと掴まれてしまった。それを振りほどこうと彼女は左手で殴りつけてみたが、びくともしない。


「捕まえたぞ。アリスフレーム。」


 サイワンはにやりと笑みを浮かべると、腕をつかんだまま彼女を振り上げ、地面に力任せに叩きつけた。鎖鎌により振り回されたときとは桁違いの力だ。彼女が叩きつけられた場所の床面が砕けて大きな瓦礫となり飛び上がる。


 彼女には悲鳴を上げる余裕もなかった。自身の許容量を超える衝撃で全身の様々な部位が損傷する。その起点となっている掴まれた右腕はそれを支える骨格が破断するのがわかった。サイワンは彼女をもう一度無造作に持ち上げた。アリスは苦痛に顔を歪ませている。


「貴様は私に聞いたな。アリスフレームの耐衝撃加速度を知っているのかと。もちろん知っているぞ。調査済みだ。今の攻撃は150Gどころではないだろう。さて、貴様は何度耐えられるかな。」


 アリスは苦痛の中でもサイワンを睨みつけていた。


「フハハハッ、AIでもそのような顔ができるとはな。驚きだ。それは貴様の本心か?それとも擬態か?アリスフレームが破壊されると、どのような顔になるか、楽しみだ。」


 サイワンはアリスを再度地面に叩きつけようと腕を振り上げていた。その様子を見ていたナナクは次の攻撃の準備を終えていた。地面に叩きつけられたアリスを見てこの戦況を打開できるのは自分だけだと思った。


 彼は考えていた。今装填した対物ライフルを撃つことはできる。間違いなく命中するだろう。しかしそれで何になる?先程も膝に打ち込んだが一瞬動きを止める程度でしか無かった。とにかく威力が足りない。もっともっと強力な武器でなければいけない。もうこのステーションが損傷しても構わない。どうせ墜落するのだ。彼は演習場で見つけた自動戦車とそれを破壊できる対戦車ロケットランチャーのことを思い出していた。あれを持ち出していなかったことを悔やんでいた。今この場にあれば……。


 ふとナナクは自身の両腕に熱い何かが流れ込んでくるのを感じていた。この研究所に最初に来たときに、あの声に何かをあげると言われた直後に感じたものと同じだった。あのときはセレスを撃退したい一心で撃った古風な拳銃が、大きなライフル銃か散弾銃のようになって飛んでいった。


「そうか!これだ。」


 いくつかの分かれていたパズルのピースが、ナナクは自身の中で一つに合致するのを感じていた。自身が定期接種していたナノマシンの製剤、あの声が言う「力」、そしてプルートが言う集中力と想像力。ナナクは対物ライフルを構えた。照準をサイワンに向けた。そしてイメージした。あの怪物を穿つだけの強さを持った武器。対戦車用の巨大な大砲だ。それを使ってあの怪物を打ち倒し、アリスを助けると。今こそ彼女との約束を本当に果たすときだ。腕に集まっていた熱い感覚はライフルを持つ手と指先を通り抜けて対物ライフルに流れ込み、急速に形を作っていく。その形に集まるように周囲のナノマシンがそれを実体化していく。


「あっ、分かったんだね。その力の使い方。そうそう、そうやるの。」


 あの声がまた聞こえた。改めて言われるまでもなかった。ナナクは完全に理解したのだ。自分がやったことと、そしてサイワンが失敗した理由を。そしてナナクは引き金を引いた。撃鉄が対物ライフル用の銃弾を叩き、銃身の中を加速していく。彼にはすべての動きが遅く見えた。銃身に重なるように存在していた120mm対戦車砲がその銃弾の周りにエネルギーを纏わせ始め、巨大な砲弾となって目標へ向かって飛び出していった。


 彼はその様子を見るのではなく感じていた。目標はアリスを掴んでいるサイワンの右肩だ。絶対に外さないという確信がある。巨大な砲弾は目標の僅か手前で炸裂し、砲弾の芯である対物ライフルの銃弾をさらに加速させた。超高速高温のナノマシンの流体ジェットを伴って銃弾がサイワンに命中した。大きな爆発音がした。


「うあ……あ…。」


 アリスが振り落とされて地面に落ち、うめき声を漏らしている。耐え難い苦痛だがそれを上回る全身のダメージにより声も出せない。


 一方でサイワンは、何が起こったのか理解が追いつかないといった表情でその場に立ち尽くしていた。右肩と腕はおろか、右胸と首と頭部の一部までもが消失して、肩を中心に直径1mほどの巨大な穴が空いたようだった。人間ならば即死だろう。しかしサイワンはまだ立っていた。


「な、何だ、何が起こった。腕がない。痛みもない。見えないぞ、右目が……。何故だ、何故だ、何故だーー。」


 その視線の先に、対物ライフルを構えたナナクの姿があった。サイワンの半身を吹き飛ばした対戦車砲は既に霧散して無くなっていた。


「サンプル79番、お前の仕業か。死ぬのはお前が先だ。」


 サイワンは岩のように太く大きくなった足をドスドス言わせてナナクに近づいてきた。先程のような超人的な足の速さはもう無かったが、それでも今の攻撃で精神力を使い果たしてしまい逃げることが出来ない。


 ナナクはサイワンに捕まってしまった。腕を掴まれて、先程のアリスのように引き上げられる。サイワンの大きな手に無理やり掴まれた腕が、ボキボキと折れる感覚があった。


「あがっ……。」


 アリスと同様に、あまりの衝撃に声をだすことも出来ない。サイワンは更に手に力を込める。握られた腕の肉が引き裂かれて血が吹き出す。


「さぁ、どうやって殺してやろうか。お前の全身をすり潰すこともできるが、死体は残してやる。感謝しろ。あの男、ダンバースに見せつけてやるためにな!」


 瓦礫の中に倒れていたアリスはその様子を見て、なんとか立ち上がろうともがいていた。硬い床面に叩きつけられたあの一撃のダメージは甚大で、満身創痍でもう何秒も動けないだろう。右腕にいたっては全く機能していない。


「ナ…ナク……。」


 その時、ナナクがサイワンに引き上げられた拍子に彼のカバンの中から、先程強襲艦の入り口で彼に渡した『かんしゃく玉』の残り一つが転がってきた。


 これだ、と思い手を伸ばし、掴んだ。残っているのは赤い玉。それを引き寄せ、ダイヤルを回し、ベルト部分を口で挟んで左手でもぎ取った。そして持ち上げられているナナクのちょうど反対側。ナナクの砲撃により大破した右半身へ向けてその赤いかんしゃく玉、グレネードを放り投げた。


 1秒後、そのグレネードが爆発した。小さな破片がアリスとサイワンに襲いかかる。人間ならば体の形も残らないほどの至近距離だ。サイワンの大きな体に遮られてナナクに被害はない、そのように計算して投げた位置と起爆時間だった。撒き散らされた微小な破片と同時に、周囲を火炎と煙が包み込む。


「な、何だ!?」


 サイワンが突然の爆発に困惑して硬直した。彼女の狙いはこれだった。アリスとサイワン双方、全身の表皮にグレネードの破片が突き刺さっているが、もはやそんなことは二人にとってダメージのうちに入らない。彼女は最後の力を振り絞り素早く立ち上がると、横に落ちていたレイピアを両手で拾い、飛び上がった。


「ナナクを離しなさい。」


 彼女の狙いはナナクをつかんでいたその左腕だった。捨て身の攻撃は左手首の部分に深々と突き刺さった。


「ぐっ、貴様。しぶとい奴め!」


 レイピアは突き刺さったまま抜けない。サイワンはナナクをその場で放り、アリスに掴みかかろうとしていた。宙ぶらりんになっていた右腕を再び掴まれるが、既に死んでいる右腕などくれてやる、そんなつもりだった。


 その直後にサイワンに残っていた左目の視界が失われた。彼女は掴まれていた腕を中心にして回転し、ムーンサルト気味の回し蹴りを放っていた。その渾身の蹴りはサイワンの眼球を潰していたこれでサイワンの動きを封じた。彼女はそう思った。ナナクの砲撃とアリスの蹴りで、両目の視界を完全に奪われたサイワンは足元がふらついた。


「見えない。見えないぞ、何故だ、何故私がこのように……。負けることなど、負けることなどありえない。私はあの市長に復讐するまでは決して負けることが許されないのだ!」


 サイワンはまるで自分に言い聞かせるようにそう言った。すると、先程のナナクの攻撃によりポッカリ空いた右半身に周囲の霧状のナノマシンが集まり始め、肉の塊のようなものが形成され始めた。そこには恐ろしい目のようなものがいくつも出来上がっていた。


「いた。見えるぞ、アリスフレーム。」


 いくつもの目が彼女をギロリと睨む。


「これで終わりだ。」


 右手を掴まれてぶら下がっていたアリスの体が、再度地面に叩きつけられた。床面が割れて飛び上がる。耐久力を大きく超えた衝撃加速度にアリスの意識が一瞬飛ぶ。もう一度振り上げられて、反対側に立っていた大きな瓦礫へぶつけられた。


