第二十三話 白雪姫と魔女の毒りんご《後編》

 悦子はこれまで好き勝手なことをして暮らしていた。実の姉がいるとはいえ、悦子にとっての川瀬家は、他人が圧倒的多数を占める小さな集団だ。彼女はその一家族たちを、理不尽な理由で仲違いさせようとしてきたのである。

 美香は成海たちのお陰で悦子の企みを見破ってからというもの、叔母に一矢報いたいという思いを抱く。そして今日、美香は自らの意志で悦子の懐に飛び込んだ。しかし、内なる狂気を剥き出しにした悦子は強敵だった。

「あなたに分かる? 無惨にも愛するもの全てを奪われた女の悲しみが。……考えたこともないでしょう? 私の絶望と孤独は、姉さん以外に誰にも理解できないわ」

 悦子は若くて知識も経験もない美香を、恐ろしいほど冷ややかな目で見下ろしていた。

 美香は未だ知らなかった。悦子は多種多様な女の欲望が渦巻く暗い海の中、ひとりきりで帰らぬ人からの愛を待ち焦がれていたのだ。それは、「どうしてもあの人から愛されたい」という、人間なら誰もが抱く永遠の願望だった。特に元からの性格で感受性が豊かな愛情深い女性は、自分が想っている相手から愛されない時、報われないと分かっていても、その人を愛し続けるというジレンマに陥りやすい。悦子はひときわ愚かで欲深い女性だった。実はそんな彼女の近くに本物の愛があるのだが、本人がそれを悟るには、新たな出会いで人と痛みを分かち合う必要があったのだ。

 そんなことを知りもしない悦子は、心に受けた傷の痛みに耐えながら、一度は手中に収めた美香を拒絶する言葉を吐いたのだった。

 ──悦子叔母さんの訴えって、本当に私たちに理解させる気があるの? むしろお母さん以外、誰にも自分を理解されたくないように見えるな……。

 美香は叔母が自分との間に露骨な線引きをしていることを、悦子の態度から嫌というほど感じていた。攻撃は最大の防御と言うが、どうやら悦子の鉄壁の守りはそういうことらしい。

「美香ちゃん、あなたは知りたい? 誰も知ろうとしない私の秘密よ」

 今度は先ほどと打って変わり、悦子は少しの期待と諦めが混じった声音を出した。彼女は哀情で満たされた水溜りから本音を覗かせている。  

 これまで悦子の気味が悪い雰囲気に圧倒されていた美香は、マスカラが溶けて薄黒い涙を見せた叔母の急変ぶりにぎょっとした。直感で分かる。踏み込んではいけない領域だと。きっとこの先の話は、自分の手に余るだろう──。

 そう思い立った美香は、精一杯の虚勢を張って悦子に抵抗した。

「私はもうあなたの慰み者じゃありません。私をお母さんの代わりにしないでください」

「何を言っているの? 誰も姉さんの代わりになんてなれないわ」

 悦子は唾を吐き捨てるように言い放つ。彼女の目に映った美香には、間違いなく憎い男の面影があった。

「傲慢な考えね。私が愛する人は姉さんだけよ」

 悲しみに酔いしれる女の耳に、子どもの真っ当な意見は届かない。

 悦子は続けて蛇のように地の底を這う暗い声を出した。

「だから私は、今からあなたを簡単に切り捨てられるんじゃない」

 悦子は美香を味方に取り込もうと、彼女に向かってテーブルの上を這っていた長い指を引っ込めた。燃え盛る復讐の火を秘めるヘーゼル色の瞳は、完全に瞳孔が開ききっている。

「私、反抗的な子は嫌いなの。そこまで文句があるようなら、私があなたの家族のフリをするのも終わりね」

「そんな関係はこっちから願い下げです。私は……。私はあなたの駒じゃない! それに母親面しないでよ! あなたと家族になれる人なんて、もう誰もいないじゃないですか!」

 声を荒げた美香は勢いよく立ち上がった。美香のその発言は、帰り支度を始めた悦子の逆鱗に触れた。悦子は持ち上げた上品そうなグレーベージュのショルダーバッグを、空いている椅子に戻した。

