8.墓の見える場所へ。
新聞にはアドハンティア鉄道の事務所の位置も記されていた。
ホテルから走ればそう遠くは無い距離だったし、近くまでくれば、どれが事務所なのかはすぐに分かった。入り口には群衆がたむろし、怨嗟の声を挙げている。投石されたのだろう、いくつもの窓が割れ、その奥で人が右へ左へと動いているのが見えた。
「おい! 新聞は本当なのかよ! あんたら潰れたら俺のカネはどうなるんだ!」
「ですから、そういったことはすべて説明しますので、どうか落ち着いて。会議室まで順番に入ってください!」
「これが落ち着いていられるか!」
頭の禿げ上がった男が、怒り心頭といった様子で社員に詰め寄っている。道路のそこここで起きる取っ組み合いをかき分けて、何とか一人の社員の近くまで近付いていく。
「すいません!」
「株主の方ですか? 株主であることを証明できる書類をお見せください」
「いえ、そういったわけではないんですが……その、ルーシさんのことでお聞きしたいことがありまして」
「あ?」
その名を出した途端、社員の顔色が変わるのが分かった。
怒り狂う民衆を押さえるための笑顔は引っ込み、ギロリと鋭い視線が突き刺さった。
「え、な、なんですか?」
「それはこちらのセリフですよ。僕たちのルーシちゃんに何か用ですか?」
「ルーシちゃん? いえ、用というか……」
何か用かと言われると、改めて、自分がなにを求めてここに立っているのか、理由も分からずに来ていることに気付かされた。
俺は何をしたいのだろう?
「……ただ、ルーシさんが大変な目にあっていないか、知りたかっただけです。一応、土地売却の交渉相手として、関わりがあったものですから」
話すうちに、尻すぼみになっていく。突き詰めれば、俺とルーシさんは他人に過ぎない。
しかし、それを聞いた社員はもしかしてというように首を傾けた。
「む。……あなたが例のプロセル? モロ・プロセルですか?」
「そうですけど。ご存じなんですか」
自分が有名人だった記憶はない。しかし社員はしげしげと俺の全身をながめ、なるほどねえなどと呟いた。
「ルーシちゃんがずいぶん気に入っていると聞いていたものでね」
「気に入っている? それは何というか、光栄ですが……」
「だから昨日、ルーシちゃんが帰ってきた時はびっくりしたよ。彼女が泣いている姿を見るのは、僕たちも初めてだったから」
責めるような視線を受けても、黙ることしかできない。
彼女が、泣いていた……それは若干の喜びと、そしてそれでも彼我の間に埋めることができなかった隔絶の苦しみを同時に思い起こさせた。
「……ルーシちゃんの行方は僕たちも把握できていないんだ」
「把握できていない?」
「社長はきっと安全な所に逃がしたと言っていたけどねえ」
社員は言葉を濁し、声を潜めた。
「でも、こういう時に助けになってくれるようなコネが社長にあるとは思えないんだ。火中の栗を拾ってルーシちゃんを保護してくれる人なんて、いないと思うんだけど……」
「それなら、探しに行かないとダメじゃないですか!」
思わず、声をあげてしまう。社員は眩しいものを見たように目をしばたたかせ、そして視線をそらした。
「そうだね、その通りだ。でも、僕たちには、余裕がないから。彼女を救うことができない」
後悔と羨望の入り混じった声だった。余裕がないというのは、きっと、この群衆を捌かなくてはならないというだけではない。彼らもまた、明日の飯も分からぬ身だ。会社が落日を迎える中で、彼らの未来はあまりにも不確定だった。ルーシさんと一緒で、彼らは走り続けなければならなかった。そして走るために、多くのものを切り捨てなければならないのだ。
「……情報、ありがとうございます。あてはありませんが、俺もルーシさんを探してみます。あなたもお気を付けて」
「うん。……ルーシちゃんはいい子なんだ。ハリネズミみたいに身を守っているけど、彼女はずっと臆病なだけなんだ」
社員の言葉を聞きながら、再び走り始める。
彼女は何に頼れるのだろう?