 その衝撃で、アリスの右腕はついにちぎれ、体だけが無造作に転がっていった。サイワンの足は木の根のようになり、左半身にある一本だけの腕は岩のようになり、右肩の部分には第二の頭のようなものが生え、多数の目がギラギラと光る、まさにモンスターと言える姿なっていた。そのサイワンがゆっくりとナナクの方を振り向いた。


「よし、次はお前だ。79番。もういい、お前もここで跡形もなく叩き潰してやる。」


 彼も左腕がぐちゃぐちゃになり、意識が朦朧としていた。その目でボロ布のように打ち捨てられているアリスを見ていた。


「アリス……。」


 ナナクのもとにサイワンが迫る。とどめを刺そうとその左腕を振り上げていた。


「イヤア゛ア゛ァァァァーーー。」


 突然、身の毛がよだつような、形容し難い、恐ろしい叫び声が聞こえた。その声の主はアリスだった。その叫び声の理由は、体の痛みでも、腕を失ったことでも無かった。負けたくない。ナナクを死なせたくない。その一心から出た心の叫びだった。


 300年前と、200年前と、死線を超えて、ようやくたどり着いたこの時代、ようやく得られた新しい仲間、それを失うことなど考えられなかった。あの滅びと絶望は二度と味わいたくない。何故勝てないのか?自分が弱いからか?負けたくない、負けたくない……。アリスの精神はその気持ちでいっぱいになった。アリスの周囲の気中ナノマシンが彼女の強烈な意志に呼応した。


「ああ、お姉ちゃん。ダメ。それはダメだよ。やめて、お願い。」


 何度も聞こえていたあの声が彼女に警告を発していたが、従うつもりなど無かった。サイワンを、あの怪物を殺したい。彼女の心は更に燃え上がっていた。右腕がちぎれて肩の骨格がむき出しになっていた部分にナノマシンが集まり始めた。急速に形を作っていく。


「姉さん、それヤバイって、マジで。戻れなくなるよ。」


 先程から度々聞こえていた子供の声とはまた別の、聞き覚えのある声が響いていた。この声の主は名乗らずとも分かる。シャロンだ。


 戻れなくなる?そんなことは関係ない。とにかくいま必要なことは、この怪物を斬ること。それだけだ。アリスは口に出して答えたわけではなかったが、シャロンがどこか寂しそうな、諦めたような顔をしたように思えた。サイワンもその姿に注目していた。


「貴様……、何だ、それは。」


 アリスが立ち上がった。その右腕はサイワン同様に岩か肉の塊のようになっており、肘と呼べそうな部位からの先は、右腕と一体化した2メートルを超える巨大な刃となっていた。


 うつろだったアリスの目付きがサイワンを捕らえた。


「うがああぁぁぁ~~~。」


 アリスが獣のような咆哮を上げた。抜刀術のように刃を左に構えて足を踏み出す。


 次の瞬間、彼女はサイワンの背後にいた。刃は真上に振り切られていた。文字通りの目にも止まらない斬撃だった。


「な、なんだ。足が動かん。」


 サイワンが自身の異常を察知した。サイワンの胴体が下半身から滑り落ち、床に落ちようとしていた。アリスが目にも留まらぬ速さで、そのおぞましい刃を使って胴体を真っ二つに斬ったのだ。アリスは振り返りざまに、落下していく上半身を脳天から斬った。サイワンはその斬撃を腕で受け止めようとするが、腕ごと上半身が左右に分けられた。三等分されたサイワンが地面にドサリと転がった。アリスも膝をつき、そしてうつ伏せに倒れた。


 研究所が静かになった。先ほどサイワンが破った採光窓から空気が抜けるときの、シューシューという音だけが聞こえていた。そして、アリスが今までレイピアのように使っていたセレスの日傘がひらりと舞い上がって、ナナクの方へ漂っていった。傘は開いているが、セレスの姿は見えない。


「ナナク様。このような姿でお許しくださいまし。気中ナノマシンがだいぶ使われてしまったので、節約しなければいけないのです。それにしても、アリス様も、あの隊長さんも、強情なお方でしたね。後片付けしますのでお手伝いいただけませんこと?」

「手伝い?」


 ナナクはそれどころではなかった。腕にひどい怪我を負って、出血も激しく、とても動ける状態ではない。


「しかし、その腕では難しいでしょうか。面白いものを見せていただいたお礼もありますし、特別ですよ。」


 セレスの声に呼応するように、周囲を漂うナノマシンがナナクの左腕に集まってきた。ギプスで覆うように腕を包み込む。出血が止まり、痛みも和らいできた。


「あくまで応急処置ですよ。あとできちんと人間としての治療も受けてくださりますよう。」


 セレスの傘はひとりでに閉じ、ナナクの手元へやってきた。受け取れ、という意味だろう。その意を汲んで受け取った。そしてナナクは立ち上がった。そしてアリスの方へ駆け寄った。


「アリス!」


 彼女は一人もがき苦しんでいた。立ち上がろうとしては倒れ、という動きを繰り返していた。背中から抱きかかえるように支えてやった。


「あああぁーー。」


 アリスはうめき声を上げながら、周囲の瓦礫をその大きな刃で切り刻んでいた。あのときの彼と同じだった。ナナクはそれを静止しようとする。


「アリス。もういいんだ。終わったんだよ。サイワンに勝ったんだよ。帰ろう!」


 そう訴えるが彼女の耳には届いていないようだった。彼は背中からではなく、前から彼女を抱きしめて羽交い締めにしようとした。


「どうして?ねぇ。止まってくれよ。船長と一緒に、三人で帰ろう。」


 再三の訴えも虚しく、アリスは唸りながら暴れている。ナナクも振り落とされそうになる。


 するとセレスの声がまた聞こえてきた。


「ナナク様もナノマシンチャイルドなのですよね。であれば、何をすればよいのか、お分かりになるはずです。」


 ナナクには分からなかった。突然そのようなことを言われても、何をしたらいいのか見当もつかなかった。とにかく苦しそうにしているアリスをどうすれば落ち着かせられるのか、苦しみを取り去ることができるのか考えた。そしてナナクは気がついた。この怪物のような腕が悪いのだ、これさえ切り離せば、と思い、セレスの傘を伸ばして、先端部分をアリスの肩の付け根に突き刺した。しかしアリスフレームの体を人間の力で破壊できるはずがなく、数ミリ突き刺さっただけで刃先は止まってしまった。


 ナナクは無力感に包まれてしまった。アリスは命をかけて自分を救ってくれたのに、自分は何も出来ないのかと。アリスの目を見つめ、全身全霊で願った。自分は無事だ、もう終わったのだ、帰ろう、と。今の彼にできるのはこれだけだった。すると、セレスの嬉しそうな声が聞こえてきた。


「正解~。プロジェクションシステム、一名様ご案内ですわね。」


 次の瞬間、キーンという甲高い不快な音がナナクの頭の中に響き渡った。そして強い頭痛を感じたと思ったら意識を失った。


 ………

 ……

 …


 ふと気がつくと、彼は真っ暗な空間にいた。気を失っていたのは一瞬だったのか、それとも長い時間だったのか、分からない。自分の姿はよく見える。歩いても壁にぶつかる様子はない。どこか暗い部屋に閉じ込められている、というわけではないようだった。また、あれほどひどく損傷し、セレスにギプスのようなもので固定してもらっていた左腕も元通りになっていた。頭の包帯も無くなっていて頭部に傷はない。夢でも見ているのかと考えたが、なぜだかそれは違うと分かっていた。


「アリスを探さなきゃ。」


 彼はアリスがこの暗闇のどこかにいると感じていた。探して、助け出さなければいけないと決意した。


 すると突然、景色が切り替わった。窓のない、長い廊下のような場所を歩いていた。そこには何人もの男たちが慌ただしく走り回っていた。


「あのっ、すみません。」


 ナナクは彼らに声をかけたが反応がない。そのうち走ってきた一人とぶつかりそうになる。思わずナナクは手を前に出してぶつかった衝撃を受け止めようとしたが、その男とぶつかることはなく、体をすり抜けていってしまった。その様子に周囲が気付くこともなかった。そもそも先程まで自分はアリスと一緒に崩落した研究所にいたはずだ。幻でも見ているのだろうかと思ったが、アリスを助けるためにこの状況を一旦受け入れることにした。


 周囲の男たちの話す内容に耳を傾けてみた。どうやらここは軍事施設のようなもので、火災が発生しているらしい。ちょうど通路の交差点の部分で観察していたが、先程から凄まじい人数が出入りしている。100人どころではない。ナナクの知る限り一箇所にこれだけの人数が集まる施設は市内にもない。話の内容や周囲の掲示物から、ここがどこなのか、さらに言えばいつの時代なのか、ナナクには概ね見当がついていた。しかしそれを確かめることに意味はないし、アリスを探す方が大切だ。走り去っていく人間の話す内容から、『技術局』と呼ばれる部分から出火していることが分かった。アリスがそこにいる、と直感的に彼は理解した。火元の技術局を目指そうとしたが、内部の通路は複雑で、行き方が分からない。


