第二十話 狩人からのお守り《前編》

 一月三日、廉斗はアルバイト先の持ち帰り弁当のチェーン店で働いていた。弁当屋は年末であれば、周りの商店などが休みになるため忙しさが倍増する。年末に出勤となった先輩の話では、早仕舞にも関わらずオードブルの予約注文が殺到する上、大掃除も業者などは呼ばずにスタッフだけで行うので大忙しだったそうだ。パンデミック禍とはいえ、忙しさは普段の比ではないらしい。それに比べると、年始の勤務は楽だったようだ。帰省した家族と過ごしたいベテランのスタッフがいない関係で、年始のシフトの半数以上が学生アルバイトで構成されているが、客足は少ないため通常業務の負担はそれほどない。普段とは違う光景が見られるという点では、他には家族連れによるオードブルの注文が入るくらいだろうか。きらびやかな店舗が所狭しと立ち並ぶ都会とは違って、田舎は飲食店も行く場所が決まっているのだ。

 てっきり気まずいまま美香と実家で過ごす羽目になると思っていた廉斗にとって、店長からシフトの相談で祝日に出勤を打診されたことは願ってもない好機だった。結果、予想外に美香とのいざこざは解消されたが、他に予定がなかった廉斗は予定通りアルバイト先に姿を現していた。しかし、廉斗は今頃になって今日シフトを入れたことを後悔していた。なぜなら、成海や美香と三人で叔母について話す機会を一つ失ったからだ。

 廉斗はピークが過ぎたアルバイトの休憩時間に何をするでもなく、従業員の控え室でパイプ椅子に座り、手にしたスマートフォンの画面に映った通知を見つめていた。どうやら三時間前に恭平から連絡があったらしい。

『佐奈って、お前が呪いを受けたってこと知ってるか? 余計なお世話だろうけど、早めに佐奈に事情を話してやれよ。信頼している相手から何も知らせてもらえないのって、結構寂しいもんだよ』

 彼の忠告は実のところ佐奈を想ってのことだったが、それは同時にふたりの仲を心配するものでもあった。なんせ人格者である恭平は、長年ふたりの親友なのだ。廉斗と佐奈の幸せが、恭平にとっての一番の願いだった。

『恭平、心配してくれてありがとう。今、ちょっと家がゴチャゴチャしてるんだ。佐奈には全てが終わってから話すよ』

 廉斗は恭平の秘めた想いに全く気付いていなかった。だからこそ、廉斗は恭平に電話越しで弱音を吐いた佐奈の姿を想像できなかったのだ。運命の悪戯なのか、廉斗が送った的外れなメッセージに恭平の既読はすぐにつかなかった。

 この時、廉斗は叔母の件でどうしても佐奈を巻き込みたくなかった。そんな思いがあったからこそ、佐奈と会えない時間を利用して、彼女を自分から遠ざけようとしていた。

『解決の糸口も見つかったし、それで呪いが解けるか、早めに試してみるよ』

 廉斗は叔母である悦子に、ひとりで立ち向かおうとしていた。


 昨夜、成海との会話にはまだ続きがあった。

「悦子叔母さんが、美香と会っているって……?」

 いつから、どこで、何の目的で? 廉斗の内側から疑問が一気に溢れ出す。

 成海は消してしまいたかった過去を胸ふさがる思いで振り返っていたが、反応に困っている弟を見るに見かねて、再び現在に意識を集中させる。

「うん、そう。昨日寝る前に美香から直接聞いたから、間違いないよ。悦子叔母さんは手土産を持って、時々ここに来るんだってさ。それも、決まって美香が一人で家にいるのを狙ったタイミングでやって来るみたいなの」

 そんな偶然は有り得るのだろうか。いや、恐らく意図的だ。そう考えた廉斗だが、叔母がわざわざ自分たちの目を盗んで美香に会う理由がすぐには思い付かなかった。

「美香が言うには、お母さんが亡くなってから真っ先に自分に寄り添ってくれたのが、悦子叔母さんだったんだって」

「そんな……」

 廉斗は家族よりも叔母を頼った美香に愕然とする。

 当時の状況ならば、不安に揺れる美香の心が叔母に傾いたは当然の結果だった。父親と成海は葬儀会社や親戚の対応で忙しく、廉斗は母親を事故現場に導いてしまった負い目から、美香と関わろうとしなかったのだ。

「さっき私が言ったでしょう? お母さんの火葬の待機中に、トイレで悦子叔母さんと鉢合わせしたって。あの後、私はその場から動けなくて……。だから悦子叔母さんは先に控え室に戻ったの。私が控え室にいない間、美香は悦子叔母さんから電話番号が書かれた紙をこっそり渡されたみたい。それからふたりは、ずっと私たちの知らないところで連絡を取っていたらしいよ」

