いいこいいこ、つよいこつよいこ。
青山海里
いいこいいこ、つよいこつよいこ。
「はる君、ママの腕の中でいい子にしててね。痛くないよ、すぐ終わるからね」
いやだいやだと腕の中で泣きわめく我が子をしっかりと抱きしめて、麻子は病院の診察室の椅子に腰を下ろした。今日はインフルエンザの予防接種の日。息子のはるは、いつも注射を嫌がって泣いてしまう。
「はる君、ちょっとチクっとするけど大丈夫だからねー。いくよ!―はい、終わったー、よく頑張ったねー!」
慣れた手つきでおじさんの先生が、はるのむちむちした白い腕に注射針を刺した。透明な液体がどんどんはるの体内に注入されていく。
「いたい!いたい!」
わずか数秒の間とはいえ、はるにとっては相当痛いのだろう。身をよじって泣き叫ぶ姿を見ていると、かわいそうで涙が出そうになる。
「はる君、終わったよ。よく頑張ったね」
顔を真っ赤にして泣いている息子の頭をそっと撫でると、汗ばんだ髪の毛が麻子の指に触れた。
「ママー、はるくんがんばった。チクってしたけどねーえ、はるくんがんばった!」
手をつなぎながら病院の駐車場を歩いていると、拙い言葉を紡ぎながらはるが話しかけてきた。麻子を見上げるくりくりとした大きな目は、別れた夫の亮輔によく似ている。
「そうだねー。よく頑張ったね」
「ママっ、ママっ。はるくんがんばったよねー、はるくんがんばった」
車に乗り込んでからも後部座席ではるはずっとしゃべっている。運転に集中したいのに、ずっと。はるの声が狭い車内にキンキンと響いている。
「ママー、はるくんえらいしょー?しぇんしぇがチクってしたけど、ちょっとしかえーんってゆわなかった!」
「うん、そうだねー。はる君えらいねー」
はるが言った言葉をただ繰り返すことしかできない自分にも、苛立ってくる。
こんなとき、亮輔がいてくれたらと思う。子どもが大好きだった亮輔は、はるのことも大好きだった。こんな風にしゃべるはるを見たら、きっと亮輔はとても喜んで、はるの話をたくさん聞いて、はる君すごいねって言ってあげるんだろう。はるが泣いていても、パパがいるから大丈夫だぞってきっと言ってあげられるんだろう。
はるのことを、かわいくないとは思わない。大切だし、大好きだし、この子のためなら死んでもいいと心の底から思える。でもふとした瞬間に、私は本当にこの子のことを愛せているのだろうかという疑念が生じる。そうやって一回考えると、じわじわと胸の中でその疑念は広がっていく。
「はる君ごめんね、ちょっとだけ静かにできるかな?ママまだ上手な運転手さんじゃないから、集中したくって」
亮輔と別れてから、麻子は車の免許を取った。二人が離婚したのは大体一年くらい前。だからまだ麻子の運転する車には初心者マークがついている。
「しゅーちゅー?しゅーちゅーってなに?しゅしゅぽぽのこと?」
「集中」という初めての言葉を耳にした息子は、その大きな目をキラキラとさせて私に尋ねてくる。かわいいはずなのに、ルームミラーに映ったその顔が今はとても目障りに感じるのはなんでなんだろう。
「はる君、ごめんね。もう少しでおうちつくからね。もう少しだけしーってしててね。ごめんね、もう少しだからね」
一人ではるのことを育て始めてから、一日のなかで謝る回数が増えた気がする。息子が熱を出したので休みをください、ごめんなさい。早く養育費払ってください、ごめんなさい。はる君、ちょっとがまんしててね、ごめんね。
麻子だけが悪いわけじゃないはずだ。麻子だけ、人よりも謝らなければいけない理由が多いことなんてないはずなのに。
「ママ―!おうちまぁーだぁ?はるくんおなかすいた!はやくしてーえ!ねえー、ママ―!」
はるがぐずり出した。亮輔に似て、はるは癇癪もちだ。今はまだはるは3歳だから自分一人でもなんとか対処できているものの、この先はるが大きくなっていったらいったいどうなるのだろうと、この頃麻子はよく考える。
「はる君、もう少しだよ。あとちょっと、頑張れ頑張れ。あ、じゃあおうた歌おうか!ね、そうしよっか。じゃあママが―」
「うわぁーあ!おなかすいたー!はやくおうちかえるー!」