 すると、後ろから、トントンとお尻を叩かれた。誰も自分に触れないと思っていたナナクは驚いて振り向いた。


「お兄ちゃん、こっちだよ、こっち。」


 消防隊のような服を来た小さな子供がナナクの服の袖を引っ張っていった。この子供は、先程から聞こえていたあの声と同じだった。


「ねぇ。君はもしかして、さっきの――」

「その話はあとで。早くしないと全部もえちゃうよ。」


 子供に手を引かれて、通路をどんどんと進んでいく。すると、白衣と防塵作業服を着た二人が走って逃げてくるのが見えた。間違いない。目指す技術局はこの先だ。中途半端に開放されたままの自動ドアを通ると、煙と炎が見えた。熱風がナナクの額に当たる。


「熱っ。」


 消防服を着ていた子供を見ると、その子も熱さで進めない様子だった。


「君は消防隊なんだよね、消火器みたいなの、持ってないの?」


 そんな格好をしているのだから、なにか火を消す道具を持ってきているのだろうとナナクは期待していただが、その子供の答えは意外なものだった。


「消ぼうたい?それはお兄ちゃんが、勝手にそう見えているだけなんじゃないの?ここでは目は役に立たないよ。」


 目は役に立たない、と言われても、この子供に連れられてここに来たのは確かだし、壁や床は確実にここにあるし、消防隊のような燃えない服を着ている。


「じゃあ、どうすればいい?」


 ナナクは聞いた。


「お兄ちゃんなら進めるはずだよ。ここから先は真っ直ぐに進むだけ、あと少しだよ。お姉ちゃんを助けてあげて。」


 通路の先で左に曲がっており、そこから火炎が上がっているのが見えた。火元はあそこだろう。しかしあの中に飛び込むことなど、いくらなんでもできそうにもなかった。すると、その手前になにか小さな存在が揺らいでいるのが見えた。勇気を出して踏み出し、その存在を確認した。


「え?猫?」


 曲がり角の手前に黒い猫が座っているのが見えた。その猫とナナクの目が合う。


「こんなところにいたら危ないよ。逃げな。」


 ナナクはその猫に手を伸ばそうとした。


「なんだい、君は?こんなところにわざわざ来るなんて。」

「わぁ、喋った!ペットロボットなの?」


 突然喋りだしたのでナナクは驚いてしまった。ロボットなら火災でも逃げないのも納得だった。


「さぁ、どうだろうね。君がそう思うなら、そうなんじゃないかな。」


 答えにならないような回答だった。


「それよりも君はなんだい?10分ほど前に何人かの子供が入り込んできたようだけど、君は僕やあの子達のような居候とは少し違う気がするね。」


 その猫はナナクの全身をジロジロと見た。


「『プロジェクション・システム』だね。アリスのALI側に投影しているのか。しかし設備もないのにどうやったんだい?」


 アリスやセレスが度々口にしていた言葉が全て飛び出してきた。この猫はただのペットロボットではないことは明らかだった。今更ながらこの猫が、逃げ惑う人達とは異なり、自分を認識していることが不思議だった。


「あなたは一体誰ですか?アリスのことをよく知っているようだけど。」

「あの子の『友達』かな。僕の名前は置いてきてしまったんだよ、すまないね。ここに残るのに容量も限られていたんだよ。そんなことよりもこの炎、どうする?僕が塞ぎ止めているけど、実はそろそろ限界なんだよ。こんなことは初めてだ。これは、呪いだね。破滅を招いてでも成し遂げたい事があったんだろう。わかりやすく言えば『殺意』かな。アリスにこんな事が起こるなんて、外の世界では何が起きたんだい?」


 外の世界、と言われてナナクはここがアリスの心の中なのだと理解した。彼女が以前言っていた大脱出前の時代の、彼女が生まれた軍事施設の幻を見せられていたのもそういう理由だったのだ。そんな事が実際に起こりえるのか分からない。しかしこの廃棄ステーションに来てから不思議なことばかり起きていたので、今更になって常識を疑うことは無意味だった。とにかくそうなのだ、と。


 ナナクはその黒い猫の横を通って、更に燃え盛る奥へ進もうと、覚悟を決めた。


「そうだね、君ならできるかもしれない。覚えておくといい。『ナノマシンは君の意志に従う』と。」


 その猫はゆっくりと出口の方へ歩いていってしまった。炎の勢いがますます強くなったように見えた。その炎の中に、ナナクは飛び込んでいった。体が炎に炙られる。あまりの熱さに気がおかしくなりそうになるが、服が燃えているわけではなく、物理的に燃えているわけでないことは確かだった。


 曲がり角を通って一番奥まで進むと、そこには椅子にテーブル、ソファー、そしてキッチンが揃った、住居のようなホテルのような部屋だった。その全体が炎に包まれており、焼け落ちるのは時間の問題だった。天井からはどろどろに溶けた照明機器が次々に落下している。もしこれが現実ならば数秒で全身に大やけどを受けて倒れてしまう。かえってナナクは冷静になった。相変わらず耐え難いほどの熱さを感じるが、ここにアリスがいるのだと思えば、不思議と耐えられた。


 彼はアリスを探した。この部屋の何処かにいると確信があった。ところがどれだけ探し回っても見つからない。ここで、ついさっきまで一緒にいた子供が言っていた、ここでは目は役に立たない、という言葉を思い出した。


 ナナクは目を閉じた。アリスの気配を探った。目ではなく、感覚で、心で、どこにいるか探した。気がつけば、炎の熱さを感じなくなっていた。自分がどこにいるのか、平衡感覚までもが曖昧になる。そして自身がぽっかりと開けた空間にふわふわ浮いている、ということがわかった。どこまでも遠くへと青い空間が広がり、白い霞のようなものが混じっている。目を閉じていたはずなのに、それが見えたのだ。


「これは『空』だ。」


 ナナクが空を見たのは初めてだった。今までは作られた映像でしか見たことがなかった。想像よりもずっと大きくて広い。この広い空間から彼女を探すのは至難の業に思えたが、彼のすぐ下に小さな床面が空中に固定されているのを見つけた。その場所に着地する。すると、彼女がそこにいた。そこに突然現れて見えるようになった。彼女は全身が炎に包まれており、苦しんでいた。


「アリス!」


 ナナクはそう呼びかけて彼女のもとへ駆けていった。しかし途中で透明な壁のようなものに激突してしまった。回り込もうとしても、その壁はアリスの周囲を守るように囲っているようだった。


「ナナク、どうしてここに……。来ないで。あなたまで燃えて無くなってしまう。」


 彼女が気づいてナナクの方を向いたが、その言葉は拒絶だった。ナナクは透明な壁を殴って壊そうとするが、びくともしなかった。何か道具が欲しい、そう願うと、どういうわけか、ナナクが対物ライフル銃を持っていた。


 すかさず彼はそれを使って壁を壊そうと撃ち始めた。壊れろ、と全力で願いながら撃ち続けた。手動での装填は不要だった。どういうわけか、弾がひとりでに次々に装填され、爆音を上げて飛び出していった。それでも全弾撃ち尽くしてもなお、壁には傷一つ付かなかった。


「来てはいけない。もう私はダメよ。私のことは置いて、ダンさんと帰って。」


 彼女の言葉を聞いてナナクは理解した。この壁は彼女が作っているのだと。


「そんな事できるわけがない。一緒に帰ろう。」

「もう手遅れなのよ。私なんて、最初からいなかった。そう思えばいいのよ。放っておいて。もう私の役割は終わったの。」


 彼女は拒絶の言葉を繰り返す。ナナクは気付いてしまった。彼女自身がここで死を選ぼうとしている。300年前に生み出されて、歴史に埋もれようとしていた彼女をナナクは現実に引き戻してしまったが、再び過去に消えようとしていたのだ。


 ナナクは彼女に訴えかけた。


「違う。絶対に違う。君の役割はそんなものじゃない。そもそも君にはもう役割なんて要らないんだ。言っただろ?生きる意味なんて要らないって。日々なんとなく生きていく。それで十分なんだよ。それが『家族』なんだって。アリス、逆なんだよ。生きる意味が有るか無いかじゃない。家族っていうのはそれ自体が生きる意味なんだよ。」


 アリスの表情が変わる。ナナクは彼女を覆う透明の壁を思いきり叩いた。すると、音を立てずにその壁はばらばらになった。ナナクは彼女のもとへ駆け寄り、全身を抱きしめた。彼女自身を焼き尽くそうとしている灼熱の炎にナナクも包まれ、絶叫を上げた。


「ぐあぁぁ、熱い~~。」


 肉体が焼けるわけでは無かった。しかしもっと大切な何かが失われるような恐ろしさを感じていた。


「ナナク、もう手遅れなの。私だってあなたと帰りたい。でももうダメ。ここに一度付いた業火は決して消えない。このままだとあなたまで燃えて無くなってしまう。もう、やめましょう。」

「僕は絶対に諦めない。君を守るって約束したんだ。君を一人にしないって約束したんだ。」


 彼はより強くアリスを抱きしめた。そして彼女を助けたいと願った。しかし業火は二人を焼くばかりだ。部屋の入口で出会った黒い猫が言っていた『ナノマシンは君の意志に従う』という言葉を思い出した。その意味を考えた。そしてここはどこなのかともう一度考えてみた。


