第十八話 傷に触れる条件

 就寝前になって、廉斗は佐奈からやっと返信をもらった。

『気付くのが遅くなってごめんね。片付けとか、大学への連絡とかでバタバタしちゃった。もう元気だよ』

 佐奈が無事で良かった。廉斗は彼女の言葉に何も疑わず、文面であろうがいつもと変わらず思いやりを持って接する。

『治ってからも大変そうだね』

 廉斗は続けて「無事で良かった」と入力したが、すぐにその一文を消去した。彼は病み上がりの彼女に余計な気を遣わせたくなかったのだ。

『ようやく家に帰ってきたんだし、今日は無理せずゆっくり休んで。また連絡するよ』

 短いやり取りだが、自分はこれで十分だ。廉斗は佐奈の身を案じて、潔くトークを終了する。

 一方、佐奈は廉斗の心遣いをわかっていながらも、自分への対応に物足りなさを感じていた。

「無理していないよ……」

 だから、もっと言葉が欲しい。佐奈は大事なことは何も言わない廉斗に寂しさを募らす。

 大学生の冬休みがもうすぐ明ける。つまり、多忙な日々が始まれば気軽に連絡を取りづらくなるのだ。それでなくても廉斗はテスト勉強とアルバイトがあって忙しそうだし、さらに感染した佐奈は退院後も四週間は健康状態を確認するよう医師から注意され、許可が下りるまで自宅待機だ。加えて彼女は授業の遅れを取り戻さなければいけない。これからも恋人に会える時間は減っていくだろう。

 佐奈は廉斗から愛の言葉をもらえない理由も知らないまま、新型ウイルス感染症で変わってしまった日常に戻っていく。ただでさえ疲弊していた彼女の心には、未だ暗い感情が巣食っていた。

 ──廉斗くんが私を大事に想ってくれてるってわかってる。だけど、どうしてこんなに悲しいんだろう……。

 就寝するためベッドに横になった佐奈は、不意にとてつもないわびしさに襲われる。佐奈が感じていたその感情は、恋心からくるものではなかった。

 恋はとびきり甘いが、痛くて苦い。中毒になりそうなほど相手を求めてしまって、向こうの意思に関係なく日常生活が丸ごと縛られて、心が相手から離れられなくなる。この場合の愛情は、自分の願いが成就することが最優先だ。それに対して、愛は重いのに安らぐ。他者と自分、互いの祈りがあり、両者の心は自由だ。それ故に、どちらかが離れていても安心できる。この場合の愛情は、相手ばかりではなく、互いの願いが成就することが大事なのだ。愛の始まりはエゴだが、真実の愛を誕生させた人々が手を取り合う姿には、自分勝手な正義や心配、恐れが存在していない。送り手の祈りが響き、受け手が共鳴して、初めて愛になるのだ。

 佐奈はそんな理想的な愛の証明が欲しかった。

 ──形じゃない愛だってあるよ。

 以前、佐奈は愛の言葉を話せなくなった廉斗に言った。この時、佐奈は確信を持って発言したのではなく、期待を込めてその言葉を口にしたのだ。

 彼女は廉斗との約束が破られることを恐れていた。ふたりの間には、恋愛感情を抜きにした縛りの関係が成り立っていたのだ。

 ふたりの特別な関係の始まりは、高校時代にまで遡る。


 高校三年生にもなれば、進路への漠然とした閉塞感が強くなるものだ。佐奈は放課後、無利子の奨学金制度の応募用紙を片手に進路資料室を訪れていた。そこに廉斗が後からやって来る。佐奈は廉斗とふたりきりで互いの進路について話していたが、それよりも目の下に濃い隈ができていた、意中の人の体調が心配だった。

「最近、眠れなくて。家にいても安心できないって言うか……」

 廉斗は佐奈に多くを語らず、力なく笑った。この頃の廉斗は、羽を伸ばせる場所を完全に失い、実家での息苦しさを強く感じていたのだ。

「それ、ちょっとわかるかも。望んだ環境じゃないのに、なぜか自分はそこにいるんだよね。置かれた環境に不満があるけど、別に自分から文句を言って、周りの人を不幸にさせたいわけじゃなくてさ」

 抽象的な表現だが、廉斗は自分の気持ちをピタリと言い当てた佐奈に驚かされる。佐奈は自身の苦い実体験を織り交ぜて、淡々と話を続けた。

「結局はこっちがその環境に適応するしかないの。自分に環境を変える力が無いのなら、特にそう。だって、私が小学校の頃にお母さんとお父さんが大喧嘩した時とか、家に居づらかったもん」