お腹が空いてしまったはるの怒りはもはや頂点に達してしまったようだ。もはやはるの耳に麻子の声など届いていない。はるだって、別に悪くないのだ。はるはまだ小さいから自分の感情がコントロールできないだけだ。大人の、母親の自分がしっかりすればいいだけ。怒っちゃだめだ。自分が耐え抜けば―。
「わぁあーん!も゛うやぁーだぁー!もうおうちかえりたいー!」
はるがごねて、信号待ちをしている車体がわずかに揺れた。―もう、我慢の限界だった。
「…いい加減にしてよ!」
狭い車内に麻子の大きな声が響いた。
ハンドルを握りしめた手がわずかに震えるのがわかった。ついに麻子は怒鳴ってしまった。まだ小さいはるに。自分が愛しているはずの、大切な息子に。
突然の大声に驚いたのか、はるの泣き声がピタッとやんだ。その瞬間一気に冷静になるとともに、麻子の胸のなかを大きな後悔が駆け巡った。ルームミラー越しにはるの視線を感じる。
「…はる君、ごめんね。おっきな声出しちゃって、びっくりしたよね。はる君悪くないのにね。ごめんね、ママもうだめだ…。ごめんね…、はる君」
目の奥からぶわっとこみあげてきた熱い涙が麻子の視界を覆って、頬を伝って流れていった。信号が青になる。急いで手で涙をぬぐうと、アクセルを踏んだ。車が動き出す。
「…ママ、いたいの?」
後部座席からか細いはるの声がした。ルームミラーを見ると、不安そうな顔のはると目が合った。
「ママ、いたいの?ごめんね、はるくんが…、ごめんね?」
「違うよ、はる君。はる君は悪くないから謝らなくていいんだよ。ママがおっきな声出しちゃってごめんね」
「はるくんが…」
それっきり、はるは黙ってしまった。もう、泣きもしない。
車をアパートの駐車場の前に停めると、はるをチャイルドシートからおろした。いつもはなにかとごねて大変だが、今日のはるは一段と静かにしている。
「はる君、おてて洗ってちょっと待ってててね。すぐご飯つくるからね。」
はるを洗面所に連れて行き、手を洗わせた直後だった。びしょびしょの手も拭かず、はるはまっすぐリビングへ向かっていく。
「ちょっとはる君!おてて拭いてないよ!」
慌てて麻子がタオルをもって追いかけると、はるはリビングの小さな引き出しから何かを出しているところだった。すぐに麻子のもとへもってくる。
「ママ、おでこだして」
はるがもってきたのは、ばんそうこうだった。はるは、ばんそうこうが嫌いだ。だから麻子はいつもばんそうこうに、何か絵を描いてあげていた。はるがもってきたばんそうこうにはにこちゃんマークが書かれている。
「はる君…」
はるは麻子を強引にその場に座らせると、その小さな両手で麻子のおでこにばんそうこうを貼った。近くにあった鏡を覗き込むと、麻子のおでこにはくしゃくしゃになったばんそうこうが引っ付いている。
「ママ、いいこいいこ。ママ、つよいこつよいこ」
それはいつも、はるがけがをしたときに麻子が言うおまじないの言葉だった。何度も何度も唱えながら、はるは麻子のおでこを優しくさすってくる。麻子の目から涙がこぼれた。
「はる君…ありがとう」
「ママ、いたくなくなった?」
麻子の顔を心配そうにはるが覗き込んでくる。
「うん、ママもう大丈夫だよ」
「よかった!はるくん、ママ、よかった!」
ぱああっと、一気にはるの表情が明るくなった。ちゃんと言葉になっていなくても、言いたいことは十分に伝わってくる。自分が笑顔でいるだけで、こんなにも喜んでくれる愛おしい存在が、目の前にいるのだ。
「はる君、今日ははる君の好きなハンバーグにしようね」
「やったー!」
完璧じゃなくたっていいじゃない。怒鳴ってしまったって、自分はこの子の母親で、この子のことが大好きだ。
「はる君、大好きだよ」
はるをぎゅっと抱きしめると、麻子は台所へ向かった。なんだかほんの少しだけ、はるが大きくなったように感じた。
いいこいいこ、つよいこつよいこ。 青山海里 @Kairi_18
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