「美香ちゃん……。あなたは使い捨ての駒なんかじゃないわ。私はね、最初からあなたを当てにしていなかったもの」

 悦子はゾッとするほど美しい邪悪な笑みを深くすると、何事かとこちらの反応を伺う美香に言葉の刃を振りかざす。

「美香ちゃんってば、自分が誰かの役に立つ存在だと思っていたの? 勘違いも甚だしいわね。ここまで来ると心底呆れちゃう」

 悦子はこれまで一度も美香にこれっぽっちも心を開いていなかった。更にあろうことか、彼女は美香を対等な立場にいる人間として認識していなかったのだ。

 悦子が今までの期間で美香を虜にしてきた甘い誘惑には、呪詛という毒が仕込まれていた。その呪いは、りんごを使った手作りの菓子にも施されている。毒りんごを食べた美香は、以前より記憶のすれ違いで廉斗を憎んでいた。彼に持つべき感情は、美香も悦子と一緒だ。それに加えて美香は廉斗と同じ屋根の下で暮らしていた。ならば、美香の妹という立場は利用しやすい。身近な家族という、心を許した相手からの攻撃なら、廉斗を確実に地の底に叩き落とせるはずだ。悦子は姉の通夜の日に、この復讐の計画を考えたのだった。

「あなたはただの保険。もうとっくの昔に用済みよ。私はあなたがいなくても、死ぬほど憎いあの男を追い込むことができたから。……でもね、美香ちゃんが勝手に私の復讐の一端を担ったのは事実よ。あとは十字架でも何でも背負って生きるといいわ」

 悦子はテーブルに人差し指の爪を突き立てる。その姿はまるで冤罪の被告人に磔刑たっけいの判決を言い渡す冷酷無残な裁判官のようだった。もはや美香にあれだけ尽くしていた叔母とは様変わりしていた。

 悦子は今日、美香が口答えしてきたことを皮切りに、精神の支配者である自分への反逆者として、美香に厳しく当たることを決めたのだ。

「廉斗への復讐って……。じゃあ、あなたは最初から私を騙していたの?」

 美香は成海から真相を聞く前までは、通夜で泣き叫んでいた悦子にそこまで不信感を抱いていなかった。彼女は同じように最愛の家族を喪った叔母の境遇に、同情すらしていた。それが今はどうだろう。叔母はなんと残忍で、慈悲の心の欠片もない女性だろうか。

「火葬の時、悦子さんが私に近付いたのは、私が後々廉斗を傷付けるように仕向けるため?」

 寂しい心に寄り添ってくれたのは、叔母の優しさではなかったのか。そう問いかける美香を、悦子は一切躊躇うことなく、地獄に叩きつける。

「そうよ。じゃなきゃ、あそこであなたに声をかける必要なんか微塵もないもの。利用価値があると思ったから、念の為に優しくしてあげたのよ。今日まで美香ちゃんの元に足繁く通っていたのもそのため。これで満足かしら?」

 悦子はこれまで泣いていたのが嘘のようにケロリとした顔で言った。

 力なく椅子に座った美香は、強く頭を殴られたような衝撃を受けていた。悦子はそんな美香を放っておかず、容赦なく仕留めにかかる。もしも、悦子がこれも自分なりの優しさだと主張するのならば、この世界は人々が思うよりもずっと偽物の愛で満ち溢れているだろう。

 悦子は胸に閉じ込めていた暗い感情の海の中に、美香を引きずっていく。何でも話せる姉がこの世を去った今、悦子はひとりで悲劇の過去を背負っている。そんな悦子の前では、彼女について何も知らない美香の決死の覚悟は全くの無意味だったのだ。

「ねえ、美香ちゃん。言霊ことだまって、知っている?」

 単純に立ちっぱなしで足が疲れたのか、悦子は椅子に腰かけると、優雅に足を組んだ。彼女には頬杖をついて美香の反応を見るぐらい、随分と余裕があった。

「古代から日本では、万物ばんぶつのものに神様が宿っていると考えられているのよ。八百万やおよろずの神様って言われているわ。つまりは、言葉にも霊力が宿っているってことなの。言葉だけで誰かの人生を大きく変えることだってできる。だから、『口は災いの元』って言うのよね」