 その頃の美香は、両親を喪った心細さから、姉の後ろにぴったり張り付くように成海の行動を追っていた。しかし、美香は面識が少ないお喋りな親戚に捕まってしまい、身動きが取れなくなってしまう。年老いた親戚の話し相手に無理やり仕立てられた美香は、頼りにしていた姉が席を立ったことで、集団の中にいても孤独を強く感じていた。

 美香のその隙を突いた人物が一人いる。その人物とは、他ならない悦子だった。悦子は壮大な計画を実現させるため、美香が孤立する隙を長らく窺っていた。いわば、美香の孤立は悦子が作り出したものだったのだ。

 悦子は下心があって美香に近付く。

 ──美香ちゃん。これはあなただけの特別なお守りよ。美香ちゃんが辛い気持ちを誰にも話せなくて苦しい時、せめて私の前だけでも吐き出せますように。

 美香がやむを得ず受け取ったメモ用紙には、悦子の姉への重すぎる想いと、廉斗への憎しみの感情が染み込んでいた。悦子の歪んだ愛によって張り巡らされた無数の罠は、後に美香を──果ては兄である廉斗を縛る鎖となる。

 とかく人間は自分が弱っている時に他人から優しくされると、親切にしてくれた相手に心を許してしまうものだ。美香は突然距離を詰めてきた叔母に一瞬たじろいだものの、目立った抵抗は見せず、悦子の安っぽい善意の施しを受ける。

 美香は母親の通夜で、廉斗を罵倒した悦子の姿を目撃していた。その印象もあり、悦子から手渡された紙を恐ろしさ半分で捨てきれなかったのだ。彼女に連絡をしないと、自分たちはどうなるのだろうか。美香は家族を人質を取られたような気分で、母親の葬儀が終わってから、万が一に備えてスマートフォンのアドレス帳に悦子の電話番号を登録した。ふたりの交流は、美香が母親の寝室で最初に泣き崩れた頃から始まる。こうして美香は、知らず知らずのうちに悦子の毒におかされ、廉斗を恨む気持ちに拍車がかかったのだ。

「悦子叔母さん以外にいないの。お母さんの事故で亡くなったのも、お父さんが病死したのも、全部廉斗のせいだって、美香にしつこく吹き込んだのは……。悦子叔母さんは、悪い意味で美香の背中を押したんだよ」

 廉斗は確信する。

 やはり、叔母は自分から大切なものを全て奪う気だ。

「悦子叔母さんは、美香を使って廉斗を家族私たちからも、この家からも隔離させたの。そして、悦子叔母さんは今また美香に接触してきた。何のためかわかる?」

 がきっかけで姉に依存していた悦子は、母親を死に追いやってからも最愛の人に囲まれている廉斗に修羅を燃やす。 

 ──自分だけ幸せになるつもり? なんて卑しい子なの。

 悦子は、今や世界からこの国まで蔓延する新型ウイルス感染症の閉塞感にかこつけて、会稽かいけいを遂げようとしていた。

「今も復讐は続いているんだよ。悦子叔母さんは、廉斗と家族私たちの仲を引き裂くつもりなんだと思う」

 それだけじゃない。廉斗は瞬時に自分が置かれた状況を理解する。

 叔母はきっと、佐奈と破局させるつもりだ。

「だから、僕を呪ったんだ……」

 叔母がどこで恋人である佐奈の存在を知ったのかはわからない。確かなことは、廉斗が母親を事故に巻き込んだことを美香から赦してもらっても、佐奈への愛の言葉は奪われたままだということだ。

 今だからこそ言えるが、廉斗は自分に呪いをかけた犯人が美香だと本気で思っていなかった。当然のことながら、廉斗は幼い頃から美香を知っている。彼は妹が超人的な能力を発揮している場面に遭遇したことは一度もなかった。ましてや、その能力が術を扱う方もかなりの命の危険が伴う呪術ともなれば、心霊現象の類いが大の苦手な美香では、復讐で呪いなんて選択肢はまず出てこないだろう。そんな臆病な美香が、繊細な呪術を使用するはずがない。インターネットで調べて判明したのだが、呪術が失敗すれば、自分に呪いが跳ね返ってくる可能性があるらしいのだ。それに、美香はどちらかといえば不器用だった。美香が自分の性格をよく知っているのならば、無駄に危険を冒すことはしないだろう。

