第二十一話 狩人からのお守り《後編》

「結婚っていう形が全てじゃないだろうけど、少なくとも私は、何があっても真治さんがずっと一緒にいてくれると思ったら、心が幸せで満たされた。そうしたら、いつの間にか誰にも話せなかったことが話せるようになったの」

 成海は廉斗に、真実の愛に触れたことで呪いが解けた過程を初めて明かした。

 ──心が幸せで満たされた瞬間か……。

 廉斗は自分の胸に問う。すると頭に浮かんだのは、佐奈との思い出の一つである、真冬の秋田の幻想的な風景だった。あの場所では、冬の季節風が吹き、夕日が日本海を照らして、蒸気霧の海霧を発生させていた。港町に積み上げられた雪が太陽光に反射して、キラキラと輝いている。そんな黄金の時間にこちらに向かって笑っているのは、もちろん最愛の人である佐奈だ。だが、すぐに世界はモノクロに変わる。空には重い灰色の雲が覆われ、地面には汚れなき雪が一面に広がっていた。廉斗は想像上の真っ白な雪道に散らばった鉄の破片の先を辿りそうになり、我に返って首の皮膚を力いっぱい抓った。

 彼の胸には、未だに癒えない悲しみが燻っているのだ。それこそ、いくら呪術に長けた悦子であろうと、廉斗の悲しみの原因である出来事は忘れさせてくれないだろう。なんせ彼女はあれから毎晩のように、廉斗の夢の中でも、憎悪に満ちた悪魔の囁きをするくらいなのだから。

「私の勝手な妄想だけど……。悦子叔母さんって、私たちとは決定的に何かが違うんだよ。周りから美魔女って言われているし、それに私の意思に関係なく口止めをしたくらいだもの。何か不思議な力を持っているんじゃないのかな?」

「それが、呪いってこと?」

 廉斗は首から手を離し、成海に核心に迫る質問をした。

「呪いか……。どっかの陰陽師みたいな話だね。でもさ、悦子叔母さんはそんな本格的なものじゃないよ。叔母さん、占い師なんだって」

「えっ? 占い師だって?」

「うん。今は病気から復帰して、隔週だけど、どっかの商業施設で活動しているはずだよ。たしか、タロットカード占い師だった気がする」

 今日は本当によく成海に驚かされる。美香と叔母に繋がりがあるという話もだが、成海から聞くのは、廉斗が全く把握していない話ばかりだった。

「これを知ったら、悦子叔母さんには不思議な力があるって件は、あり得ない話じゃないと思うでしょう?」

「そうだね。あのさ、悦子叔母さんの病気って? どんなの?」

 そもそも叔母が母親に執着していた理由は何なのか。叔母の動機がどこから来るのか。廉斗は自身にかけられた呪いを解くためにも、悦子の境遇を知る必要があると考えた。

 成海は、悦子の話を教えてくれたのは、美香とこの家で同居している伯母だと言う。

「最近になって千香子ちかこ伯母さんから聞いたんだけど……。何が原因か分からないけど、二年くらい前から悦子叔母さんは体調を崩していたんだってさ。あまりにもそれが長引くもんだから、ついには精神もおかしくなっちゃって、彼女はずっと自宅療養していたの。それでお母さんが時々様子を見に行って、外に連れ出したりしていたんだって」

「そっか……。だから、母さんは事故があった日、悦子叔母さんにケーキを買おうとしてたんだ……。叔母さんにそういう事情があるって、全然知らなかったよ」

「やっぱり廉斗も聞かされていなかったんだね。そういえば、千佳子伯母さんは病気のことも何か知っていそうだったな……」

 成海は千佳子が悦子の事情を言い渋っていた様子を思い出す。だが、こればかりは今考えても仕方ないことだ。成海は気持ちを切り替えて廉斗に話しかける。

「実はね、稔伯父さんの話だと、お父さんは悦子叔母さんの危うさに気付いていたから、悦子叔母さんから廉斗を引き離したかったらしいの。それが自分一人だと叶わなそうだからって、お父さんは生前から稔伯父さんたちに、一緒に廉斗を守ってほしいって頼んでいたみたい」

「父さんが僕のために……?」

「そう。お父さんってば、口数が少ないのは相変わらずだよね」

 父親の不器用な優しさを思い出した成海が涙ぐむ。

 廉斗は父親が体調を崩す前から、息子である自分を守ろうとして、裏でも動いていたことを初めて知る。さらに驚くべき事実は、伯父夫婦がそんな父親の意思を引き継いでいたことだ。

 ──良ければ僕たちを君たちの家に住まわせてくれないかな。ご両親の代わりに、これからは僕らが君たちを支えるよ。

 当時、伯父夫婦は多くを語らなかったが、相当な覚悟があって自分たちと共にいることを選んだのだ。それなのに、自分はなんて罰当たりなことを思っていたのだろう。慣れ親しんだ家に他人を上げることを嫌がっている場合ではなかったのだ。廉斗は今頃になって、伯父夫婦から向けられている偉大な愛を思い知る。