 悦子は歳上らしく美香に知識を授ける。しかし、それには裏があった。魔女の手によって、とっくにパンドラの箱は開かれているのである。

 悦子は弧を描いた唇に人差し指を当てた。

「私はあの男から大事な言葉を奪ってやったわ。それも最悪の形でね。どう? 素敵な魔法でしょう?」

 悦子は穏やかな口調のくせに、猟奇的な女の顔をしていた。

 美香は廉斗が呪われていることを知らない。だが、成海が以前に語っていたことはよく覚えていた。成海は母親の事故について、本当のことが一時的に話せなくなったと言っていた。あの時、真っ先に大きく反応したのは、他でもない兄である廉斗だった。

「どういうことですか……? 廉斗に何をしたの?」

「さっきから話してあげているじゃない。あなた、まだ彼らの報いが何かも知らないの? お兄さんとお姉さんは、そろそろ自分に魔法がかけられたことに気付いている頃よ」

「やっぱり成海にまで──!」

 美香は大切な家族を手に掛けられたことに腹を立てて、テーブルの上に乗せた拳を強く握った。

 今回、悦子はてっきり美香が自分に夢中になっているとばかり思っていたが、思わぬ形で裏切りに遭う。けれど、彼女はこれしきのことではちっとも怯まない。悦子の生きる力とは、強い復讐心からきていたからだ。それが尽きない限り、彼女は望みを諦めない。

「ひとりだけ仲間外れにされちゃって、可哀想に……。でも、まあいいわ。あなたが私を裏切ったということは、お姉さんの魔法が解けたってことだものね。今日はちょうど良い機会だったわ。私、そろそろあなたにお別れを言わなきゃと思っていたの。……あら? 美香ちゃん、また人から見捨てられるの? これも因果応報よね」

 目的を一つ果たした悦子は、役目を終えた美香を最悪最低の言葉で労る。美香は廉斗を恨むことで、悦子が望む呪いを完成させたのだった。

「ねえ、美香ちゃん。よく考えて? 私が馬鹿なあなたを気に掛けるわけないじゃない。あなたもあの男と同じで罪人なのよ? 例えあなたたち姉妹があの男を赦しても、私は一生赦してあげないわ」

 悦子は両手をテーブルについて身を乗り出した。

「それが亡くなった姉さんのため……。私の最愛の人は、姉さんだけよ」

 ──この人、狂ってる……。

 美香はこれまで叔母の献身的な接し方に警戒心を解いていたが、久しぶりに悦子の狂気を目の当たりにして、息が詰まるほど驚いていた。

 悦子は憎い相手を言葉で痛めつけて、痛めつけて、相手が自分を忘れたくなるまで、ひたすら叩きのめす。美香の場合は少し違って、憎悪の標的がボロボロになったところで優しい言葉をかけて、自分を善人のようによく見せる。そうやって偽りの記憶を美香に植え付けて油断させてきた。あとはとどめを刺すだけ──そのはずだが、悦子は美香にそれをしなかった。いや、のだ。

「そんな顔をしないでよ。あなたの愛情は、ちゃんと姉弟に伝わっているじゃない。相思相愛で素晴らしい家族愛だわ」

 口撃に歯を食いしばって耐えていた美香だが、悦子の怒涛の酷い仕打ちについに涙する。悦子は美香とは正反対で、すっかり生気を取り戻していた。

「でもまさか、今更あの女が家族のために動くとは思わなかったわ。おまけにどっかの夫婦は、私を極力この家に近付けさせないし……。あなた、みんなからお姫様のように大事にされているのね。羨ましいわ」