 自然な流れで家庭の話になる。彼は今まで聞いてこなかった他人の家庭の事情を耳にしたことで触発され、溜め込んでいた思いを佐奈にうっかり漏らす。

「僕はあの家にいたくないんだ」

 佐奈は何の反応も見せなかった。聞き手のリアクションというストッパーが無いことで、廉斗の口から本音が次々と溢れ出す。

「事故のせいで母さんも、父さんも死んでしまったんだ。みんなで互いを支え合えばいいのに、僕だけを責めたり、同情して大袈裟に優しくしたり、僕の顔を見ただけで泣いたり、今まで干渉してこなかったくせに急に人の家族のことを好き勝手に悪く言ったり、誰かを除け者扱いしたりして……。こんな生活は息が詰まるよ」

 自分はどうしたらいいのだろうか。人前でどう振る舞えば、誰も傷付けず、自分もここから立ち直れるのだろうか。

 廉斗は自身の首を掻き毟りたい衝動を何とか抑えて、悲鳴を閉じ込めるように首の熱くなった箇所だけを抓った。

 佐奈はそんな彼の行動に胸を痛める。

「もうあんな家にいたくない。だけど──!」

 廉斗は首から手を離して、握った拳に力を入れた。

 本音を言う相手が違っていようが、もはや構わなかった。廉斗は目の前にいる、最近少し気になっている女子に、自分の生きづらさをぶつけてしまう。

「離れたくない……! あそこは僕たちの大事な場所なんだ。僕だって本当は県外の大学に行きたいけど、遠くに行ってしまえば、あの家に二度と帰ってこられない気がする。それに、妹だけ秋田に置いていけない。死んだ母さんたちの代わりに美香が幸せになるまで、僕がそばで守ってやらなきゃいけないんだ……!」

 廉斗は辛かった日々を思い出して、しばらくの間は声を押し殺して泣いていた。彼の自己犠牲精的な愛は、温かい思い出が詰まった家で、共に過ごした家族に注がれていたのだ。

 もう誰も嫌いになりたくない。誰にも嫌われたくない。廉斗の思いは切実だった。

 廉斗は顔を覆っていた手を静かに下ろして、おもてさらす。その表情には諦めが内側から滲んでいた。

「その目的を果たすためなら、僕は美香に恨まれたままでいい。美香は顔も見たくないだろうから、僕は県内の大学の寮に入るつもりだよ。これが、家族を悲しませた僕の贖罪さ。だから、僕の進路については、なるべく誰にも頼りたくないんだ」

 廉斗は自己矛盾を抱えていた。そばで妹を守ってやらなくてはいけないが、家にはいられない。否、家にいたくないと。

「──ごめん。君にこんなことを言って」

 今まで隠していた思いを誰かに打ち明ける気なんて更々なかった。隠し通せなかった不甲斐なさで彼女の顔が見られない。廉斗は手で乱暴に涙を拭うと、再び拳を強く握り、欠けた白い床のタイルを虚ろな目で見つめた。

「廉斗くんは、今までずっとひとりで頑張ってきたんだね」

 佐奈は深く傷付いている廉斗に穏やかな口調で語りかける。廉斗は予想外の言葉に思わず顔を上げた。それから佐奈は何も言わずに廉斗に近付き、彼の手に触れると、いつの間にか緩んでいた拳をゆっくりと解いた。廉斗も柔らかくて温かい手を持つ佐奈の誘導に抵抗できず、そっと左手の拳を広げる。掌には爪が食い込み、薄らと血が滲んでいた。

「廉斗くんはこんなになるまで、たくさん傷付いてきたんだよ。もう十分苦しんだでしょう? そろそろ自分を赦してあげようよ」

「佐奈、僕にはそんな資格ないよ」

「廉斗くんには、誰よりも幸せになってもらいたいの。きっと、亡くなったご両親もそう思っているはずだよ。私が同じことを思っても、それはあなたの罪になる?」

 廉斗の脳内で流れた家族との遠い記憶が、彼の乱れた息を整えさせた。

 佐奈は寂しげな笑顔を見せて、廉斗の無骨な指を包み込むように握った。今、暗闇に落ちそうな彼の手を離すわけにはいかなかった。

「廉斗くんがこんなに罪悪感を感じているってことは、あなたがご両親にちゃんと愛されてきた証拠だよ。愛した我が子の不幸を望む親なんていない。廉斗くんに何があったか詳しくは知らないけど、私でもこれだけはわかる」