 あの頃、両親を喪った廉斗は家では塞ぎ込んでいて、伯父夫婦の優しさに鈍感だった。廉斗は親戚や学校関係者を始めとする衆目に晒され過ぎて、伯父夫婦の本心が分からず、彼らが自分を愛そうとしてくれることに怯えていたのだ。当たり前のようにある誰かの優しさは、実は当たり前のことではない。あの事故で身を持って知ったはずなのに、どうして自分は伯父夫婦を信じなかったのだろう。例え自分が空っぽな心で、何も持ち合わせていなくても、彼らはそれを気にしなかったはずだ。自分は無償に注がれる他人からの優しさを受け入れて良かったのだ。それは自分だけがのうのうと生き延びるための甘えではなく、誰かと悲しみを乗り越えて共に生きるための、愛が伴う赦しだ。

 どこかに必ず見返りのない愛を持つ人たちがいる。愛されることを忘れた愚かな自分を、ひたむきに愛してくれる人がいる。かつて傷だらけの廉斗に、そう教えてくれた人がいた。

 ──廉斗くんが思っている以上に、あなたは人から愛されているんだよ。私も廉斗くんが好きだから大切なの。だから、そばにいさせて。

 ──優しさは罪じゃないんだから、自分に向けたっていいんだよ。

 佐奈の言葉が廉斗の頭によぎったその瞬間、過去に囚われて雁字搦がんじがらめだった心が震えだす。そして、彼の中に潜む記憶を封じ込めていた鎖が断ち切れた。

 ──よくも姉さんを!

 ──悦子さん! 息子に当たるのはやめてください!

 ──うるさい! この子は私から姉さんを奪ったのよ!? 心の底から恨んでやるわ! あんたなんか呪われてしまえ!! 

 廉斗が覚えている母親の通夜での悦子の姿は、とても荒々しい。悦子は背中まである艷やかな黒髪を振り乱し、年齢よりもずっと若く見える美貌の元凶たる白い肌を怒りで赤く染め、涼し気な目を獲物を狩る魔女のように吊り上げていた。激昂する悦子は、廉斗の父親によって羽交い締めされている。そうでもしないと、彼女は廉斗に掴みかかりそうだったのだ。

 悦子は自分がそんな状態にも関わらず、廉斗に鬼の形相で詰め寄る。

 ──あんたは罪深いのよ! この先、あんたが他の誰かから愛されるなんて絶対に許さない!! 私があんたから愛するもの全て奪ってやるわ! 一生呪ってやる!!

 呪いとは、多くは人の憎悪の念に由来するものだ。廉斗から佐奈に届くはずだった愛の言葉を奪った呪いは、あまりにも熱い憎しみの炎を帯びた重い鎖だった。

 廉斗は思い直す。もしも、自分の首にかけられた鎖を可視化できるとしたら、それはぞっとするほど白くて細い指をした女の手の形をしているだろうと。廉斗は爪を立てられているような皮膚を抉る痛みを感じて、顔をしかめながら首をさすった。相変わらず自分の手足は冷たいが、触れている場所だけは異様に熱かった。



「廉斗、今年は例の彼女と初詣に行ったか?」

 飲食店独特の消臭剤の香りが廉斗の鼻をかすめる。アルバイト先の弁当屋の休憩室で休んでいた廉斗に話しかけてきたのは、廉斗より一回り歳上の先輩である長谷部だった。長谷部はキャップを脱ぎ、崩れたアップバングの髪型を気にすることもなく、両腕で大きく伸びをする。

 長谷部はアルバイトリーダーに選ばれるくらい後輩の面倒見が良く、器が大きい。廉斗は業務とは関係ないところでも彼を慕っていて、長谷部におすすめのデートスポットを聞いたり、女心について時たま相談したりしていた。

「いえ、パンデミック禍ですし、元から行く気はなかったですよ。それに、彼女が感染しましたから」

「えっ! マジで!?」

 廉斗は大袈裟に反応した長谷部に目を張る。

「あ、悪い。面白がっているわけじゃなくてさ。本当に感染者がいたんだなって思ってよ」

 休憩室に設置されている小型テレビでは、今日もアナウンサーが騒がしそうに速報を伝えている。尤も、この休憩室では来客に気付けるようにテレビの音量は小さめだ。

 長谷部は喋りながらテレビをちらちら眺めていた。

「毎日飽きもせず感染者数を報道している割には、周りはピンピンしているべ? 言い方は悪いが、亡くなっているのは老衰かもしれない爺さん婆さんばかりだ。だからかな……俺は完全に他人事だったわ」

「僕は怖いですよ。自分が知らない内に、誰かにウイルスをうつしているかもしれないって思ったら」

「無症状感染ってやつだな。そういや、いつから無症状が病気扱いになったんだ? 無症状って、健康体の俺もそうじゃん。これって、健康な人間の方が、かえって貧乏くじを引いちまうよな。証拠も無いのに『あいつが病原菌を持っている』って、後ろ指を指されるのと一緒だよ。そもそも健康体って、どんな状態なんだよって話さ」

