第十九話 メドゥーサの魔の手

 その女は同世代の人間よりも、圧倒的に美しい容姿の持ち主だった。

「それはあなたの可愛い我儘じゃない。いつも素っ気ないフリをしたり、我慢のしすぎで大人しくしては駄目よ。あなたも素直に言いたいことを言えばいいの。夫婦も恋人も、普段の会話が大事なんだから。とにかく『別れる』なんて決断は、早まらないでちょうだい」

 二〇一九年の夏、佐奈は廉斗とガラス張りの植物園を訪れていた。佐奈が女子トイレで前髪のバランスを確認している時、女性がスマートフォン片手に少し慌てた様子でやって来た。どうやら彼女は、極秘の電話をするために個室に入ろうとしたらしい。

 女は高身長であるがゆえに、ひときわ目を引く存在だった。ましてや、利用客が少ない建物の狭い場所にふたりきりとなれば、相手が気になるのは当然だ。

 佐奈の耳に相手の話し声が自然と入ってくる。

「いい? 言葉で表すことが、最大の愛の証明よ。今すぐふたりの愛を終わらせないでね。落ち着いたらまた私に電話してちょうだい」 

 黒い長髪のポニーテールを揺らした女は、電話を切る直前で佐奈の存在に気がついた。女は目鼻立ちが整っていて、色白の肌にローズレッドのリップがとてもよく似合う。細部まで行き届いた華やかで上品な化粧をした女は、この田舎の港町では珍しい出で立ちをしている。服装は黒いノースリーブに黒のレースジャケットを羽織り、下はベージュのタイトスカートという、いかにも都会のデパートにいそうな女だった。自分たちのような若いカップルがここにいるだけでも珍しいというのに、モデルのような女性がひとりというのは明らかに場違いだった。

「うるさくしちゃってごめんなさいね。大切なお客様から、急を要するご相談があったものだから。外は風の音でうるさいし、かと言ってこの建物の中だと声が響くから、ここしか適当な場所がなかったのよ」

「お客様からですか?」

 それにしては、ずいぶん砕けた話し方だったような気がする。佐奈はてっきり女の電話相手は、話していた内容からも彼女の身内だと思っていたのだ。女がどういう商売をしているかは知らないが、そもそも客が電話相手ならば、こんな場所で電話に出ることは失礼ではないだろうか。

 佐奈はつい怪訝そうな表情を浮かべて女に質問をした。女は佐奈の様子を気にする素振りも見せず、目尻を下げて気前よく答えた。

「ええ、そうよ。私、秋田港の商業施設で占いをやっているの。まあ、ほとんどがお悩み相談室みたいになっているけどね」

「そういうことでしたか……。引き留めてしまってすみません。あの、お急ぎなんじゃ?」

「大丈夫よ。あの方は少し大袈裟な言い方をする癖があるから、さっきは話を合わせてあげただけ。心配しなくても、後でちゃんとフォローを入れるわ」

 さっきは「大切なお客様」と言っていた割に、今度はえらくサバサバしている。この女性は他人に関心がなさそうなくせに、たまたま女子トイレで鉢合わせた自分に気を遣って騒がしかったことを謝ったりと、ちぐはぐな対応をする人だ。

 女はお喋りな性格なのか、遠慮ぎみの佐奈にぐいぐい迫る。

「ねえ、それよりあなた、さっき男の子と一緒にいたわよね? ひょっとして、ここには彼氏とデートで来たの?」

「あ……はい」

「やっぱりそうなのね。彼、とても綺麗な顔立ちね。可愛いあなたにお似合いの素敵な彼氏さんだったわ」

 女が写真を撮るように佐奈の姿を捉えたまま一度だけ瞬きをすると、カールされた長い睫毛が揺れた。なんと人を魅了する笑みだろうか。途端に佐奈は女に苦手意識が芽生えた。女のどことなく嘘くさい笑顔に対してというより、初対面で赤の他人からプライベートなことに干渉される筋合いはない。どうやらこの女性と話を続けるべきではなかったようだ。

 佐奈は気のない返事をしたが、女の話は止まらなかった。

「彼との会話も仲睦まじい恋人のそれだったわね。あっ、私は聞く気はなかったんだけど、さっきすれ違いざまにあなたたちの会話がちらっと聞こえちゃったのよ。ふたりとも心の距離が近くて羨ましかったわ。きっと、あなたたちの愛は永遠に続くんでしょうね」

「永遠なんて……」

 佐奈は不安そうに女から視線を逸らす。なんとなく目をやった先、手洗い器の蛇口先端の吐水口から水滴が落ちる。

 廉斗が初めての恋人である佐奈には、自分たちが抱く恋慕の情に永遠が存在するのか分からなかった。なぜなら佐奈は、永遠を誓ったふたりの赤い糸が途切れた瞬間を、幼い頃よりこの目で見ていたからだ。