 セレスが最後に言った言葉、プロジェクションシステム。黒い猫も同じことを言っていた。そしてアリスが行っていた宇宙船やステーションへのハッキングも同じ名前だった。また、アリスの体は全てナノマシンで出来ていると彼女自身が言っていた。つまり今、ナナクがアリスの心の中にいると感じていたのは、比喩ではなく、本当にアリスのシステムにハッキングを仕掛けているのだ。そしてあの子供の声に従って打ち出した対戦車砲と、『ナノマシンは君の意志に従う』という言葉。


「これだ!」


 ナナクは腕を高く掲げ、手のひらを開いた。そして強くイメージした。そこに現れたのは長さ5メートルほどの細長いロケットだった。


 彼女を助けたいという願いを込めて、そのロケットは轟音を上げて空へ高く打ち上がり、炸裂した。それはロケットというよりは散弾ミサイルだった。弾け飛んだ弾頭は、爆薬ではなく、水を撒き散らしていた。周囲には雨が降り始める。ポツポツ、ザーザー、ゴーゴーと急速に強くなっていった。青い空は分厚く黒い雨雲へ変わった。降り続ける雨により、二人を包んでいた炎は次第に弱くなり、ついには消えた。


 アリスが泣きそうな顔をしていたが、大雨の中で、実際に泣いていたのかどうかはもうわからない。それを確認しようとする間もなく、ナナクの意識は急速に落ちていった。


 ………

 ……

 …


「ううっ。」


 ナナクは意識を取り戻した。頭がボーッとしていた。カンカンと何かが頭の中で弾けるような感覚もあった。目を開くと瓦礫に覆われた研究所だった。立ち上がろうと手をつくと、左腕に激痛が走った。セレスに作ってもらった妙なギプスがそこにあった。つまり元の場所に戻ってきたのだ。


左腕を庇うように、持っていたセレスの傘を杖のようにして立ち上がると、アリスがそこにいた。背を向けているので表情はわからないが、先程まで右腕にあった恐ろしい刃はなく、肩より先は再度失われていた。


「アリス、助かっ……!」


 ナナクが彼女のもとに近づこうとしたが、彼女の目線の先に、恐ろしいものが残っていることに気付いた。きっとサイワン『だった』ものだろう。3分割したはずの体はそのまま不規則につながっており、ただの岩のような塊になっていた。それは蠢き、触手のようなものを素早く伸ばしたりしながら、周囲のものを時々破壊していた。アリスの方へも触手が伸びるが、素手で殴って迎撃していた。


 その塊からはゴロゴロと声のようなものが聞こえる。私は死なない、負けない、そう言っているようにも聞こえた。ナナクは、突如飛び出すサイワンの触手に警戒しながらアリスに近づき、聞いた。


「これは?どうなってるの?」

「あなたがいなかったら私もこうなっていた。ナノマシンの力に……いいえ、自分の心に飲み込まれてしまった者の末路よ。」


 心底、哀れだと思った。そして恐ろしくも思った。しかしもうサイワン自身への恐怖や怒りは湧いてこなかった。


「アリス、帰ろう。船長が待ってるよ。」

「そうね、でもこの人を放っておく訳にはいかない。」


 サイワンは周囲の壁や床面を手当たり次第に破壊していた。


「確かに危なくて帰れないね。」


 先程のように鉄骨を投げつけられる恐れもあった。強襲艦ならそのような妨害は無視できるだろう。しかしナナクたちの船は軍の払い下げとは言えその仕様は民間貨物船と同じだ。当たりどころによってはそのまま破壊されてしまう。


 ところがアリスの思いは違った。彼女は首を横に振った。


「ナナク、そうではないのよ。これは私達の、いいえ、元はと言えばすべて私の責任。」


 アリスはサイワンの方へ進んでいった。そして前を向いたまま後ろ手に、左手をナナクの方に伸ばした。


「そのセレスの傘を渡して欲しいの。セレスの、ではなくセレス本人よね。」


 そう彼女が言うと、傘がパッと開いてアリスの方へ漂っていった。するとセレスの声でこう聞こえてきた。


「アリス様、種明かしはご遠慮願えますかしら。」


 セレスの傘、もといセレスを受け取ったアリスは傘を畳んで一本に伸ばし、今度はレイピアではなくサーベルのような持ち方をした。今更物理的に切り刻むつもりでないことは、ナナクにも分かった。


「アリス、僕も行くよ。」


 ナナクは、ゆっくりと走り出したアリスを追いかけた。セレスがサイワンに突き立てられる瞬間に、アリスとナナクの手が重なっていた。


「ちょっと、お二人様。これは本来はお一人様用なんですのよ。仕方がありませんわね。今日だけ特別ですわよ。」


 セレスの声が聞こえると、ナナクは意識を失った。


 ………

 ……

 …


「ナナク、着いたわよ。起きて。」


 アリスに声をかけられて、ナナクは目を開けた。地面に立っている。空がまた見えるが、かなり暗く、夜になっていた。日が落ちたばかりの時刻で、遠くの方がわずかに紅に染まっている。


 自身に注意を移すと、左腕の怪我は治っていた。アリスの中へ入り込んだときと同様だった。アリスを見ると、ボロボロで穴の空いたワンピースは新品のようになっていた。そしてレイピアのように扱っていた傘ではなく、本当のレイピアとなって彼女の左の腰の鞘に収まっているようだった。紫の美しい装飾があしらわれている。


 足元を見ると、ちょうどセレスの農場のような土と草の地面だった。そこにあったのは畑の植物ではなく、ブロックのような形の整えられた石だ。そこには人の名前のようなものと年数が刻まれていた。


「これはもしかして、お墓?」


 ナナクが知る、宇宙空間に浮かぶ墓とはかなり様子が異なるが、彼は子供の頃に見た本にこのような景色があったことを覚えていた。


「そう、これはお墓。どの人も、幼いうち、若いうちに亡くなっているわね。」


 名前の下に二つ刻まれている年数は、生まれた年と死んだ年だろう。計算すると、20年以上生きた人物の墓は殆どなかった。


「これは誰のお墓なんだろう。あの強襲艦の隊長の関係する人物かな。アリス、分かる?」


 ナナクはアリスに聞いたが、彼女は前を向いたまま小さくうなずいただけだった。彼女はこの墓が、死んでしまったナノマシンヒューマンを意味していることを分かっていた。サイワンから聞かされていたことだが、ナナクがそのようなことを知っておく必要はないと黙っていた。


「隊長さんを探しましょう。このあたりの何処かにいるはずよ。」


 アリスが歩き始め、ナナクがそれに付いて行こうとしたところ、何者かに足を掴まれた。彼は転びそうになりながら自身の足を見ると、墓石の前の地面から手が生えて、彼の足をつかんでいたのだった。


「わあぁ、なんだこれ!?」


 そして土が爆ぜ、兵士の格好をしたゾンビのようなものが現れた。その身長はアリスよりも低く、まるで子供のようだった。


 アリスは反射的に左手の親指でレイピアの持ち手を弾いて鞘から抜き、そのまま器用に左腕でレイピアを掴み、構える。子供ゾンビ兵士は持っていた銃剣でナナクを突き刺そうとしたが、それよりも速くアリスがレイピアでそれを切り裂いた。切り裂かれたゾンビは倒れるのでもなく、そのまま霧のように消えた。ナナクが見回すと、同様の兵士の格好をしたゾンビが次々と地面の下から現れ始めた。小さな子供から大人まで様々だった。銃剣に仕立てたマスケットを構え、ある者はこちらを狙い、別の者は剣を突き立ててこちらに走って突撃してきていた。接近してきた相手はアリスが斬り倒し、遠くで狙ってくる相手は、消え去ったゾンビ兵からナナクが奪い取ったマスケットで逆に撃ち抜いた。


 アリスとナナクには作戦も会話も不要だった。遠近織り交ぜた二人の戦い方は完成の域へと達していた。武器の構成や相手が多少変わった程度では揺るがない。周囲から湧いてくるゾンビ兵団に二人は囲まれてしまったが、アリスが走り回るように敵陣へ突っ込んで次々と敵を撃破し、ナナクは遠方から狙う敵を全て撃ち抜いていった。マスケットは最も古代の銃で、銃弾が一発しか装填できない。ナナクもアリスの後を追うように走り回り、霧のように消えたゾンビ兵が落とす銃を回収しながら戦う必要があった。とは言え、このゾンビ兵よりも俊敏なロボットやアリスフレームを相手にしていた二人にとって、鈍重な動きのゾンビ兵団は敵ではなかった。


 次々と現れるゾンビ兵をすべて倒していく。二人は徐々に墓地の奥の方へと進んでいった。あれだけ大量にいたゾンビ兵が減っていった。既に日は完全に落ちて墓地は真っ暗になっていた。3割ほど欠けた月の明かりを頼りに二人は戦っていた。