 美香は冷たい視線に晒される。悦子は怯える美香を見て、わざとらしくため息をついた。

「そうよね……。なんてったって、美香ちゃんはこんなに可愛いもの。姉弟の中で、一番お母さんにそっくりだわ。ほら、目元なんか特に──」

 うっとりした表情の悦子が美香の顔目掛けてゆらりと手を伸ばす。

 美香は鳥肌が立ってしまい、思わず椅子ごと身を引いた。

「……ごめんなさい。驚かせちゃったかしら」

 姉の幻覚を見て、魅惑の微笑みを浮かべていた悦子はしおらしく謝罪した。美香は顔面に感傷の色を滲ませた悦子の態度に騙されてなるものかと、ゆとりがあるセーターの腹部を必死に掴む。

 悦子が見ているのは美香ではない。その奥に潜む、最愛の姉の面影だ。美香は三人姉弟の中で特に母親に顔が似ていた。たったひとり、成海だけは父親似だ。つまり、廉斗も程よく母親似なのである。この事実を知れば、最愛の姉を奪われた悦子の憎悪の炎が、廉斗に向けられるのも納得がいくだろう。もちろん、悦子の怨恨の核心は事故のきっかけを作った廉斗の行為にあったが、彼の容姿も悦子の理不尽な怒りを買っていたのだ。

 悦子は名残惜しそうにリビングをぐるりと見回すと、今度こそ帰り支度を済ませた。

「安心して。もうあなたに会う必要は無くなったから。これからはあの女が、あなたのお兄さんを追い詰めてくれるはずよ」

 あの女とは、成海のことだろうか。でも、成海は廉斗に協力的だ。

 微笑みを浮かべている悦子は、美香の疑問を見透かしていた。

「そうそう……。勘違いしているかもしれないから教えてあげる。お兄さんに呪いをかけてくれた犯人は、あなたとは別にいるの。彼女こそがこの計画の本命よ」

 本命どころか、そもそも呪いも知らない美香は困惑するしかなかった。悦子は美香にお構いなしに話を進める。

「あとは彼女が自分の過ちに気付けば、全て終わるわ。私の復讐も、あいつらのくだらない恋愛ごっこもね……」

 どこか遠くを見つめていた悦子だが、美香の存在を思い出して、目の全く笑っていない笑顔を向けた。

「私の呪いは、若いふたりの愛で完成されるのよ。美しい最後だと思わない?」

 叔母は誰のことを言っているのだろうか。美香には皆目見当がつかない。

「若いふたりって、誰──」

 叔母はさっき、「くだらない恋愛ごっこ」と言っていた。呪われたのが廉斗で、もしも廉斗に恋人がいるのなら、その女性も自分と同じように復讐に巻き込まれている可能性が高い。

 美香には兄の恋人候補である女性に、ひとりだけ心当たりがあった。美香は一度だけ、彼女に会ったことがある。あれは確か、廉斗が高校三年生の時に授業中に倒れて早退した時だった。学校で配られたプリントを持ってこの家にやって来たのは、あどけなさがありつつ、透明感と美しさを兼ね備えた女子生徒だった。ナチュラルボブの髪型が良く似合っていて、全体的に柔和な雰囲気を醸し出していた。その優しそうなイメージ通り、彼女は廉斗の容態に気を揉んでいた。彼女が自ら廉斗の恋人だと宣言したわけではないが、当時の様子から察するに、よっぽどのことがない限り、今もふたりは付き合っているはずだ。

「まさか……。また廉斗の幸せを壊す気ですか? 今度は事故に関係ない人まで巻き込んで」

「私がふたりの愛を殺すですって? 馬鹿言わないで!」

 もう悦子は美香の話を聞くつもりは毛ほどもない。更に言うと、必要以上に復讐計画を明かすつもりもなかった。

 悦子は酷薄な笑いを見せる。

「これはね、ふたりが真実の愛を見つけるための試練なの。今まで築いてきた愛が生きるか、死ぬか──。見ものだわ」

 悦子が言うに、彼女がかけた呪いは、愛が生き残るために必要な処置とのことだ。

 この時、それぞれ違う場所にいた廉斗と佐奈は、本物の愛を生かすために呪いがあるとは思ってもみなかった。

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