第二十四話 夜明けの晩に眠る恋心《前編》

 恭平には、誰にも知られずに朽ちていく切ない願望があった。彼が自分の胸に秘めた願いが叶わないことを再認識するのは、決まって甘い夢から醒めた時だ。幻想が魅せる狂おしいほど愛しい時間に深入りするほど、夜明けに待ち構えている残酷な知らせにこたえてしまう。浅い眠りの果てには、独りよがりの愛しかない。妙にリアルだった柔らかい身体の感触も、彼女が口付けを受けた瞬間の恥じらう反応も、全て恭平の想像に過ぎなかった。

 恭平はその幻想に縋る。拗らせた恋愛というのは厄介だ。一夜の夢だろうが、それだけで今日を生きる活力になってしまう。だからこそ、彼はいかに自分が単純で情けない人間か思い知ることとなった。

「いつまであんな夢を見るんだか……。さすがに未練がましいだろ」

 枕元に置いたスマートフォンのアラームをすぐに消して余韻に浸るくらいには、夢でのひと時は甘く、離れ難かった。恭平がいくら想い人が描く理想の男性像に近付く努力をしても、佐奈が彼に惚けた瞳を向けてくることはない。佐奈の視線の先には、いつだって決まった相手がいた。

 今日も恭平は愛の行場に迷う。佐奈との友人関係は何も変わらない。現実は非情にも、恭平のために動こうとしなかった。恋に破れた男の届かぬ愛が、白昼夢の中に溶けていく。恭平は起き上がったばかりの身体を再びベッドに倒し、目を瞑った。

 佐奈が廉斗の恋人になったのは、もう数年前の話だ。恭平が佐奈に選ばれることはこの先ない。それにも関わらず、彼は未だに彼女に恋い焦がれている。終わりを迎えたはずの恋が終わらない。恭平は自分が苦しくても構わなかった。このまま佐奈を好きでいたい。それはエゴ以外の何物でもなかった。

 ──俺は後悔してばっかりだな。ビビって何もしてこなかったから、ツケが回ってきたんだ。

 恭平は視界を遮るように目元に手の甲を押し当て、胸の内で愚痴をこぼした。

 彼は思う。この有り様は、自分の気持ちに素直にならなかったがゆえの結末なのだと。恭平は佐奈を大切に想うがあまり、高校生になっても想いを告げる勇気が出ず、親友という関係から抜け出せなかった。後悔は散々してきた。もしも、自分が誰よりも早く、佐奈の不安定な心の揺らぎに気付いて最善の行動をとっていたのなら、今頃は彼女の最愛の人になれていたのかもしれない。自惚れじゃなく、自分は彼女の親友であり、特別な存在だったはずだ。特別の意味さえ変われば恋人になれるチャンスはあったのに、どうしてあと一歩が踏み出せなかったのだろう。どこまで踏み込めば、佐奈の一番になれたのだろうか。

 ──女の人って、扱い方が難しいや。察して欲しいくせに、ヒントを何も教えてくれないもの。家族でもその人の全てを知っているわけじゃないのにさ。空気を読むって、限界があるよね。

 佐奈がそんな愚痴をこぼしたのは、中学二年生の時だった。当時、女子生徒の間で何かいざこざがあったらしいが、恭平は最後まで詳細を知ることはなかった。彼は人当たりはいいが、面倒事に自ら首を突っ込む趣味など持ち合わせていないのだ。恭平は佐奈と同じ保健委員だった流れで、委員会終わりの彼女の話に付き合っていただけだった。

 ──私は恭ちゃんの前だと自然体でいられるよ。だって、無理して『良い人』になろうとしなくて済むもの。

 セーラー服姿の佐奈が机の上に肘を置き、両手のひらに顎を乗せて遠くを見つめる。恭平は教室の窓から見える薄暗い空と雨音に溶けていく佐奈を前にして、うまく言葉が出てこなかった。