 佐奈は最後まで「愛してる」と言ってくれなかった実の父親と、重い愛の言葉を背負わす母親の姿を脳裏に浮かべていた。

 一方、廉斗は佐奈の言葉が胸に刺さり、何も言えなくなっていた。彼は無意識で喉を擦る。その動作は、まるでそこにある傷の存在を確かめているようだった。

「その傷も、廉斗くんが苦しみに耐えてきた証拠だよ。これは、ご両親や妹さんたちへの、愛の証でしょう?」

 佐奈は廉斗とは違って手でそこに触らず、彼の首の痣を、ひいては見えない鎖に空気だけで触れてみせた。

 廉斗は佐奈の言葉によって、自分の首元で揺れた鎖の存在をようやく認知する。

「これが……愛の証……」

「そう。とても悲しくて、優しい──あなたの愛の形だよ」

 なんて痛々しい愛の証明だろうか。どうか彼がこれ以上、この傷を刻むことがありませんように。佐奈は願いを込めて、廉斗に言葉を送る。

「辛い場所から逃げ出そう。誰しも自分の心に嘘なんかつけないよ。きっと、廉斗くんは悪くない。廉斗くんなら大丈夫だよ。これからは私がいる。一緒に自由になろう」

「一緒に自由にって……どうやって?」

 佐奈は戸惑う廉斗の手を片手で掴んだまま、ずっと反対の手で持っていた書類を渡した。

「これはね、無利子の奨学金の案内と応募用紙なんだ。廉斗くんなら、たくさんある条件に当てはまるだろうから、申請が通ると思う。後でちゃんと読んでみて」

「奨学金は欲しいけど……。でも、これは佐奈が準備したものなんじゃないのか?」

「ううん、違うよ。私は別の奨学金について調べていたら、たまたま廉斗くんに合いそうな制度を見つけただけ。だから、これは遠慮せず使って。これが自由への第一歩になると思う」

 廉斗は書類を突き返そうとして腕を伸ばしたが、途中で佐奈に両手で押し返されてしまう。それでも、彼は拒むことを諦めなかった。

「やっぱり受け取れないよ。僕が今日ここに居合わせたのは、ただの偶然なんだ。佐奈がわざわざその書類を入手したってことは、本当は君が応募しようと思っていたんだろう? それに、さっき君も自由を望んでいるようなことを言っていたじゃないか。君の気持ちだけで十分嬉しいから、無理しなくていいよ」

 廉斗は佐奈の家庭の事情を知らなかったが、佐奈が無利子の奨学金を利用しようとしていることだけは把握していた。

「これは比較の対象として持ってきただけ。私には、ここに記入されている条件は厳しいみたいだから」

 佐奈は渋る廉斗に対して、「自分は他の制度を利用するから大丈夫」の一点張りだった。

 どちらも譲らない両者の議論は、思わぬ形で決着することになる。

「──わかった。廉斗くんは、この応募用紙をただでは受け取れないってことだよね? じゃあさ、交換条件を付けよう。あなたも対価を払うなら、それで納得してくれるでしょう?」

 廉斗が佐奈から無利子の奨学金制度を譲り受けた時、彼女はひたすらに廉斗の幸福を願っていた。そんな思いから生まれた約束だった。

「私は廉斗くんが好きだから、あなたのそばにいたいの。この応募用紙をあげるから、代わりにあなたの大切な時間をちょうだい」

 廉斗に片思いしている佐奈は、奇想天外な作戦に出た。それは、誰も傷つけまいとする廉斗の内側に入るためのものだった。この時の彼女は、汚い欲望など持ち合わせていなかった。ただ、ひたすらに純粋な想いで廉斗を助けたかったのである。

 どうしたら廉斗は人に頼ってくれるようになるのか。佐奈は考え抜いた挙げ句、苦肉の策で、廉斗の優しい性格を利用することを選んだ。

「私を廉斗くんの恋人にしてほしいの」

 例えその関係に想い人からの気持ちが無くても、彼が自分を大切に想うようになってくれたら──。

 佐奈は自分の恋心を建前にして、廉斗を自由な空へと解き放っていたのだ。

 

 

 夜中に目覚めるのは久しぶりだ。佐奈はベッドに寝転んだまま、昔にした廉斗との約束を思い出す。

 最近、恋人が愛してると言ってくれない。佐奈は廉斗との途切れた会話のせいで、心細い日々が続いていた。彼女は廉斗に「どうして話せなくなったのか」と、肝心の一言が言えなかった。それは、廉斗が音を出さずに口の形を変える度に、苦悶の表情を見せてくるからだった。昨日、長電話をした恭平は確実に何か知っているようだが、彼は頑なに教えてくれない。佐奈が軽く話題を振ってみても、「自分の口からは言えないから、本人に聞け」の一点張りだ。

 佐奈は廉斗が自分を大事に想ってくれてると理解している。けれども、なぜか心は満たされない。それはいつの頃から始まったのだろうか。

 ──言葉で表すことが、最大の愛の証明よ。ふたりの愛を終わらせないでね。

 不意に佐奈の頭をよぎったのは、見知らぬ女性がくれたアドバイスだ。

 女性との出会いは、一昨年の夏、廉斗と植物園に行った時のことだった。

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