 だとしたら、廉斗が今も呪いから解放されないのはなぜか。答えは単純で、呪いをかけた真犯人は別にいたからだ。

「呪い? 何の話?」

「いや、その……。成海には関係ない話──」

「廉斗、もうお互いに隠し事は無しだよ。今度こそ力を合わせて、家族に降りかかる困難を乗り越えよう。私ひとりだけが幸せになったって嬉しくないもの」

 成海のこういう面倒見が良いところは変わらない。三人姉弟の中でいつも一番に出口を見つけて、そこに誘導してくれる。

 廉斗は心の重荷が和らいだ気がした。

「ありがとう。さすが僕の姉さんだな。昔から頼りになるよ」

 廉斗の目に映った成海の照れ笑いが、死んだ母親に重なる。成海は廉斗の褒め言葉に死んだ父親の面影を見つけて、そっと微笑んだ。

「それで呪いって? もしかして、廉斗が誰かから呪いをかけられたの?」

「うん。実は──」

 廉斗は成海にこれまでの苦難を打ち明けた。何の前触れもなく、自分の意思とは反対に、恋人に対してだけ「愛してる」や「好き」といった愛の言葉を全く話せなくなってしまったこと。手書きだろうが、デジタル画面だろうが何をやっても文字での愛情表現ができないこと。口で想いを伝えようとする度に、喉が焼けるように熱くなって息苦しくなること。成海から言われるまで、叔母の存在がすっかり記憶から消えていたことも──。

 成海は落ち着いた気持ちで弟の身に起こった奇怪な事件を聞いていたが、次第に眉間にしわを寄せていく。話せなくなった内容こそ違えど、他はあまりにも自分の体験と似ていたからだ。

「今までは、もしかしたら美香が僕に呪いをかけたんじゃないかって思っていたんだ。呪いは誰かへの強い憎しみから生まれるものだろうし、僕は母さんたちの件で美香から一番恨まれていたから」

 事実、廉斗は美香の口から放たれた憎悪の言葉を忘れることはなかった。その一方で、美香は紛れもなく廉斗を恨んではいたものの、彼女が兄に復讐しようと何か計画を企んでいる様子は一ミリも見られなかった。

「成海が美香に事故の真相を話してくれたお陰で、美香は百パーセントではないにしろ、僕を赦してくれた。それでも僕の呪いが解けなかったってことは、まだ他に僕に強い恨みを持っている人がいるんだ。その人が犯人だと思う」

「悦子叔母さんね?」

「あくまでその可能性が高いって話だよ」

 廉斗は姉の断言するような言い方に危機感を覚えて釘を刺す。成海の話を聞く限り、ヒステリックな叔母のことだ。証拠が何も無い中で彼女の行いを過ちだと非難すれば、怒りはたちまち周囲に飛び火するだろう。廉斗はいくら本人がこの場にいないと言っても、慎重に事を進める必要があると考えていたのだ。

 とはいえ、廉斗も叔母の他に心当たりがある人物はいなかった。廉斗と美香を隔てていた壁が壊れると、現れたのは無数の氷の鎖だった。身体を芯から凍らせるその氷の鎖こそ、悦子がかけた呪いであり、それが廉斗の心から生まれる愛の言葉を封じていた。また、呪いは廉斗から一部の記憶を奪っていた。それは、呪いをかけた張本人であろう悦子の存在だった。

「僕の感覚だけど、悦子叔母さんを忘れていたっていうより、ずっと何かで記憶を封じ込められていたような気がする。だってさ、普通に過ごしていても、何かと母さんの事故が脳裏にちらつくんだ。成海が叔母さんのことを、忘れたくても忘れられなかったのが、正常な反応なんだよ。普通なら、悦子叔母さんだけを綺麗に忘れることなんてできないんだ」

 廉斗は自分に尋常ならざる力が働いたと考えていた。それこそ、呪術のようなまじないや魔法など、超自然的で神秘的なものの力だ。

「封じられていた悦子叔母さんの記憶を取り戻すことができたのなら、僕の呪いも解けると思う。あとはきっかけが何かさえ分かれば……」

 廉斗は呪いを解く手掛かりが禄に無い状況に悔しさを感じ、苦痛に耐えるように唇を噛んだ。

「私も廉斗と同じなのかも……。私がお母さんの事故の真相を話せなくなったのは、悦子叔母さんの呪いのせいだと思う」

 成海はこれまでの苦悩の日々を思い返す。お節介な両親を煙たがり、家族から離れて安定した日常を得たと思った成海だが、それは学生期間のみであった。成海が両親を亡くしたのは、彼女が専門学生の頃だ。その後はすぐに慣れない社会人生活を送ることになり、彼女は気持ちの整理がつかず、悦子の心無い言葉も相まって、次第にひとりでの生活に心の余裕が無くなっていく。成海は時より無性に感じる物寂しさと、家族と向き合わなかった深い懺悔の念を誤魔化すために仕事に打ち込んだ。そんな時、忙しさで心が麻痺していく成海の前に現れたのが、これから夫になる真治だった。取引先の営業職だった彼に出会ったことで、成海の心は少しずつ失った感情を取り戻していく。しかし、成海の心持ちが安定しても、母親の事故の真相だけはなぜか誰にも話せなかった。成海はそれにまた精神を病んでいくが、真治はそれでも成海を心から愛していた。

 真治が成海の全てを受け入れようと、彼女に結婚を申し込んだ時、彼女はようやく「口封じ」というしがらみから解放されたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る