 長谷部の鋭い指摘に廉斗は微妙な顔を見せた。佐奈は間違いなく、肺炎になる一歩手前まで病魔に襲われていたのだ。重度の肺炎を引き起こすウイルスは実在していて、今も未知の感染症が世界各地に蔓延している。廉斗はその情報が正しいと自信を持っていた。

「しっかし、お前の彼女が感染したとはなあ……。彼女さん、もう平気か?」

「はい。昨日無事に退院できました。今は自宅待機しています」

「そっか。ひと安心だな。廉斗、さっきの俺の発言が気に障ったのなら謝るよ」

 長谷部が早口のため、廉斗が否定する暇もない。長谷部は廉斗の心情の変化を、目と眉毛の動きからなんとか読み取りつつも、彼に向かって臆せず発言した。

「俺はインフルエンザみたく、予防しようがしまいが罹ったら仕方ないと思っているから気にしていないが、一部では村八分があるらしいぞ。陽性者が身内ならいざ知らず、お前もあんまり他人に誰々が感染したって言わない方がいいかもな」

 長谷部はマスクを顎まで下げて、買っていた缶コーヒーに口をつけた。微糖だが、確かに感じる甘さは、他人に対して冷たくなった世の変化を憂いていた彼の心をわずかに癒す。

「長谷部さん、それデマらしいですよ」

「えっ? デマ? どれが?」

 事の発端は昨年、「秋田市内に住む感染者の濃厚接触者である子どもが罹患してしまい、学校でいじめられて引っ越すことになった」という話がSNSに書き込まれたことだ。さらに大手通信会社が運営するニュースポータルサイトのコメント投稿機能にも同じ内容が投稿され、そこには新たな情報が追加されていた。一般ユーザーからの投稿で、「その罹患者の家には石が投げられた」との内容が話題を呼び、SNSでも「田舎で罹患したら差別を受けて、もうそこには住めない」とまで拡散された。

 客観的に見ると、人々は具体的な数字で毎日恐怖を煽り続けられたことで、「恐怖に依存する」中毒状態になっていたのだ。そこに新たな恐怖を放り込めば、人々はどうなるだろう。結果、人々は我先にと情報を精査せずに食いついた。そして、一つの噂に別の噂が混ざり、多数の憶測を絡めて風説が複雑化していく。長谷部は見事に不確定な情報に踊らされていた。

「やられたわ……。俺は情報リテラシーが高いと自負していたんだがな」

 長谷部が目にした噂は事実無根だった。実際は「陽性の人を差別して引っ越させた件」を最初に投稿した人物のアカウントが、以前にも村八分のデマに使われたものであり、今回も架空の地名を用いたほら話だったのだ。この話の厄介な点は、嘘に真実が混ざったことである。確かに当時は秋田県庁の発表で、秋田市から新型ウイルスの陽性者が出たと報道されたが、SNSで噂を流したアカウントの人物の住所は、架空の町名だったのだ。

 田舎であればあるほど噂や憶測が飛び交い、どれが真実か判断しづらい実情がある。SNSやニュースポータルサイトのコメントで少なからず見られたのは、秋田県民に対しての明確な悪意ある投稿だった。

「どうしてこんな時まで他人を陥れるのに必死なんだか……。ひょっとしたら、秋田県に人払いをしたい理由があるのかね」

「何ですか、それ。陰謀論みたいですね」

 廉斗は冗談だと思って軽く笑ったが、長谷部は意外にも大真面目だった。

「ともかくさ、単純に今の世の中は、具合が悪い奴に『お大事に』って気遣う言葉すら掛けてやれないんだ。ったく、生きづらくなっちまったもんだよ」

 長谷部は目にかかった前髪をうざったそうにかき上げ、他人を排他的に扱うこの不寛容な社会を嘆いていた。彼は自分から作った湿っぽい空気に耐えかねたのか、突然席を立つ。

「んじゃ、俺は煙草吸ってくるわ。廉斗もまだゆっくり休んでいろよ」

 長谷部は食事よりも煙草を優先するほどの煙草愛好家だ。彼がひとり、もはや喫煙室となった自家用車がある従業員用の駐車場に消えていく。休憩室に取り残された廉斗は、もやもやした気持ちを抱きつつ、別の課題に向き直る。

 ──今は悦子叔母さんのことに集中しよう。

 どういうわけか、成海は呪いが解けた。それは恐らく、心から愛する人と共に生きる幸福を得たことが関係しているのだろう。自分の場合は、まだ素直にそういった幸せを受け入れられそうにない。愛する人に想いを告げられない縛りがあるという理由のせいだ。問題解決のためには、叔母に母親の事故の真相を伝えるしかないだろう。果たして、あの叔母が殺人者とまで罵った自分との対話に応じてくれるのか。どう考えても、叔母に話を聞いて納得してもらうまでのハードルが高い気がする。

 ──とりあえず美香に頼んで、悦子叔母さんの連絡先を教えてもらおう。

 ついでに、執念深い叔母と、彼女の復讐に利用されている美香の関係を断ち切らねばならない。廉斗には大切な家族を守ろうとする、並々ならぬ決意があった。しかし、そんな彼の思いは早々に裏切られてしまう。

 まさにこの時、美香が廉斗よりも先に、悦子と対峙していたのだ。

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