第二十五話 夜明けの晩に眠る恋心《後編》

 ──俺のこの縛りも呪いと同じだ。でも、この呪いは自分で自分にかけたものだ。じゃあ、廉斗は? 誰がこの結果に満足しているんだ?

 恭平は恋心を注いだ佐奈を想い、さらに友である廉斗までも想う。

 恭平のように自分の気持ちを押し殺すということは、心身共にかなりの犠牲を払うことでもある。彼には佐奈を想って眠れない夜があった。大切な人たちの状況を何も変えられない、無力な自分の不甲斐なさに打ちひしがれる時もあった。感情のけ口が見当たらない。それは自己の破滅への序章となり、人間を不幸へと誘う。日常的に自分らしさから他の何かに擬態すれば、いずれその行為は自殺と同義になる。だからこそ、恭平の身に起こったような身体的な変化──祈りの代償が表面化するのは当然だ。それでも彼は、己の欲望との狭間で愛する人の幸福をひたすらに願っていた。特に佐奈に掛ける思いはひとしおだ。

 佐奈は中学生から自己犠牲的な優しさを持ち合わせている。恭平はそれが彼女の美点であり、弱点だと思っていた。彼女の波風立てない言動と、困っている人を見捨てない行動力は素晴らしいものだ。それは良くも悪くも、人を惹きつける。やがて彼女の周りには、悪意なき期待を抱いて群がる連中の姿があった。恭平には、成績も優秀で根が真面目な彼女が、周囲からの期待に応えるしかなかったように見えた。

 ──保健委員になりたい人はいないの? それじゃあ、田口さんがなってみたらどうかしら?

 ──グループリーダー? 佐奈でいいじゃん。この中の誰よりもしっかり者だし。

 担任からの期待、同級生からの期待は、面倒事の押し付けでもあった。発言権が自分にあるようで、やりたいことが奪われていく。提案を断れないという佐奈の間違った優しさは、他人に都合良く利用されていった。

 ──田口さんさ、本当にその係で良かったの?

 中学校の文化祭の準備期間中、別の部門の作業をしていた恭平は自分の教室に戻ると、教室の飾り付けをたった数人のクラスメイトと行っていた佐奈に尋ねた。佐奈は文化祭の役割分担で、一番人気がない部門のリーダーをしていたのだ。クラスでの役割決めの際、佐奈は自分がやりたかった部門への立候補を遠慮していた。佐奈の隣の席だった恭平は、挙げようとした手を机の下に隠した佐奈を目撃していたのだ。

 ──うん。他のみんながやらないなら、誰かがやらなきゃ。それにリーダーになれるなんて光栄だよ。頑張らなきゃね。

 まるで自分に言い聞かせているような言い方だった。恭平は佐奈の辛そうな歪んだ笑みを何度も見てきた。彼女の肩には、責任だけが重く伸し掛かっているようだった。恭平はそんな佐奈を憐れに思い、彼女だけが損な役回りにならぬよう、できる限り彼女と行動を共にした。時には彼女が嫌がる役割を割り振られないよう先回りをして、自分がその役割を奪ったりもした。恭平にとって、佐奈の負担を肩代わりすることは苦ではなかった。というのも、彼には人より少しだけ秀でた問題解決能力があり、いつもそれなりの余裕があったからだった。

 高校生になると環境が変わり、成長した彼らの周りには、自分の能力に見合った人間が集まるようになっていた。みんな最初は手探りで人間関係を構築する。こういう時の佐奈は積極的だ。意志の弱さを巧みに隠す。彼女は周囲への気遣いができる上に、入試では上から二番目の成績を収めていたので学力も申し分ない。それを知った周りから、佐奈が何かと頼られるのは当然だった。そんな佐奈と振る舞いがよく似ていたのは廉斗だ。しかも、廉斗は入試で学年一位になるほど秀才で、入学式では新入生代表で挨拶をした。そのため、廉斗は学校中に顔が広く知れ渡っていた。佐奈も同じく、上級生との対面式では学年を代表してお礼を述べた。佐奈と廉斗は、立場も性格もとてもよく似ていた。だからこそ、あのふたりは強く惹かれ合ったのだろう。他人への共感力とは、周囲の環境が一番近い性質の人物たちを寄せ集めて作り上げるものだ。恭平はただでさえ佐奈との共通点が少なかった。佐奈とそれなりの付き合いがある彼には、佐奈の空いた心を埋めるほどの何か深い事情が一つもなかったのだ。

 人の痛みに共感できる者は、自分も同じように傷付いてきた人間だ。人間が抱える悲しみが共鳴するように、寂しさもまた引き寄せ合う。自分は他人を見て己を理解し、相手も自分を見て己を理解する。相互理解と互いの存在の受容こそ、遠回りのようで、の実、自分自身の本質を見つめ直す貴重な機会となり得るのだ。

 人は最初から自分を愛せない。自分自身を知らないからだ。誰しも最初は自分を見つける長い旅に出なければいけない。そのために他人との出会いがあり、別れがあるのかもしれない。考え方で世界は簡単に変わる。孤独とは、幸福の先駆けだ。人は不幸と対面している時、悲観的なものの見方をしがちだが、人間には他者との共感力がある。弱者にこそ、確実に救いの手は差し伸べられているのだ。人は他人からの優しさに触れて、初めて自分に優しくなれる。愛はそんな場所で花開く。