 ──そういえば……。私、誰かにここまで本音を話したことないかも。

 そんな悲しいことを明るい声音で話さないでほしい。

 長い時が経ってから思い出しても、胸が締め付けられる。佐奈はあれから少しでも前に向かって進んでいるのだろうか。恭平は佐奈をいたわりたくて、今でも時々彼女の頭に手を伸ばしそうになる。

 ──恭ちゃん、私の話を聞いてくれてありがとう。恭ちゃんがいてくれて良かった。私は恵まれているよね。

 佐奈は笑顔の奥で、寂しさと安心感が入り混じったような感情を隠す。その複雑な構造の硝子細工を見た瞬間、恭平は生まれ変わった。佐奈の役に立てたことで充実感を得た一方で、心の未知の領域から矛盾する思いが誕生した。それは急速に膨らんでいく。まだ足りない。彼女を知りたい。彼女の本来の笑顔を見るために、自分は他に何ができるのだろうか。少年はそんなことを思う自分の変化を簡単に受け入れる。彼はただ、小さな幸せを大事そうに抱きしめる佐奈の弱さが、どうしようもなく愛おしかった。それでいて恭平は、何かしらの不幸を背負い、勇気を出して困難に立ち向かう佐奈の強さにも惹かれていった。

 束縛する気も権利もないが、代わりに彼女にとっての幸も不幸も全て知っておきたい。恭平のその願望は現在も実現していなかった。佐奈の助けになりたいという思いとは裏腹に、恭平は余計なことをして彼女から嫌われることを恐れたのだ。

 恭平には、佐奈に対して二つの立場が存在している。一つは同じ中学校出身の親友という立場で、もう一つは彼女に片想いをしているただの女々しい男という立場だ。その境界線は非常に曖昧だった。どちらの立場で彼女の不幸を追い払い、幸せを捧げればいいのか。恭平はそもそも佐奈の幸福の条件すらも分かっていない。反対に、彼にとっての幸福の一つは明確だ。それは好きな人のことを考える時間だった。しかし、今やその行為で得られるものは心地よい感情ばかりではない。佐奈との思い出を振り返れば振り返るほど恋心は募るが、同時にそれは最大の不幸を招き、彼の自尊心を傷つけてしまう。佐奈のことを考えると、彼女の隣にいられない事実を容赦なく突きつけられてしまうのだ。

 互いの進路の違いで、佐奈にはもう気軽に会えなくなった。廉斗との差は永遠に縮まらない。むしろ離されていくばかりだ。恭平の佐奈への恋心は、毎日のように夜明けの晩に眠る。

 ──俺はいつまで佐奈にとっての『良い人』でいられるのかな。

 やっとか身支度を終えた恭平は、通っている大学がある宮城県仙台市のアパートにて、複雑な気持ちで朝を迎えた。恭平はマグカップの中のブラックコーヒーを口に含む。ところが、舌に感じた苦みが腹の底から次々と滲み出てくる。心残りの味だ。

 恭平の佐奈への愛は海よりも深く、過去何があっても揺さぶられない穏やかなものだった。しかし、ここに来て動揺が彼の思考回路にまで影響を及ぼしていた。恭平の心に不穏な波紋を描いたのは、ほかでもない廉斗の呪いの存在だった。恭平は愛の表現方法に思い悩む廉斗の姿を見ていても、満たされない感情を必死に隠す佐奈に気持ちが偏っていた。そして、恭平は出来心で思ってしまう。佐奈が望んでいるものは愛の言葉だ。今なら廉斗よりも自分の方が、佐奈を幸せにできるはずだと。ところが、それはどう考えても実現不可能だった。なぜなら彼女が愛している人は、廉斗しかいないからだ。他の人間の言葉では意味がない。

 恭平も佐奈と同じように、たったひとりからの届くはずのない言葉を待ち望んでいる。恭平は今が彼女の心に一番近い気がしていた。

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