第80話 続き

 踵を返して帰っていった山本教授を見送った俺は、改めて先ほど中断された話をしようと棗さんの方を見ると、今まで見たこともないような…目線で殺せそうな程の鋭い目つきで教授が去っていった方を睨んでいた。


 それは向けられていない俺ですら体感温度が一気に下がり、無闇に声が出せないほどの迫力があった。


「………決めた、あの人のゼミをやめて別のところに行く事にする」


「…えっ!?急にどうしたんですか?」


 俺の横に立っていた棗さんは怖い表情のままそう冷たく吐き捨てると、怒りながらも言葉を返してくれる。


「あそこのゼミでやってた研究自体はとても面白かったし、いまでも興味深い点は多いけど…元を辿れば私が2年生の頃にあの教授がどうしてもっていうから、あの人のゼミに入ったのね?


 さっきも言ったけど、確かに研究内容自体は面白かったのよ?…でもあそこでこれ以上学べる事は自分でもなんとかなりそうだし、似たような研究ができるゼミだけでも5個くらいから勧誘を受けてたからその中の何処かに移ろうかなって」


 声自体は穏やかでいつものように優しい声色の棗さんだが、無表情のままそう言葉を漏らす。


「前からあんな感じの態度が目立ってたからどうしようかなって考えてたんだけど…もう考えは決まったわ、今までは学べることも多かったし楽しかったけど…あんな人を見下して馬鹿にする様な人格の人の元で学びたくなんてないわ。この後学生課にゼミ変更の手続きをしに行かなくちゃね、もうあの教授には見切りをつけて」


「で、でも棗さんのこの時期からのゼミ移動ってだいぶリスクが大きくないですか?ゼミ移動って在学中に一回しか出来ないですし…」


「大丈夫よ秀くん、秀くんには何故かポンコツな部分ばっかり見られてる気がするんだけど…こう見えてお姉さん成績は優秀なんだから♪ゼミの移動で今やってる研究内容に多少の変化があったとしても、来年の卒論くらいなら余裕で提出できるわよ?」


 さっきまで冷たくて怖い雰囲気を纏っていた棗さんだったが、俺の方を向いた棗さんの表情はさっきの冷たいものではなく、にっこりとした笑みに変わっていた。


(よかった、そんなに気分を悪くしていないみたいだな)


「じゃあ無理にゼミの移動をしなくてもいいんじゃないですか?万が一のことを考えると―――「いえ、そこは変える気は無いわよ?秀くん?」


 俺は棗さんの機嫌がマシになったのかと思い、そんな言葉を出そうとすると食い気味に凍える様な雰囲気に戻った棗さんに否定されてしまった。…棗さんって怒ったら怖いんだな……。


「後期の初回講義からはもう移動を済ませてから受けるつもりだしね。教授があんなのだからか、私以外はエリート思考みたいなのが強くて、思いやりなんてものは一切無いし…全てが損得勘定、私は何もされなかったけどゼミ生同士で研究の足の引っ張り合いをしてるなんて噂も聞くくらいだったしね。


 何より…秀くんに対するあの態度…絶対に許せない。土下座をしようと泣きついてこようと何をしようと…もう私はあのゼミに戻る事はないし、許すこともしない。私の大切な人を傷つける様な人なんて知らないわ。それになんで赤の他人に私の交友関係についてとやかく言われないといけないのよ…!ムカつくわね」


 唾棄する様に棗さんの口から出てきた言葉からは、絶対に許さないという気持ちがビリビリと伝わってくる。

 それを聞いて俺は何処かで嬉しいと感じていた。美涼や奈緒や麗華も同じ様に言ってくれるんだろうが、実際に目の前で俺の為に怒ってくれている棗さんを見ると心が温かくなる錯覚を覚える。…こんな風に俺の為に怒ってくれる人がまだこの世にいるなんてな。


(…それにしても大切な人って……ただの言葉の綾だよな?)


 一人で感動したり大切な人発言に思いふけっていると、棗さんの声色がいつもの優しいものに戻る。


「さっ!もう私のことはとりあえず置いとこ?さっき秀くんが言いかけてた私の本についての話をしない?」


「そうでしたね、その…棗さんに入院中に借りていた本のことで、返却をどうしたらいいのかなって思いまして…今日会える保証がなかったので今は持ってないんですけど、どうしましょう?」


「あー!あの本ね?別に秀くんに全部あげちゃってもいいよ?もう全部読んだものだしね」


「そういう訳にはいかないですよ、その辺の本屋で買えるものならまだしも、かなり貴重な初版の文庫本とかばっかりじゃないですか、あれ!読むときに汚したり水をこぼしたりしない様にって大変だったんですから!!」


 今借りている棗さんの本の中には、一冊数万円から数十万円の値段がつく様な物凄く貴重で価値のある本が何冊もある。おそらくあれも棗さんの謝罪の証なんだろうから受け取ったときには何も言わなかったが、あんなレベルの本は読むのではなく厳重に保管されたり飾ったり、モノによっては博物館なんかで展示されていてもおかしくないレベルだ。俺みたいな一般人がおいそれともらえるわけがない。


「私的には秀くんにあげてもいいかなって思うんだけど…わかった、じゃあ私が受け取りに行くよ?秀くんの最寄り駅まで」


「俺が借りてる身ですし、そうもいかないですって!俺が棗さんに返しに行きますよ。棗さんの都合が悪くないなら夏休み明けに全部持ってきますよ?」


 棗さんからの謝罪の意味があったものだとしてもそんな事は知らん!あえての無視だ!

 借りたのなら借りた側が返しに行くのは当然なわけで、こんなに暑い中わざわざ俺から本を受け取るためだけに何処からかは知らないが、出向いてもらう訳には行かない。


「でも全部ってなると重いでしょう?」


「重さは関係ないです、これは俺の気持ちの問題ですから。それに棗さんに重い物を持って帰らせたくないですよ俺」


「(……そうやって秀くんは…ずるいよ…)」


 俺の絶対に譲らないという気持ちが伝わったのか、ボソッと何かを呟いてうつむきながら悩んでいる棗さん。少しの間、何かを考えていた棗さんだったが何か思いついたのか、少し顔を赤らめながら俺に提案をする。


「じ、じゃあ―――私の家に…く、来る?秀くん…」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る