 ついに最後の一体を倒した。ゾンビ兵は霧のようになって上空へ消えていった。その際、ぼうっと僅かに光っているようにも見えた。二人は一番奥へとたどり着いた。土と草だった地面はレンガ敷になっていた。そこにきっとサイワンがいるのだろうとナナクは思っていた。


 しかし彼はいなかった。代わりに、真っ黒に焦げた人の形をした物体が転がっていた。くすぶっている様子もなく、燃え尽きてからだいぶ時間が経ったように思えた。それを見たアリスはレイピアを鞘にしまった。もう戦う相手はいないということだ。ナナクが一歩前へ出て、それを観察した。


「アリス。もしかして、これが?」


「そう、手遅れだったのよ。プロジェクション・システムが働いた時点で予想はしていたけれど、この人は戦っている途中で、既に人としては死んでいたのだと思う。そこから先は私と同じ、ただのナノマシンの塊だったの。」


 サイワンは爆発して崩落した管制室とともに落下し、APBが砕けるほどのアリスの斬撃を受け、対戦車砲が直撃し、その過程で全身をナノマシンの塊に侵食されていったのだ。


 人間ならばその一つ一つが致命傷だ。既に死んでいながら、彼の執念と、それを燃料にするナノマシンの力で動いていただけだった。すると、頭上からあの恐ろしい声がまた聞こえてきた。


「アリスフレーム、貴様を……諦めるわけには……。」


 サイワンの姿が見えたが、輪郭もはっきりせず、透けているようだった。


「あいつの、亡霊?!」


 サイワンはナナクの方まで降りてきて、腕を振り下ろした。マスケットで撃ち落とそうとするが、銃弾は亡霊を通り抜けて虚空に消えていった。亡霊の腕がナナクの頭から肩にかけて取り抜けたような気がした。全身が寒くなり、心臓が止まるような恐怖を覚えた。


「ナナク、気をしっかり持って。もう、何かをする力はこれっぽっちも残っていない。」


 アリスはそう言うと、レイピアを再び抜いた。


「どうするの?」

「少し、離れていて。」


 ナナクが聞くが、アリスは答えずに、レイピアの切っ先を煉瓦でできた地面に当てて、高速で回り始めた。摩擦熱で切っ先が着火し、その炎はレイピア全体を包み込んだ。その炎の剣でサイワンの亡霊を斬った。亡霊は炎に包まれる。そのまま少し経つと、亡霊はキラキラとした光の粒となり、舞い上がって消えて無くなってしまった。ちょうどその下に残されていた焼け焦げたサイワンの体も後を追うように霧のように消えていった。それと同時に煉瓦でできていた地面がバラバラになって崩れ始めた。


「さぁ、帰りましょう。」


 アリスのその言葉を聞くよりも前に、ナナクの意識は闇に消えていた。


 ………

 ……

 …


 アリスが目を開ける。すると先程までサイワンだった塊のようなものは消え、そこには砂のようなものが散乱していた。


「ナナク、戻ってきたわよ。」


 声をかけるが彼はまだ目を覚まさない。


「ねぇ、平気?プロジェクションシステムは身体への負担が大きいって、私の上官が言っていたのだけど、こんな短時間に二度もそれをやるなんて。」


 ナナクは、アリスとサイワンの双方へハッキングを仕掛けただけでなく、サイワンの亡霊に当てられて消耗していた。生命への影響はないはずだが、それでも心配だった。少しするとナナクが意識を取り戻す。


「うう……。」


 ナナクが頭を押さえながらゆっくり起き上がり、サイワンがいた場所を見た。


「僕たちは勝ったの?あの怪物に。」

「ええ。」


 アリスは短くそう答えた。その表情はとても哀しげだった。


「アリス、どうして……。」


 どうしてそんな顔をするのかと聞きたかった。かろうじて動く右腕で、ゆっくりと彼女を抱き寄せた。肩の骨格がむき出しになった彼女が痛々しかった。


「その、右腕……、君が消えて無くなってしまいそうだったから、しかたなく取り除いたんだ。でもこんなひどい大怪我、どうしよう……。」


 ナナクが狼狽えるが、彼女は「心配ないわよ。」と言い目を閉じた。すると、周囲の気中ナノマシンがアリスの方へ集まり始めた。それは腕の形を作り上げていく。異形の刃ではなく、本来の彼女の右腕だった。ナナクが感嘆の表情で見つめている。


「アリス?腕が、元どおりに。」

「これが、私の……アリスフレーム、プロトタイプである私の本来の能力よ。時間が経ちすぎていて忘れていたわ。」


 アリスはまるで表情を変えずに遠くを見るようにそう言った。彼女がそのまま何処かへ言ってしまうような気がして、ナナクは彼女を可能な限り強く抱きしめようとするが、満身創痍でそれも叶わない。アリスが目を開いてナナクを見る。


「この腕は、誰かを傷付けるのではなく、こうやって使うものだったのよ。」


 そう言うと、アリスはナナクを両腕で優しく抱きかかえた。


「私のこの体は誰かを守るためのもの、みんなの大切な人、そのすべてを守るためのものなの。」


 アリスは独り言のように呟いた。彼女は過去に、己が生まれた意味は何かと問われたときに誓っていた。すべてを守る神たる存在になるためだと。永遠の寿命と圧倒的な力を持つ彼女に備わった神性から自ずと出た答えだった。


「でも、私達の、アリスフレームの生きる意味ってなんなのかしら。敵はもうどこにもいないのに。」


 すると彼女が握っていたセレスの傘がまたフワリと浮かんで開いた。紫のドレスを着た美女の姿で再び現れる。


「それは以前お伝えしたと思いますわよ。母なる地球への帰還、そのための準備でしょう。」

「あなたに聞いたんじゃない。」


 アリスは唇を突き出して頬を膨らまし、ちょっとムスッとした顔に変わる。その顔を見たナナクは、いつものアリスに戻ったのだと安心した。


 実のところ、ナナクは崩壊したこの研究所に降りてきてから、アリスが本当に元のアリスなのか、確認が持てなかった。いつもの、可愛らしくてどこか抜けている彼女ではなく、過去も未来も全て達観したような、人を超越した何かのように思えたのだ。今までのアリスは消えてしまって、なにか違う、より高位の存在になってしまうのかと心配だった。


 プルートは彼女のことを『神』と呼んだ。人類を導くのだと言った。それはきっと正しいのだろうとナナクは思っていた。彼女の生まれた理由、生きる本当の理由はそうなのだろう。しかし目にしているその姿は、まだ子供と言ってもかまわないほどの少女だ。それを成し遂げるにはあまりに小さい。戦っているとき以外の彼女の振る舞いは、見た目通りのそれだった。ナナクは今でも彼女が本当に戦略兵器として生み出されたのか疑いたくなるほどだ。どちらが彼女の本質なのかはわからない。いや、その両方なのだろう。


「アリス、帰ろう。神様にも休息が必要だよ。」

「え?何の話?」


 アリスが素っ頓狂な顔をした。ちょうどその時、上の方から二人を呼ぶ声が聞こえた。


「おーい、ナナク、アリスちゃん。生きてるかー!」


 崩落した研究所の上にいたのはバイクに乗ったダンだった。プルートもいるようだ。


「船長。僕はここにいる。アリスもいるよ。」


 ナナクが右手を振ってダンに合図した。それを見たダンはロープを取り出して放り投げてきた。


「上がってこられるか?」


 ダンが上からナナクにそう呼びかけるが、彼の左腕はひどい怪我を負っており全く動かない。ロープをよじ登ることは不可能だった。その様子を見たアリスは、ロープの端で輪を作り、ナナクの腰に通して結び着けた。そしてダンに合図した。引き上げようという作戦だ。


「いや、アリスちゃん、俺も無理なんだよ。昔の事故で腕が不自由でな。」


 ダンはそう言うが、ロープは手繰り寄せられ、ナナクの体が上がっていった。プルートがロープを引っ張っていたのだ。ダンがその様子を見ると、残った片足一本だけで重量のバランスを取ってナナクの体重を支えているようだった。


「お前器用だな。その破損具合でよくやるぜ。」

「話しかけないでください。集中していますので。」

「お、おう、悪ぃな。」


 1分もせずに、ナナクが上まで引き上げられた。ナナクの全身の様子を見てダンは驚いた。


「おいナナク、どうしたんだよその怪我は。」

「ここにいた、強襲艦の隊長にやられた。」

「なんだって?サイワンか。そうだ、そもそもあいつをぶっ殺しに来たんだ。」


 ダンが声を荒げ、銃を取りにバイクへ戻ろうとした。ところが既に決着はついている。


「死んだよ。」

「死んだ?まぁあの高さから落ちりゃ、さすがにそうか。……あれ?だとしたらお前のその怪我は何だよ。」


 転落死したのならその後にナナクが怪我をしたのは矛盾する。


「あいつなら、僕が撃った。」


 ナナクは目を逸らした。あの状況では結局サイワンの死因が何だったのかは分からないが、激闘の末に彼を殺害したのは間違いがない。


「え?撃ったって、お前……、そうか。」


 それを聞いたダンも何かを言い淀む。だからこそ、全く正当な理由があったとしても、アリスが人間を殺したということには絶対にさせたくなかった。彼女は強襲艦に突撃した際に、相手から機銃掃射を受けながらも決して致命傷を与えないように配慮していたほどだ。そんな彼女に、たとえ戦果だったとしても人殺しの名を与えたくない。ナナクはそう考えていた。