 女は佐奈を上から見下ろし、人知れず冷笑のような意地悪い笑みを唇の端に浮かべた。

「あら? あなた浮かない顔をしているわ。もしかして彼氏との関係に何か悩みがあるの?」

 佐奈は女の言葉に弾かれるように顔を上げる。そこにいた女は全てを見透かしていながらも、素知らぬ顔で佐奈を気遣い、自身も心を痛めているかのように眉を下げていた。

「そんなこと……ないですよ」

 佐奈はなんとか笑顔を作ったが、それはとてもぎこちなかった。彼女の中で、固く締めていたはずの蛇口が緩み、肺に暗い感情が溜まっていく。後ろめたい記憶はどしりと重い。

 佐奈にとって、恋人である廉斗との馴れ初めは甘さよりも苦みがまさっていた。廉斗との思い出に浸り、甘い痺れを喜びとして噛み締める度に、今も続く自分の打算的な思考の浅ましさに嫌気が差す。

 佐奈の恋心の始まりは、彼女たちが高校に入学して間もない頃、廉斗がまだ関係がぎこちないクラスメイトたちに気配りをしていた時だ。彼の誰にでも平等な優しさが佐奈に向けられたことで、心が壊れそうな母親を慰める役目を終えた佐奈の自尊心の傷は癒やされた。ふたりの偽りの恋人関係の始まりは、廉斗が実家いる息苦しさを他人に初めて打ち明けた時だ。佐奈は約束を取り交わす前から抱いていた廉斗への恋心が本物だったことを、廉斗も実は佐奈に好意があったことを、恋人として付き合ってからもそれぞれ相手に知らせなかった。両者が交際前からあった想いを隠したことが、佐奈が今でも廉斗と自分の愛情の熱量の差について、不安を引き摺る原因になっていたのだ。

 佐奈は廉斗と恋人という間柄になった初めから今まで、百パーセントではないにしろ、彼が義務感で恋人を愛していると思っていた。なぜなら廉斗を頑丈な檻の中から救い出すには、檻の鍵が必要だったが、それはこの世から消えてしまったため、彼の自己犠牲精神を利用して代替の愛で檻の鍵を作るしか方法がなかったからである。ふたりは家族愛に代わる愛を誕生させたことで、思わぬ副産物を得た。それは、相手への情愛とは別に存在する依存心だ。ふたりは歪んだ家庭で刻まれた傷を舐め合うことで、互いの存在に救われていた。その偽の恋人関係──傷の舐め合いを、佐奈だけははっきりと自覚していなかった。

 そして、彼女たちは傷を抱えたまま大学生になった。廉斗にかけられた呪いが発動する前──つまりは現在、彼は佐奈に心からの言葉を贈るようになっていた。

 ──佐奈が好きだよ。

 共に過ごした長い時間のお陰で、廉斗の好意はきちんと佐奈に向けられている。彼は彼女のために、何度も気持ちを言葉にしてくれたのだ。触れ合った体温と鼓動が、廉斗が口にした想いが嘘ではないことを証明していた。しかし、佐奈は気付いていた。それらは永遠の愛を証明するものではないのだと。愛の裏付けとは、互いに相手を信頼するよりほかはないのだ。

 愛は形に残らないからこそ、時間という概念に縛られない。何者にも縛られない代わりに、人々は愛情を言葉にしたり、相手のそばにいることで愛を具体化する。すなわち、愛の証明とは、このようにして絆という見えない鎖を心で作り出すことなのだ。物体としての愛は存在しないが、何かの手段を用いれば愛の大きさを証明できる。人の想いから生まれる愛とは、そんな矛盾の中で生きていた。

「不安なんて別に──」

「そうかしら? 女はね、愛されていることを常に確認したい生き物なの。愛の証拠が手元にないと、いつもどこか不安でたまらないのよ。あなたもそうでしょう?」

 目を細めた女は、見事に佐奈の本心を言い当てた。けれども、佐奈は即座にそれを心の中で否定した。

 ──やめて……。私はまだ信じていたいの……。

 形じゃない永遠の愛だってあるはずだ。そう思いたいのに、人間の心は矛盾でできている。廉斗が本当に自分を愛してくれているのか、佐奈にはその自信がなかった。誰かを愛していても、結局は一番好きなのは自分だけで、真実の愛は求めれば求めるほど、手が届かない場所に遠退いていくのではないだろうか。そもそも、彼との間に結ばれているこの縁が、本物の愛なのかわからない。わかるのは、彼を愛してるという気持ちだけだ。

「私は……」

 誰よりも、何よりも、愛してる。

 ──それは、誰のことを?

