第二十二話 白雪姫と魔女の毒りんご《前編》
「ねえ、美香ちゃん。今日はひとりでお留守番かしら?」
美香の耳に入った悦子の声は、毎度お馴染みの心のこもらないセリフだった。
「はい。伯父さんたちは、夕方にならないと帰って来ません」
「そうなの。美香ちゃんはいつもひとりぼっちで寂しいわね」
悦子は質問の答えを知っていたので、美香が台所で紅茶を淹れているのを良いことに、自信に満ちた若々しい顔を隠さなかった。
「そんなことありませんよ。だって、私には友達もいるし、それに、悦子さんが時々遊びに来てくれますから」
「あら、そう? 私も美香ちゃんのお役に立てて何よりだわ」
いつもより従順な美香に悦子は機嫌を良くする。美香はリビングテーブルに着席している悦子をもてなすため、先ほど淹れた紅茶と、悦子が持ってきたお土産のアップルパイを切り分けて皿に乗せた。
「お待たせしました」
「ありがとう。今回は特に自信作なの。美香ちゃんも私が手作りしたアップルパイを気に入ってくれるといいんだけど」
温かい紅茶を一口飲み、ふたりは早速アップルパイを口にした。パイシートを使ったシンプルなアップルパイだが、キャラメルで煮たりんごとパイの香ばしさが相性抜群だ。
「どう? このデザートも、美香ちゃんのお口に合ったかしら?」
悦子は美香に会いに行く時、毎回手作りの菓子を持参する。そのほとんどがフルーツを使ったものであり、特にりんごの使用頻度が高い。それは、悦子が美香の好物がりんごだと本人から聞ていたからだった。
「……はい。美味しいです」
「ありがとう。喜んでくれて嬉しいわ」
悦子がとろけるような笑み見せた。美香は悦子の表情を確認すると、すぐに彼女からテーブルの上のアップルパイへ目を逸らす。
確かに味も申し分ない。ほんのり香るバターの風味と、グラニュー糖のほどよい甘さを粗塩が引き立てている。しっかりとアップルパイの味のバランスが分かるのに、美香は悦子が家に来てからというもの、喉の奥が酸っぱいと感じていた。
「うん、美味しい! 紅玉のような酸味が強いりんごにして正解だったわ」
音が紡がれたのは、鮮やかな色をした魔女の唇からだ。それに対して、美香が悦子からの手土産で今まで食べてきた赤いりんごは、想像で毒々しい色をしていた。
美香は和解した兄に対する後ろめたさと、悦子から時より感じる不気味な恐怖を紛らわすため、口直しに紅茶を数回続けて飲んだ。悦子は急にぎこちない動作をし始めた美香の変化を目敏く見つけて、美香が自分のティーカップに紅茶を注いでいるのをいいことに、口元に妖しい微笑みを
悦子は、美香が相変わらず自分を前にして萎縮しているのだと思っていた。彼女はきっと、料理も完璧に作る美しい自分に畏怖の念を抱いているに違いない。
──なんて哀れで、愚かな子なのかしら……。あなたには、母親譲りの愛らしさがあるっていうのに。
美香は恐らく誰よりも母親から愛情を注がれた人物だ。そんな美香が狡いと思う反面、我が子のように可愛らしい。だからこそ、彼女をぐちゃぐちゃに壊してやりたくなる。
悦子は廉斗への復讐のため、美香の心を掌握することを選んだ。悦子が美香に会う口実の一つだった試食会は、美香の廉斗への嫌忌を増幅させる貴重な機会でもあったのだ。先ほどの悦子の謎めいた笑みは、美香の気持ちを利用した呪いがついに完成すると思ってのことだった。
美香にとって、大人で唯一の味方は自分だ。自分以上に彼女の孤独に寄り添えた人物は他にいない。姪は母親のような位置にいる自分に依存しているはずだ。そんな美香の手を振り払う時が迫っている。その時、心の支えを失った彼女のやり場のない怒りは、再び兄に向くだろう。計画は最終段階に入った。仇敵への復讐を遂げることが楽しみで仕方ない。
気分が高揚していた悦子は、一瞬で薄ら笑いを押し殺した。
「ところで、お兄さんは元気?」
ティーカップの中で揺れる水面を見つめたままだった美香が、悦子の弾むような声を聞いて顔を上げる。
「今年の年末年始は一緒だったんでしょう? 嫌じゃなかった?」
──さあ、あの男への恨み言を私に聞かせてちょうだい!
