第4話

「こらこら」

 ハルが笑いながら赤ん坊を私から抱き取り、スリングを付け直した。赤ん坊はハルの胸の中で、指をしゃぶりながら静かになった。

 ハルは、私が答えるのを待つように、黙っている。


「高校出てからずっと働いてたんだけど、初めてまとまったお休みもらったの。時間ができたら、なんか懐かしくなって」

 少し考えてから、そう答えた。

 嘘じゃないけど、本当でもない。


 本当は、ハルに会いたかった。

 会って、確かめたいことがあった。


 藤井さんが私を選んだのは、もしかしたら、私はまた輪の中からはみ出したからじゃないのか。

 調理場は、今でも基本的に男性社会で、女性だというだけでも浮いてしまうのに、私は人付き合いが苦手だ。

 前の職場も、人間関係がこじれて辞めた。


 今の職場に三年間もいられたのは、完全に藤井さんのおかげだと思う。私が職場に馴染めるように、何度も助け船を出してくれた。セクハラしてきた調理師をその場で辞めさせたこともある。


 藤井さんがいないと、私はまた孤立してしまうだろう。だから、藤井さんは私を誘ってくれたんじゃないのか。昔、ハルが私をいつも助けてくれたみたいに。


 結局私は、ハルみたいに優しい人が、気を使って仲間に入れてくれないと、社会に適合できないのかもしれない。言葉もろくにわからない国で、藤井さんしか頼れる人がいないのに、私はうまくやっていけるんだろうか。


「シドニー、ナツ一人で行くの?」

「ううん。藤井さん……あ、えっと。支店長さんと一緒。他のスタッフさんは、現地の人なんだって。って言っても、日本人がほとんどらしいけど」

「藤井さんって、男の人?」

「うん。そうだけど」

「まあ、ナツの場合、男でも女でも関係ないか」

「え? なんの話?」

「ううん。大したことないの。それよりさ、藤井さんとナツって、どういう関係?」

「支店長さんと調理師だけど」

「あのね。藤井さんはね、ぜっっっったいナツが好きだと思う」


 ……ん?

 喉の奥から何の言葉も出てこなくて、代わりに、ひゅうと空気がもれる音がした。

 思い出した。そう言えば、ハルは、こういう話が好きだった。

 昔もよく「○○くんはね、ぜっっっっったいナツが好きだと思う」とか言われていたっけ。完全にハルの独り合点だったけど。


 ふっと吹き出したのは、私とハルとどっちが先だったのか。

 次の瞬間、私たちは声を上げて笑っていた。


「あはは。ハル、ほんっと、はは、変わってない」

目尻ににじんだ涙をぬぐう。

「ナツだって。変わってないよ。もう、全然わかってないでしょ」

「え? なにが?」

「みんな、ナツが好きなんだよ」


 ん? 

 さっきから、ハルは誰の話をしているんだ。


「みんな、ナツが好きだったよ」

「あははは」

 私の乾いた笑い声が響く。ハルは、今度は一緒に笑ってくれなくて、困った顔をしている。


「ナツはかっこよかったから。手足がスラーっと長くて、モデルさんみたいで。しっかり自分を持ってて、人と群れたりしないで。大人になっても、変わらないね」

 は?

 誰だよ、それは。

 

「……ハルの、記憶違いじゃないのかな。私、背が高いだけで、外見も中身もパッとしないし、人と群れないっていうより、空気読めなくて浮いちゃうだけなんだよ」

 私とハルは、数秒間見つめ合った。

 よく見ると、ハルの目の下にうっすらとクマがにじんでいた。

 満開の桜のようにきれいだと思ったハルの顔も、人並みに疲れている。


「へえ〜……」

 ハルが、ゆっくりとしぼんでいく風船のような気の抜けた声を出す。

「ナツは、自分のこと、そんなふうに思ってたのかぁ」

「そう思ってたっていうか……。事実だから」


「ううん、違うの」

 ハルがきっぱりと言い放った。

「私ね、ナツが私の友だちだってことが、唯一の取り柄だったの。私、本当にふつうだから。どこ行っても集団に埋もれちゃうから。

 ナツはね、みんなの推しだったんだよ。でも、みんな緊張して話せなくてさ。だから、私に聞いてくるんだよ。ナッちゃんは何が好き? とか、朝ご飯は何食べるの? とか。

 それでね、『ナッちゃん情報』をみんなに教えてあげるのが日課だったの。そうやって、みんなの関心集めてたんだよ」


 いやいやいやいや。なんだその構図は。ありえない。

 衝撃的すぎて、頭がくらくらする。

 少し、思い出した。ハルはなぜか、物心ついたときから、私がすごく好きだった。

『恋は盲目』という言葉を、その頃は知らなかったけど、それに近いものがあったのかもしれない。ハルが覚えている私は、たぶん現実とちょっとズレている。


「ほんっとヤな小学生だよね」

 ハルがうんざりした顔をした。そんな表情をすると、女神様のように記憶していたハルが、普通の人に見える。


 ハルこそ、私の憧れだった。内気な私はハルとしかまともに話せなくて、誰とでも仲良くなれるハルが羨ましかった。私はずっとハルみたいになりたいと思っていた。


「私、あんまり、自分ってものがないんだよね。なんとなーく流されて生きてきたの。高校出た後も地元の短大出て、実家のクリーニング屋の手伝いして。地元の子たちと遊んで。

 うっかり長女を妊娠しちゃって。デキ婚なの」

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