 佐奈は自問自答する。その答えは、廉斗しかいなかった。しかし、佐奈は彼を自責の念から救いたいと思いながら、他に何かを望んでいた。

 ──廉斗くんは前より笑ってくれるようになった。これで良いはずなのに……。

 どうしてかこの女性と話していると、感情が掻き乱される。まるで彼女の口から氷の手が伸びているかのように、佐奈の心臓はぎゅっと縮み上がっていた。季節は夏だが、底冷えする寒さが心臓を貫き、背中には冷たい汗が流れる。女性は恋をすると綺麗になるとよく言われているが、この人が若く見えることが何となく恐ろしい。

「あなたの近くにも、愛の証拠が欲しくて、常に不安に襲われている人がいるでしょう?」

 ──佐奈、ありがとう。ママのそばにいてくれて。

 ──私だけ置いていかないで……。

 ──佐奈、大好きよ。誰よりも愛してるわ。

 こんなことはあり得ない。なぜ、赤の他人であるこの女性に母親の面影が重なったのだろうか。

 怯えで瞳が揺れている佐奈は、この場にはいないはずの母親に背後から抱きしめられているような感覚に陥る。佐奈はすぐにでもこの場から逃げ出したかったが、後退りすらできなかった。巧みな話術を用いる女の手中に収められた佐奈は、身動きを取ることができなくなっていたのだ。

「さてと、そろそろ私も行かないと。あなたも彼氏さんが心配する頃ね」

 去り際、満足げな女は微動だにしない佐奈に「ああ、そうだ」と何の気なしに話しかけた。

「言葉で表すことが、最大の愛の証明よ。ふたりの愛を終わらせないでね」

 女はメガネネックレスにぶら下げていたブラウンのサングラスを掛けると、床を叩くヒールサンダルの音を響かせて、颯爽とその場から離れた。

「言葉で表すことが、最大の愛の証明……」

 佐奈はぽつりと呟く。女の言葉は重く響き、佐奈の身体に不思議な力を宿す。

 こうして佐奈の中で、忌まわしき女の呪いが目覚めたのだった。


 女は植物園を出てからしばらく歩き、何を思ったか突然引き寄せられるように振り向く。

「ふたりとも顔が母親似なのね……。私に対する嫌味かしら」

 憎々しげな声で小言を言う女の見上げた先で、ふたつの影が重なる。女は目を細めたまま、若い恋人たちを見て嘲笑う。

「大好きな彼氏との幸せも今の内よ。田口佐奈ちゃん」

 悦子は、赤の他人ならば知り得ない佐奈の旧姓を口にした。



 二〇二一年・一月三日の午後二時、美香は姉と共同部屋である自室でダラダラしていた。廉斗はアルバイトに行ってしまい、成海は東京に帰るため少し前に最寄り駅に向かった。伯父夫婦は仕事でふたりとも不在だ。この豪雪だと、全員帰りは遅くなるだろう。

 家にひとり残された美香は部屋の乾燥による喉の渇きが気になり、何も持たずに一階の台所を目指して部屋を出た。辿り着いた一階は、石油ストーブの熱がじんわりと残っていてまだ温かい。リビングに長居するつもりはなかった美香だが、目先にあるソファで寛ぎたくなってしまい、出来上がったホットココアをソファ横のサイドテーブルまで運んだ。

 ソファに座ってゆったりと過ごす中、美香が思い出したのは、前日に秋田駅前のカフェに寄った時の友人との会話だった。

 ──良かったじゃん。お兄さんと仲直りできてさ。美香ったら、ずっと前から言っていたもんね。お母さんが亡くなって、お兄さんに冷たくあたったの後悔しているって。

 美香は廉斗との仲が拗れたのは、本望ではなかった。当時は美香も事故の真相を知らないばかりか、突然の悲劇に感情のコントロールができなかったのだ。

 ──うん。でもね、廉斗ってば、私が誤解して八つ当たりしたことを謝っても、自分が悪かったってまだ言っているの。もう自分を責めなくてもいいって言うのに……。

 ──美香のお兄さんって、優しくて家族思いの人だよね。それに、K−POPアイドルみたいなイケメンで頭もいいし。ねえ、いつかお兄さんの写真を撮ったら、また私に見せてよ。

 ──昨日の今日でお願いしずらいよ。というか、話題の食いつきっぷりに差がありすぎる。

 昔から廉斗のファンである友人のあまりの変化ぶりに、美香は声を出して笑った。美香の心は、一昨日よりずっと軽い。心のどこかでずっと望んでいたこととはいえ、まさかこんなタイミングで廉斗と和解するとは思ってもみなかったのだ。

 美香の目がホットココアから、リビングにある棚に移る。そこには、遠い昔に撮った家族写真が飾られてあった。これは、今日の午前中に姉と、伯母と一緒に見つけたものだった。美香はこれまで、兄も映った家族写真が視界に入ることを嫌っていたが、それはもうこの冬で卒業だ。

 せっかくだし、スマートフォンのカメラでこの写真を撮ろう。美香が二階にあるスマートフォンを取りに行こうとして、ソファから立ち上がった時だ。静かな家でインターホンが鳴り響く。例年だと、こんな時期に来客はいないはずだ。美香は不審に思いつつも、階段の壁に設置されたインターホン親機を耳に当てた。

「はい」

「こんにちは、美香ちゃん」

 それは紛れもなく、ここ最近も電話でやり取りした女性の声だった。

「ちょっと遅くなったけど、新年の挨拶でお伺いさせてもらったの。お邪魔していいかしら?」

 美香は声だけでその人物が誰なのか把握すると、断るという選択肢を自らの意志で放棄した。

「どうぞ、悦子叔母さん」

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