 ──佐奈に先に出会ったのは俺だ。好きになったのも俺が先なのに……。

 佐奈にとっての最初の救いの手は、廉斗でなく恭平である。集団生活での立ち回りが上手い恭平は、時おり周りの空気に溶けてしまいそうになる佐奈がなんとなく心配だった。恭平が彼女に構いたくなるのは、そこから由来していたのだった。恭平は佐奈と隣の席になると、休憩時間やグループ活動でも積極的に話しかけてみた。給食の時間では彼女が残した食パンやデザートを強請るフリをして、コミュニケーションを図った。背の低い佐奈が日直の時は、高い位置の黒板消しを手伝った。そんな経験を重ねていくと、いつしか佐奈は恭平だけに本音を話すようになった。恭平はそれが何より嬉しかった。ふたりの仲が深まった頃、恭平は初めて佐奈の特別な存在になりたいと思うようになったのだ。

 恭平はとにかく彼女に幸せを掴んでほしかった。その幸せとは、誰かに想われることで得られる確かなものだ。人の幸福が多種多様ならば、人生の幸福もまた、悲観的な視点から生まれるものだってあるはすだ。佐奈を取り巻く環境の全ては知らないが、どうか報われてほしい。恭平の佐奈への想いは切実だ。なぜ自分はただの同級生だった彼女を好きになったのだろう。答えはあやふやだが、好きという気持ちだけは形も、重さもある。地頭が良い恭平でも、佐奈への愛の答えには未だ辿り着けずにいた。

 結論を言うと、恭平の佐奈への愛が誕生した場所は、佐奈への同情心からだった。彼はただ単純に、本能で佐奈の不幸を感じ取っていたのだ。未熟な少年だった恭平は、複雑な社会を生き抜く力を十分に持ち得ておらず、根拠なき愛だけで佐奈を不幸にする何かから彼女を守ろうとしていた。

 佐奈は娘に過干渉な母親と、希薄な家族関係を構築しようとする実の父親との間に挟まれていた。彼女はそんな家庭環境が原因で、自分への愛情不足に陥っていたのだ。恭平は気丈に振る舞う彼女の弱さをたまたま目の当たりにし、教室でも日に日に個性を薄めていく佐奈が気になる存在になってしまう。佐奈は教室のそこにいるのに、心がその場に留まっていないようだった。恭平の心を掴んだのは、佐奈が気まぐれにしか周りに見せない、日頃から気にしないと誰も気付かないような、何とも形容しがたい危機感を煽る儚げな雰囲気だったのだ。

 いつしか恭平はありのままの佐奈の姿が見たくなる。彼女には自分自身を精一杯愛してほしいと思うほど、恭平は佐奈に強い想いを寄せていた。他人の──とかく母親の期待に応えてきた佐奈にとって、何があっても幻滅せずに受け入れてくれるであろう恭平の存在は、間違いなく救世主のはずだった。

 ここで新たに不幸な物語が誕生してしまう。運命は彼らふたりを、愛の最果てまで導かなかったのだ。

 ──どうして俺じゃ駄目だったんだろう。

 ありきたりだが重大な疑問だ。

 恭平の心は、徐々に眩しくなる日差しとは反対に、黒い感情で淀んでいく。白日の下に晒すように、恭平が隠していた廉斗への醜い嫉妬が溢れ出す。恭平は運命によって佐奈から弾かれ、ままならない現実を嘆いた。

 彼が廉斗と出会った後、恭平には全ての物事に投げやりになった時期があった。そこから恭平が立ち直れたのは、他人の優しさに触れたからだった。恭平はかつての恩を廉斗に返している最中だ。つまり、恭平が廉斗に嫉妬心で怒りをぶつけるのはお門違いなのである。

 人間の優しさは世界を駆け巡り、循環する。恭平が誰かに捧げた優しさも、今になって恭平の元へ舞い戻ってきていた。ただし、この相手は佐奈や廉斗ではなかった。

 ──恭平さんが大切に想う人は、ここにいますか?

 恭平と同じ研究室に所属する後輩は、人より少し重ためな瞼で目を細め、懇願するように恭平を見つめた。彼女の場合は目尻がぐっと下に落ち込んでいるのが普通だが、なぜかその時だけは目尻に涙が溜まっているように見えた。

 ──私は恭平さんが他の誰を想っているのか知りません。だけど、恭平さんの心がここにないんだってことは知っています。あなたがその恋を諦めていることも分かるんです。だから、もし恭平さんの恋が報われないものなら、他の選択肢が身近にあるってことを忘れないでください。

 勘違いさせるつもじゃなかった。恋愛における不幸をよく知っているのは自分だというのに、他人まで巻き込もうとしている。こんなにも報われない恋愛が他にあるだろうか。できることなら、自分が関わる人たちには全員幸せになってもらいたい。

 恭平は望まない相手から向けられる好意に心を痛めていた。彼が望むものは、故郷にいるたったひとりの女性からの特別な愛だ。

 同じ頃、様々な欲望が渦巻く日本の社会で、新たな呪いが産声を上げる。そんなことを知らない彼らは、大学の後期のテストが終わり、激動の春を迎えようとしていた。

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愛を生かすための呪い 藤崎 柚葉 @yuzuha_huzisaki

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