 重い空気が場を支配する。勝ったというのにまるで嬉しくない。そんな空気を壊そうと、ダンが口を開く。


「おい、それなら、ナナクが最強の男ってことだな。だってそうだろ?キャノンボール隊に単騎突撃してお前を連れ出したアリスちゃん、そのアリスちゃんを捕まえたサイワン、それでサイワンを倒したお前だ。」

「うん、そうだね。」


 ナナクは適当に相槌を打った。


「おい、ナナク。笑えよ。なぁ。」


 ひどく深刻そうな顔をしているナナクが放っておけなかったダンは、そう言ってナナクの背中を叩いた。


「痛い!腕を怪我してるんだって。」

「おお、そうだった。すまねぇ。」


 その様子を見ながらロープを片付けていたプルートは、結んだロープをバイクのサイドカーに放り込むと二人に近づいてきて言った。


「あの、ご歓談中に申し訳ないのですが、もうあまり時間がありません。それに気圧もかなり低下してきています。そろそろ人体への悪影響も懸念されます。」


 このステーションは残り数時間で墜落する。そしてサイワンが採光窓を突き破って開けた大きな穴は、自動修復でまかないきれず、大量の空気が漏れ出し続けている。


「そうだった、確かに少し息苦しいな。ナナク、帰るぞ。」


 ダンがナナクにそう伝えたあと、さらに研究所の下の方を覗き込む。


「おーい、アリスちゃん、帰るぞ。上がってこい。あれ?そういえばお前なんでロープ片付けちまったんだよ。」


 ダンはアリスに呼びかけた。そしてナナクを引き上げたときのロープがすでに片付けられていることに気がついた。


「あの人ならば容易に一人で登ってこられるはずです。」


 プルートがその理由を説明した。とは言えアリスは皆がいるところまで上がってくる様子がない。


「あ、そういうことね。でもほんとあいつ、一体何やってんだ?」


 その頃、アリスは研究所の水槽の周りでセレスと話していた。


「さて、アリス様。そろそろお帰りのお時間ですわよ。このリングが墜落するまで残り2時間半、といったところでしょう。」

「あなたはどうするの?ダンさんの宇宙船に乗せてもらうようにお願いできるけど。」

「いいえ、わたくしはナノマシン散布下でなければ活動できません。ここに留まります。」

「でも、それだと……。」


 それだとこのステーションの墜落に巻き込まれてしまうとアリスは言いたかった。もちろんセレスは承知だった。


「今も申し上げましたよ。わたくし達の目的は帰還だと。予定とは少し時期も形も違ってしまいましたけど、わたくしはこの子達を連れて還ります。」


 そう言ってセレスは傘を閉じ、上を見上げた。穴の空いた採光窓からは、過去に地球と呼ばれていた白い惑星が見えていた。


「そうそう、これをナナク様にお渡しくださいまし。」


 セレスは瓦礫の横で破壊されていたキャビネットの中から袋を取り出し、戻ってくると、アリスに見せた。


「その袋は確か、あの種?え、でもこれは……。」


 アリスはこれを受け取って良いものかどうか迷っていた。これは徹底した管理が必要な、ナノマシンにより組成が変えられた特殊な種子だからだ。


「それをどうするかは、ナナク様にお任せいたします。」


 ナナクと聞いて、少し考えた彼女はその種子が入った袋を受け取った。


「それとアリス様、ナナク様をよろしくお願いいたしますね。あの方が幸せに暮らしていただければ、この子達も報われます。」


 セレスはそう言って研究所を見渡した。ここには恐らくアリスフレームだけでなく、ナノマシンの人体実験で命を落とした人達もいたのだろう。ナナクは世代こそ違うが、彼らの最後の生き残り、でもある。


「それではそろそろ、わたしくしもお暇させていただきます。皆様、ごきげんよう。」


 セレスは傘を畳んで、水槽へ向けて放り投げた。セレスの姿は消えていた。傘だけが、水槽にぽちゃんと落ち、沈んでいった。


 アリスは水槽を背にして歩き去った。その近くに落ちていたナナクの銃を担ぎ上げ、そこから多少の助走をつけて、大きく飛び上がり、ダンたちが待つ管制塔エリアの床面の高さまで一気に登っていった。ちょうどダンの目の前で着地した。


「おお、アリスちゃん、戻ってきたな。急いで帰らねぇと。」

「ダンさん、ごめんなさい、遅くなりました。それと、ナナクにあんなひどい怪我をさせちゃって。私が守らないといけなかったのに。」

「大して待ってねぇよ。それと、こいつの怪我は、もうしょうがねぇだろ。サイワンの野郎と本気で戦争して生きてるだけでも奇跡だよ。」


 ダンはそう言うと停めてあったバイクにまたがった。アリスは何故このバイクがここにあるのか疑問だった。


「そういえばダンさん、どうやってここまで来たんですか?確か、ゲートが閉鎖されていて……。」

「あいつ、えーっとプルートだっけ?が、壁に穴開けて、ここまで来たんだよ。」


 バイクの帰りのルートを確保するためか、周囲を片付けていたプルートを指してそう言った。プルートもそれに反応して振り向くと、アリスに気づいたようだった。こちらへ歩いてやってくる。


「ってか、アリスちゃんの、その喋り方。直ったの?」


 ダンは自身の頭を差してそう言った。ダンは相変わらず、アリスが頭に衝撃を受けてデータが飛んで喋り方が変わったのだと思っている。


「もとには戻りましたけど、私にも何がなんだかよく分かりません。しばらく夢を見ていたような不思議な感じです。」


 そう言っているうちプルートがアリスの元へやってきた。


「ああ、あなたも無事だったようですね。軍の人達に拘束されたときはどうなることかと……。っ!」


 プルートがアリスのなにかに気が付き目を丸くした。


「も、もしや、アリス様ですか。元に戻られたのですね。この研究所で捕らわれたとお聞きしておりましたが、お戻りになられるとは。あまりお力になれず、申し訳なく。」


 彼女は膝を付き、頭を下げていた。アリスは困惑してしまう。


「や、やめてください。だから、そういうのは。」


 しかしプルートは引き下がらない。


「いいえ、アリス様は全ての始まり、プロトタイプなのです。我らをお導き頂くだけの資質がございます。そして、いつか人そのものを導くため、我らをお使いください。」


 それを見ていたナナクは、プルートのいつものアレが始まった、と思った。アリスを引っ張りながら、プルートにこう伝えた。


「プルート、ごめんね、いま神様は閉店中なんだよ。」

「え?閉店?ですか……?」

「そう。今はそういうことやらないの。どうしてもって言うなら僕たちと一緒に帰ればいい。船長に聞いてみよう。」


 ナナクが聞くまでもなくダンが答える。


「聞こえてるよ。ってか時間が無ぇってお前が言ったんだろ?とにかくお前ら全員早く乗れ。ナナクはここ。そんで、アリスちゃんとプルートの二人は、どこかに適当にしがみついてろ。お前等なら万が一落ちても大して問題にならねぇだろ。はぁ~。」


 ダンが3人に指示をした。ダンも息苦しそうだった。空気もかなり薄くなっているようだ。ナナクがバイクのサイドカーに収まり、プルートはその後ろの荷台部分に乗った。ダンはしがみつけと言ったが、アリスが乗れそうな場所はない。


「ダンさん、私、走れます。行きましょう。」


 アリスはそう言うと適当な方向へ全力で蹴り出した。アリスの全力疾走はバイクより速い。


「そっちじゃねぇぞ!」


 ダンはそう叫んで別の方向へバイクを加速させていった。アリスは方向転換してダンの後をついてきた。ナナクはバイクが無事に走り出してホッとしていた。アリスが乗らないと聞いて、プルートならば自分も歩くと言いだしそうだったからだ。


「あれ?そういえばプルート。このステーションの軌道を修正する話はどうなったの?」


 ナナクはプルートが管制室を目指していたことを思い出し、振り向いてプルートに聞いた。彼女が答える。


「崩落した管制制御室を見ていたのではないですか?制御機能は失われました。こうなると私でもどうにもなりませんよ。ですので、皆様の脱出ルートの確保を優先させていただきました。」


「あー、だから船長と一緒に来てたのか。」


 プルートはアリスやサイワンと同様に管制室の崩落に巻き込まれていたが、超高濃度のナノマシンが漂う研究所へは降りずに、自身の能力で壁を解体して宇宙船までの脱出ルートを構築していたのだった。ちょうど工業プラントまで開通させたところで、ダンと出会い、彼が乗り捨てていたバイクに同乗してここまで戻ってきた次第である。