しかし、美香は悦子の予想とは違う反応を見せた。
「……今日はそれが本題ですか?」
美香は突き放したような表情だった。
有頂天だったため、さすがに意表を突かれた悦子だが、彼女は焦らず、慣れたように笑顔を取り繕う。
「やあね。何か勘違いしているようだけど、私は純粋に美香ちゃんたちの様子が気になっただけよ。そうそう、みんな伯父さんたちとはうまくやっているの?」
「私を餌で釣って、何が知りたいんですか?」
美香はわざと食べ残していたアップルパイをフォークで一口大に切り、いけしゃあしゃあと食べてみせた。
今度こそ悦子は唇を引き攣らせた。その表情には亀裂が走っている。
「悦子さんが聞きたいのは、どうせ廉斗の弱みとかでしょう? それを使って、また私たち三人の仲を引き裂くつもりですか?」
悦子を見つめる美香の眼差しは、限りなく冷たい。
美香は悦子に会う度に聞かされてきた、悪魔の囁きを思い出す。
──ねえ、美香ちゃん。川瀬家の全ての不幸は、お兄さんのせいだと思わない?
美香は「狂言に唆された自分が一番悪いが、あれは洗脳や脅迫のようなものだった」と過去を振り返る。
美香がそう思うのも仕方ない。悦子は美香に、自分の意見を肯定するような反応をするまで、先ほどのような問いかけを何度も繰り返してきたのだ。その時、美香の意見は重要ではなく、必要に迫られた選択肢だって、悦子の都合が良いものしかなかった。そのため、一貫して美香の自由意志がなかったのだ。何よりも重要なのは、当時の美香もまた悦子と同じように、母親の事故の真相を知らなかったことだ。美香が実は浮かんでいた事故の疑問や矛盾点も、悦子が話を遮ったり、暴論で他の可能性を全て握り潰してしまっていた。それが、美香が悦子の極端な思考に染まっていく要因になったのである。
──お母さんの事故は廉斗のせいじゃない。あの日、廉斗はお母さんと美香の誕生日ケーキを予約しに行くはずだった。一緒に行こうと誘ったのは、お母さんの方なの。
悦子が今までここに何をしに来たのか、美香は成海から事故の真相を聞かされたあの日に察した。今となっては、悦子のこれまでの不自然な言動をよく考えてみれば、もっと早くに彼女の目的に気付いても良かったのかもしれない。
──美香、悦子叔母さんには気を付けてね。彼女はきっと、私たち三人の仲を引き裂くつもりだよ。
三人姉弟で母親の事故当日の記憶をすり合わせた日、成海は美香にそう注告していた。
──ねえ、廉斗。廉斗がずっと自分が悪いと思い込んでいたのは、悦子叔母さんの影響もあったんじゃない?
