第5話

 遠い記憶の中に眠っていたハルの存在が、少しだけ形を変えた。

 世界で一番かわいかったハルが、私の太陽だったハルが、だんだん、どこにでもいるお母さんの顔に見えてくる。


「……ハル!」

 私が急に大きな声を出したので、ハルがはっと我に返ったように目をパチンとさせた。

「お、おめでとう」

「え? なに? 急に」

「結婚と、出産と、それから、二人目も。赤ちゃん、すごいかわいい。ごめんね。ずっと連絡取ってなくて。お祝いも、なんにもしてなくて」


「あははは」

 ハルが、大きな声で笑った。笑うと、やっぱり花が咲いたみたいにかわいい。


「別に、不幸なわけじゃないんだけどね。……うん。そうだね。幸せだね。旦那さん、優しいし。なんだかんだ言って、この町好きだし」

 ハルが、また私が知ってるハルの顔になってホッとする。


「ナツも、おめでとう」

「え? なにが?」

「なにって、海外で新しい仕事始めるんでしょ? すごいじゃん。がんばりなよ」

「あ……」

 そうか。そういう見方もあるんだ。というか、そういうことだ。

「ナツは、どう思ってんの? えーと、ほら、支店長の……藤井さんだっけ」

「どう思うって……」


 藤井さんと出会ったとき、ハルみたいだと思った。

 ハルと疎遠になって以来、ハルほど仲良くなれた人はいなかった。中高でできた友だちとも、職場でできた恋人とも、どこか距離があって、みんな離れていった。


 藤井さんとは違った。最初から、ちっとも緊張せずに素の自分でいられた。藤井さんがいると、チーム全体がまとまって、私もチームの一員になれた。

 まるで、ハルと一緒にいたときみたいだと思った。


 慣れ親しんだ職場を離れてシドニーへ行くのは怖い。でも、藤井さんと離れるほうがもっと怖い。


「好き?」

「……ハルさ。昔っから、そういう話好きだったよね。ナツはタッちゃんのことどう思ってんのー? とか。アキラくんのこと好き? とか。よく聞いてたよね」

「そうだったっけ」

「そうだったよ」

「今、ごまかしたでしょ」

「……」


 職場恋愛は難しい。うまくいっている時はいいけど、うまくいかなくなると、仕事もプライベートも泥沼だ。前の職場はそれが原因で辞めた。


「海外でさ、上司と恋仲になってさ、うまくいかなくなったら地獄じゃない?」

「やっぱり好きなんじゃん」

「好きだけれどもさ」

「赤くなってる」

「あああああ」


 頭を抱えて悶絶した。

 せっかく出会えたのに。ハルみたいな人に。また壊れてしまうのが怖い。


「大丈夫だよ。ナツなら、絶対うまく行くって」

 ハルが、私の背中をポンポンと叩いた。

「なにを根拠に?」

「根拠はないけど。あははは」


 私はたぶん、少し変わっているのだと思う。あまり、他人と一緒にいたいと思わない。他人に関心を持ってもらいたいとも。疎まれたり、迷惑をかけたりしたくないだけだ。


 ただ、ハルと一緒にいると、心がポカポカする。それが幸福だというなら、そうなのだと思う。その人と一緒にいたいと思うことが好きだということなのなら、私はハルが大好きだったし、今は藤井さんのことが、誰よりも好きだ。


「じゃあ、ナツ。私、上の子のお迎えがあるから」

 ハルがベンチから立ち上がった。

「あ、そうか。ごめん」

「やだ、ナツが謝んないでよ。こっちこそゆっくりできなくてごめんね」


 ハルがベビーカーに赤ん坊を乗せる。

「連絡先、交換しない?」

 私がスマホを出すと、ハルがはにかんだように笑った。

「シドニーから、写真送ってね」


 連絡先を手早く交換した後、ハルは白くて小さな手をひらひらと振って去って行った。


 ハルが記憶していた私が、現実の私とズレていたように、私が記憶していたハルも、私の記憶の中だけに存在しているのかもしれない。でも、どのハルとナツが本当かだなんて、誰にもわからない。だったら、自分が好きなように覚えてていいのかもしれない。


 過去に起こったことは変わらないのに、私の物語が変わる。今までの物語が変わると、これからの物語も違って見える。


 大丈夫。うまくいく。そんな気がしてくる。


 私もベンチから腰を上げて、桜の木をもう一度見上げた。

 私はハルみたいになりたかった。生まれた土地にしっかりと根を生やして、みんなが集まる場所に、いつも当たり前のようにいる、この桜の木みたいな人に。


 大丈夫。私も、ハルも、藤井さんも、きっとうまくいく。


 桜の木を背に、私は歩き始めた。遠くのほうから、チリンと風鈴の音が聞こえた。

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春にさよなら かしこまりこ @onestory

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