 4人はちょうど管制塔エリアと工業プラントを結ぶ突貫工事のトンネルを通過していた。気圧差で暴風が吹き出してくる。バイクのタイヤが滑って上手く進めないが、それに気づいたアリスが後ろから押す。なんとか工業プラントまで戻ってきた。ここまでくればあと少しだ。急に気圧が上がったことで、息苦しさはなくなったが、耳がキーンと痛くなる。ナナクは首を伸ばして耳を抑えて、あーあー、と言っている。上手く耳抜きできないのだろう。


 すると所々に空いた採光窓を通して、視界にはとびきり大きい白い物体が飛び込んでいた。急接近した雪玉、つまり地球だった。相当ステーションの高度が落ちて、地球の重力に捕らえられていることを意味している。


「船長、あれ!上見て!」

「何だよ、ナナク。って、やべぇぞこれ。」


 その様子を見たからなのか、プルートが動いた。


「ダンさん、バイクを止めてください。私はここで降ります。」


 プルートは足を下ろした。プルートは引きずられている格好になっている。ダンは驚いたが、仕方がなくバイクを停めた。それを確認するとプルートが言った。


「あなた方の宇宙船。ジャクソン・ヘモウス号ですが、接舷時の登録情報が正しいとすると、あのエンジン出力ではもう地球の重力圏を抜け出せません。つまりこのステーションと道連れです。」

「なんだって?じゃあどうするんだよ。ってか、なんで先に言わねぇんだよ。」


 ダンの指摘はもっともだったが、プルートはそれには答えずに解決策を見出す。


「ちょうどこのエリアのメンテナンスパイプにある、脱出用ポッドをタグボート代わりに使います。私が操縦して皆様を押します。」


 ナナクはこのエリアの上へ行ったときに、たくさんの宇宙船のようなものを見たことを思い出した。プルートはあれを使うというのだ。たしかに彼女ならば遠隔でも操縦ができそうだった。


「皆様は急いで宇宙船へ戻って離陸してください。私は後から合流します。ですのでナナクさん、これを。目印です。」


 そう言ってプルートは自分の帽子をナナクに手渡した。


「え?目印って、どういうこと?」


 ナナクが困っているうちにプルートは松葉杖を器用に使って走り去ってしまった。きっとエレベータに乗ってポッドのところへ向かうのだろう。バイクが停まったのを見て、先に進んでいたアリスがこちらに戻ってきた。


「ナナク。プルートは何をしに行ったの。」

「この上に小さい宇宙船がたくさんあったの覚えてる?それを使って僕たちの宇宙船を押して雪玉から離脱するんだよきっと。とにかく3人で宇宙船まで戻るんだ。」


 ダンはバイクのスロットルを捻り、再び加速させ始めた。


「ナナク、急ぐぞ。強くつかまれ。」


 プルートが減った分と、彼女を振り落とす心配がなくなったことで、よりスピードが出る。カーブをドリフト気味に曲がりながら宇宙船を目指した。アリスもちろん横にいる。


 ………

 ……

 …


 最後の交差点、食堂の角を曲がると、バースへ上がるためのエレベータが見えてきた。アリスはさらに加速して前へ出て、エレベータのボタンを押しに行った。3人揃ってエレベータに乗り込む。ナナクの右手には先ほどプルートから預かっていた帽子が握られている。


「ナナク、その帽子は?プルートがかぶっていたもの?」

「そう、僕たちを押すのに目印にするって。」


 アリスは手を差し出し、その帽子をナナクから受け取った。ただの帽子とは思えない違和感を覚えた。


 ここまで来てようやくダンはホッとした表情を見せていた。


「あー、それにしても、なんとかここまで戻ってこれたな。後少しだ。」


 彼は念のためなのか、バイクの銃座に取り付けていた自動小銃を持っている。


「アリス、ずっと走ってたけど、大丈夫。疲れてない?」


 ナナクがアリスを気遣ってそう聞くが、実際のところ彼女はナノマシンが凝縮された水槽に転落したときに全快しており、ちぎれた右腕もナナクの活躍により復旧済で、体調は万全だった。むしろ全身に傷を負っているナナクのほうがアリスは心配だった。


「私は大丈夫だけど、むしろナナクはその腕は痛くないの?」

「うん、セレスに固めてもらって、痛みはかなり引いてるけど、あとでちゃんと病院行けって。あれ?そうだ、セレスはどこに行ったんだろう。」


 ナナクはセレスのことを思い出した。セレスの協力が無ければアリスも救えなかったしサイワンも倒せなかったのだ。そういえば彼女に礼も言っていない。


「セレスはここに残るそうよ。一緒に地球に落ちてもかまわないって。」

「ええ?そんなバカな。」


 ナナクは信じられなかった。


 一方でアリスは納得していた。彼女は自身が生まれた場所、軍事施設にいた研究者にどこか似ているのだ。アリスにはあのような強烈な人物に何人も心当たりがあった。


「ああいう人に何を言っても無駄よ。」


 セレスに限らずあのような人物は独自の美学を持っており、常識が通用しない。アリスフレーム全般に言える頑固な性格は彼らの特徴が反映されているのかもしれない。


「そういえば、セレスからこれを預かってるんだった。ナナクに渡せって。」


 アリスが先程セレスから渡された袋を取り出した。それを見たナナクの目の色が変わる。


「え?これってもしかして。」

「そう、あの種よ。どう使うかはナナクが決めるように、ですって。後で渡すわね。」


 そう言って再び種が入った袋をしまい込んだ。エレベータはちょうど中間地点に到達していた。ダンが口を開いた。


「それにしても、今回の仕事は大赤字だよ。結局何も回収できなかったな。唯一この自動小銃と、ナナクのそのデカいライフルだけだ。」


 ダンはそう言って、自分が持つ銃を掲げ、アリスが代わりに担いでいたナナクの対物ライフルを指さした。


「こんなブツ、ヤバすぎて値段なんか付かねぇよ。所持許可なんて通るわけねぇだろうし、こっそりしまっとくしかねぇぞ。っていうか、そもそも俺たち母港に帰れるのか?軍の奴らとやりあって、隊長仕留めたなんて、少なくとももう市内には怖くて近づけねぇぞ。」

「誰も見ていないし大丈夫でしょ。それにさ、今回の仕事の成果、この子のことを忘れないでよね、船長。」


 ナナクは壁によりかかりながら、腕でアリスの方を示した。アリスが、え?というような表情をする。


「あー、アリスちゃんか。確かに回収品だ。これで元取ったって、言えるのか?」

「この子の価値は、お金で説明できないよ。」


 ナナクはアリスの価値はプライスレスだと言いたいのだ。


「まぁそうだな。強襲艦に単騎突撃ぶちかました娘なんて誰も欲しがらねぇ。」

「船長!」

「冗談だよ。分かってるよ。」


 ダンがナナクをなだめていると、エレベータがバースまでたどり着き、ドアが開く。


「さぁ、泣くか笑うか、これで最後だ。急いで乗り込め。」


 ダンがそう声をかけ、3人は宇宙船へ駆け込んでいった。


 ハッチを開け、中に入り、螺旋状の階段を登っていく。ダンはコックピットに、ナナクはその横の席に座った。ダンは素早くシートベルトを締め、コックピットの画面をまともに見ることもせずに音だけを頼りにコンソールを操作し始めていた。


「エンジン始動!ナナク、緊急シーケンス4番。」

「えーっと、4番は、これだ。」


 二人はよく訓練されたようにテキパキと出発の準備を進めている。足元からゴゴゴッと振動が伝わり始めた。下のフロアの方からはヒューヒューという音も聞こえる。ナナクの左腕が動かせずにシートベルトが装着できないことに気付いたダンは代わりに締めてやった。ここで困ってしまうのはアリスだ。仕事がない以前に、そもそも座席がない。


「あれ?ダンさん、私ってどこにいればいいんですか?」

「そのへんに乗員用の補助座席があるだろ。そこに座ってろ。」


 ダンに言われてアリスは以前見た船のマニュアルを思い出す。それに従って、テーブル下のレバーを引いて椅子を回転させ、同時にベルトを取り出す。持っていたプルートの帽子はその横の椅子の背もたれ部分に引っ掛けた。振動が激しくなり、階下の機関室からも大きな音が漏れてくるようになった。アリスが補助席に座り、ベルトを締めた頃には発進の準備が整ったようだ。


「船長。こっちは全部オッケー。いつでも出られる。」

「タワーコントロール。離陸要求。応答確認。」

「応答確認。」

「ランウェイ確認。」


 ダンとナナクが出発直前のやり取りをしている。するとコックピットに別の声が入り込んできた。


<皆様も準備できたようですね。こちらもいつでも出せます。>


 プルートだった。


「この声はあいつか?無線機に入れるって言ってたな。」

「プルートだ。雪玉から離れるために、僕たちを押すんだよ、これから。」

<ここでの私の最後の仕事をやらせてください。管制塔よりジャクソン・ヘモウスへ、ユニバーサルダイレクション082、ランウェイクリア、離陸許可します。>

「ランウェイクリア、発進!」

<それではよい旅を。>


 ダンが中央部のレバーを押す。この宇宙船唯一の物理操作レバーだ。ゴゴゴと足元から響いていた音は次第に大きくなり、周波数も徐々に上がっていく。


「ダイレクション082、合わせるぞ。3…2…1…リフトオフ!」


 ダンの宣言と同時にバコンという大きな衝撃が船内全体を揺らし、背中がシートに押し付けられる。窓の横に見えていたステーションが動く。実際に動いているのは自分たちの方だ。下方向への疑似重力がなくなり、落下していくように錯覚する。ステーションから徐々に離れていくが、窓の外に大きく広がる白い惑星からの距離は広がる様子がない。単に大きいからそう感じるだけなのだが、本当に吸い寄せられているようにも思える。事実、この宇宙船の推力だけでは地球の重力を振りほどけ無いほど高度が落ちていた。