成海から悦子の話が持ち上がった時、青ざめた表情をしたのは、何も廉斗だけではなかったのだ。成海は妹の変化にいち早く気付き、その日の内に本人に理由を聞いたところ、美香と悦子の隠れた繋がりを知ったのである。
──私も間違っていた。廉斗は何も悪くないんだから、悦子さんが廉斗に執着する必要なんか全くない。
美香は先ほど悦子が話題に出した兄の廉斗にではなく、悦子に対して不快そうな顔を向ける。図星を突かれた悦子の表情は、先ほどと何ら変わらない。綺麗な顔をこわばらせているため、いつもより迫力があった。
「……見直したわ。あなた、ちっとも可愛くないわね」
「幻滅しましたか? 私、本当は性格が捻くれているんですよ。何もかも、あの日に変わってしまったんです」
悦子が整った長い爪で机を小刻みに叩く。悦子はもはや操り人形ではなくなった美香に苛立ちを隠さなかった。
「だけど、全部が全部廉斗のせいじゃない。あの事故は──」
「黙りなさい!!」
食器がガタッと音を立て、ティーカップの中で液体が跳ねる。
目の色を変えた悦子は咄嗟に拳をテーブルに叩きつけたが、美香が肩を揺らした姿を見て、落ち着きを取り戻した。悦子はまだ自分が優位に立っているのだと、美香に思わせたかったのだ。
「そうなの……。あなたも今日まで本性を隠していたってわけね。じゃあ、今まであなたがお兄さんを恨んでいたのは何だったの? あれも演技かしら……? まさか! 違うでしょう!?」
周りの音がピタリと止み、悦子の怒涛の口撃が開始される。
「あなたは私の考えに同調していたじゃない? それなのに、掌返しで私を侮辱する気なの? そんな資格はあなたには無いわ。兄妹揃ってとんだ薄情者ね! いい? あなたたちが私から姉さんを奪ったのは、紛れもない事実よ。この事実を無視するなんて良い度胸ね! あの男は私にまだ何も返していないわ! だから私は奪ってやったのよ! これは当然の報いよね!?」
悦子は一体何の話をしているのだろうか。途中から支離滅裂なことを言っている。彼女の話によると、悦子が姉を喪った腹いせに廉斗から何かを奪ったらしいが、お門違いもいいところだ。どうも悦子は、真相を含めたこちらの言い分を一方的に聞きもしないで、自分の都合よく話を進めているだけに思える。
今この時、美香は錯乱する悦子に恐怖よりも戸惑いを覚えた。
「……ねえ、美香ちゃん。あなたは何をもって罪を
悦子が椅子から腰を浮かせて、真向かいに座っていた美香との距離を詰める。
「だから、あの事故は──」
「何が真実かなんて、もうどうでもいいのよ。私はあの男が憎いだけ。あの事故に関係なく、あなたたちは私から姉さんを奪ってきたのよ? 本当なら、ずっと前に私が姉さんの愛を独占できたのに。とんだ悲劇だわ」
美香は悦子が放つ静かな威圧感に飲まれ始めた。
今日、美香は何となく悦子がここに来るだろうと予感していた。年末年始は家族団欒が通例だろうが、この一家はそれに当てはまらない。伯父夫婦はふたり揃って職業上、休みが不定期なのだ。それに、イレギュラーだった廉斗と成海の帰省も、タイミングさえ計れば、年末年始だろうが美香が家にひとりきりになる可能性は十分にある。家にいるのは美香だけとなれば、悦子がいつ来てもおかしくない状況だ。なぜか彼女はそういった条件を選んでやって来るのだから、美香は悦子が来宅するとっくの昔に覚悟を決めていた。
その覚悟とは、実に健気だ。叔母は人の憎悪を煽り立てる
そんな美香の意気込みが、徐々に消えていく。悦子は全てにおいて美香を圧倒していた。
「あなたに分かる? 無惨にも愛するもの全てを奪われた女の悲しみが。……考えたこともないでしょう? 私の絶望と孤独は、姉さん以外に誰にも理解できないわ」
椅子から完全に立ち上がった悦子は、瞳の奥に火のような怒りの色と、狂おしいほど深い哀情を宿していた。
美香の前に立ち塞がっていたのは、負の感情で染まってしまった広大な黒い海だった。美香はまだ気付かない。目の前では、哀れなひとりの女性が目に光る雫を浮かべたまま、寂しさを抱えてその汚れゆく海を漂っていたのだ。
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