「やべぇぞ、このままだと本当に離脱できねぇ!」


 コックピット内には様々な警報音が鳴っている。そのほとんどは、当初の航路を外れて墜落する恐れが高い、という警告だった。


 もう一つ別の警告があった。アリスにも聞き覚えが有るこの音は他の宇宙船の接近を意味していた。


「船長!後方6時方向からより接近物あり。」

「分かってるよ!それどころじゃねぇだろ。」

「あれだよきっと、プルートが操縦するって言ってた脱出用の宇宙船だ。」


 プルートからの通信が入る。


<後方より皆様を押し出します。衝撃に備えてください。>


 その声の数秒後に宇宙船内にドスンという衝撃が走り、より強くシートに背中が押し付けられた。2度、3度と同じ衝撃を受け、そのたびに加速度が増していく。彼らを押している脱出用の宇宙船はもともとは地球への帰還用だ。地球表面からの上昇用ほどでないとは言え、その巨大な重力に引かれて、激しく加速していく宇宙船を安全な大気圏突入速度まで減速出来るだけのエンジンが搭載されている。月面を基準に設計されていた彼らの宇宙船と比べると、例えそれが300年前の古い設計だとしても推力は桁違いだった。そんな脱出用ポッドが複数で彼らの宇宙船を押している。強烈な加速度で、ダンもナナクも身体をまともに動かせなくなってきた。ダンは力を振り絞って操縦を続ける。


「うおおぉぉぉーーー、落ちてたまるかよーー!」


 数分後、強烈な加速度がストンと消えた。ダンとナナクは、はぁはぁと肩で息をしている。警報音は全て消えていた。正常な航路に戻ったのだろう。ナナクが窓の外を確認すると、雪玉はかなり後方に位置しており、心なしか小さく見えていたが、相変わらず特大サイズには違いない。


「船長、まだあんなに近くにいるけど、大丈夫なの?」

「これだけ加速すれば大丈夫だ。放っておいても雪玉の重力圏を抜ける。」

「やった!帰れるんだ、本当に。」


 ナナクが右腕でガッツポーズをした。既に宇宙船内は無重力になっていた。アリスは補助座席のベルトを外して立ち上がろうとした。そのまま身体が浮き上がってしまう。


「わわわっ。これ、どうするんですか!って、あーーー。」


 彼女は天井にぶつかって跳ね返り、くるくる回っている。


「アリスちゃん、何やってんだよ。」

「そうか、アリスは雪玉で生まれてるから、もしかして無重力だと上手く動けないの?」


 どうしようもなくなったアリスは身を縮めて丸まり、漂いながらピンボールのように船内を跳ね回っている。ナナクもシートベルトのロックを外し、椅子や天井部のグリップを器用に伝ってアリスのところまでやってきた。航行中の無重力環境用の機能があるのだろう。靴を磁力か何かで床面に吸着させて固定している。そしてアリスを掴み、その手を壁のグリップ部分に誘導してやった。


「色んなところにグリップがあるだろう?それを掴んで進むんだよ。」

「ありがとう。でもこれ難しい……。」


 アリスにとって無重力は未体験だった。言われてすぐに自由に動けるはずがない。それを見たダンは笑っていた。


「まぁ、しばらく特訓だな。うちで働くなら、無重力で生活全部できるようになっておかねぇとダメだぞ。」

「が、頑張ります。あわわっ。」


 アリスがまたもやグリップを掴みそこねて漂ってしまう。反対側まで進んでようやく椅子の角に手が届いた。姿勢を落ち着かせたアリスはダンに聞いた。


「ところでダンさん、これからどこへ行くんですか?」

「どこへ、って?もちろん母港に帰るぞ。着くのは3日後だ。」


 ナナクがアリスのところへやってきた。


「そうだアリス、母港に戻ったら、観光しようよって話、覚えてるよね。まぁ観光名所なんて一つもないけど、君なら初めて見るものがいっぱいあると思うんだよ。」

「うん、楽しみにしておくわね。」

「例えば『回転発電所』っていうのがあるんだよ。日の当たるところと当たらないところの温度差でぐるぐる回る発電機なんだ。あの街にしかなくて、めちゃくちゃでかい。」

「へぇ、なにそれ。」


 二人の話にダンがコックピットから割り込んでくる。


「アリスちゃんは田舎者だから、ナナクも色々自慢できるな。良かったな。」

「ちょっと船長、そんな言い方って。」

「ハハハッ。でもよ、大体合ってるだろ?」

「ダンさん、ひどいです。」


 アリスがふくれっ面をする。ダンはコックピットへ向き直し、次の仕事へ移ろうとしていた。


「まぁいいや。さっき押されたのでちょっと進路がずれたから、そろそろ補正するぞ。お前等もう一回座席に戻れ。」

「そうだ、船長、プルートが後から合流するって言ってたんだけど、一緒に来てる宇宙船はある?」


 ダンがレーダーの画面を確認したが、接近物はない。


「いや、無ぇな。さっき俺たちを押してたのもずっと後ろにいる。」


 ナナクは外を確認したが、何も見えなかった。あれ程の大きさがあったステーションも、点ほどにも見えなかった。どこにあるかもうわからない。彼女はあれほどまでに『アリス様』と言っていたほどなので、あの場所に留まるとは考えにくかった。


「あとから母港に来るのかな。」

「あいつ一人で母港に来たら大騒ぎになるぞ。とにかく元の軌道に戻すぞ。目的地が同じならそのうち近くに現れるだろ。」


 ダンはそう言うとコックピットのコンソールを操作しようとした。


「あれ?動かねぇ……。おい、ナナク、操作できねぇんだけど、ロックかけたか?」


 操作ができないようだったが、ナナクにはもちろん心当たりはない。


「いや、僕は何もしてないよ。」


 ナナクがダンのところへ戻ろうとすると、椅子に引っ掛けてあったプルートの帽子がふわふわ漂い始めた。無重力で漂っているのとは少し違う様子だった。3人の視線が集まる。その帽子はコックピット前方のコンソールの上へ降りるとそこでピタリと止まった。そしてコンソールの画面が乱れる。そして画面の中に現れたのはプルートだった。


「あっ、お前は!」


 真っ先に声を上げたのはダンだった。

<はい、プルートです。この度は弊社RTSをご利用いただきありがとうございます。当機はリング発、マザーポート行きの最終便となります。>


「まさか、この帽子が『目印』って。この宇宙船の中に入って来たのか。」


 ナナクが渡された帽子の意味をここで理解した。アリスフレームならば他のシステムに侵入ができる。それも単に操作権限を奪うというレベルではなく、自らの身体と同様になる。


<目印にする、と申し上げました。直接来るのも困難でしたので、インバース・プロジェクションでここまで参上いたしました。>


 ダンが操作しようとしていたコンソールが勝手に操作され、宇宙船にわずかに軌道補正のための加速度がかかり始める。アリスとナナクが宇宙船の片側に徐々に吸い寄せられる。アリスはナナクの腰を掴み、コックピットの横まで引っ張り上げていった。


<私の職場ももうすぐ墜落しますし、ここで働かせてもらうことといたしました。>


 コンソールのところにあった帽子が霧のようにフワッと消えると、画面の中の彼女が今度はそれをかぶっていた。


「おい、俺の爺さんの船。なに勝手に入り込んでんだよ。」


<連れて行っていただけると、先ほど確かにお聞きしておりました。お前の場所は貨物室だと。貨物室が良いならばここでも良いでしょう。>

「そう言ったかもしれねぇけどよ……。」


 ダンもまさかプルートがこのような形でついてくるとは思っていなかっただろう。


<ジャクソン・ヘモウス号を改め、プルート号とでもお呼びください。>

「お前、厚かましいぞ!」

<ふふふっ。>


 プルートが画面の向こうで笑う。ナナクは、プルートも笑うことがあるのだなと妙なところで感心していた。


<それでは、アリス様。それと後のお二人も、よろしくお願いいたします。>


 画面の中のプルートが脱帽して頭を下げた。


「おーい、なんで俺たちがその他みたいな扱いなんだよ。俺が船長だって忘れんなよ。」


 全員の笑い声が宇宙船のデッキ内を満たしていた。宇宙船は地球の重力圏を脱出し、月の周囲の母港――マザーポート――と呼ばれる場所へ進んでいった。往路から比較して二人増えたアリスフレーム、アリスとプルートを乗せて。


 ………

 ……

 …


                (THE END)

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