帝都は、人を探すにはあまりにも広すぎる空間だった。
無限にも思えるほどの人と、どこまでも続く石畳、壁のように立ちはだかる家々。
すでに日は沈んだ。夜霧とスモッグの入り混じった街の底を、コツコツと歩き続ける。煙の向こうには、家の奥で揺れる暖炉の炎と、その前に並ぶ家族の影が見えた。たくさんの人がいた。我が家へ足早に帰る人がいて、パブの中からは笑い声が聞こえた。この街という空間の中には、たくさんの人がいるのだ。
それでも、ルーシさんの手掛かりはない。いくら人がいても、ルーシさんを探し歩く自分にとっては、世界には自分にしかいないようだった。彼らと自分の間には、何枚もの壁がある。
いや、自分はその壁を破ろうと思えば破れるだろう。パブの扉をあけ、いくらかの銭を渡し、隣の客に声をかければ、人の空間に入り込むことができる。
しかしああ、かつてのルーシさんにとっては、この壁はずっとずっと高くて、硬くて、決して打ち破れるものではなかったのだ。靴もなく、ぼろきれのような服を巻きつけて、路地裏の奥をさまよっていたのだ、彼女は。そして今も、この無数の人が生きる街の中で、あらゆる場所に人と空間があるのに、どこにも入れずに歩いているのかもしれなかった。
俺は、一つの手掛かりを思い出した。彼女を庇護してくれるかもしれない存在。彼女の嫁ぐ先。どんな理由であれ、彼女を家族として迎え入れようと考えていた家があったはずだ。
ベステック家。テオドール卿曰く、酷い男であり、打算まみれの婚約だという。悪趣味な指輪だった。婚約指輪にルビーを使うやつがいるだろうか。それでも彼女の夫になろうと手を挙げたはずなのだ。帝都ではそれなりに有名な家であるようだった。何人かの人に聞きながら、俺は貴族街に入り、件の邸宅の前に訪れた。
貴族街はずっと静かだ。風にそよぐ木々の音と、石畳を叩く自分の足音だけが響く。丘の上にあるおかげで、街を覆うスモッグから逃れ、わずかに月の光が届いていた。
そこに少女はいた。
「ルーシさん。一日ぶりですね」
「……プロセル様」
ひどいありさまだった。昨日買ったばかりの服は、泥まみれになっていた。頬には、涙を流した跡が残っていた。白い肌は打ち身で赤く腫れていた。街頭に背を預け、足を抱えるようにして座り、ルーシさんは漫然と空を見上げていた。
「どうやら、私はベステックの家には入れていただけないようです」
「そう、ですか」
「このお洋服も、気に入っていたのに、汚れてしまいました。申し訳ありません、プロセル様」
彼女は服の裾を握りながら、謝った。
「服なんて、また買えばいいですよ」
「買えませんよ……」
震える声が聞こえた。
「こんな服を買える日は、もう来ないでしょうね。昨日が私の、最も幸せな日だったのかもしれません。暖炉の前で目覚めて、綺麗なお洋服を買って。お食事は不本意な終わりになってしまいましたけど……」
「聞きましたよ。ルーシさん、泣いて帰ったんですか?」
「そ、それは誰から聞いたのですか?」
顔を赤らめて聞き返すルーシさんがおかしくて、少し笑ってしまった。
「社員さんですよ。僕たちのルーシちゃんを泣かせるなとかなんとか……」
「もう、余計なことを言う人はだいたい決まっているのです。帰ったら怒らないと……」
そこまで言って、ルーシさんは口を閉ざした。
「私はこれから、どうすればいいのでしょうね」
途方に暮れていた。彼女はゆっくりと立ち上がり、丘の下に広がる巨大な都市を眺めていた。
それは痛々しい覚悟だった。
「プロセル様、ありがとうございました。お恥ずかしい話ですが、こんな私を迎えに来てくださって、とても嬉しかったです」
「俺は何もしてませんよ。ただ歩いてきただけです」
「ふふ、プロセル様に伝わるでしょうか、私の気持ちが。慮ってくれる方が一人でもいるということが、どれだけ心強いことか。……また、いちからやり直しですね。ため息をつきたい気分ですが、がんばるしかないですね」
どうみてもカラ元気だ。ルーシさんは澄んだ目で前を見つめ、歩こうとしている。
「また、ルーシさんは戦うんですか」
「そうするしかありませんから。上を目指さないと、今度こそ明日のご飯もままなりません。眠るお墓も用意できません。暖炉のある家は、また十年後の楽しみですね。頑張ればどうにかなるのかもしれないということが分かっているのは、私の優位点です」
この少女が、どうして一人で戦わなければならないのだろう。
ルーシさんはもう十分に頑張ったじゃないか。苦しい生活を忍び、下卑た視線に耐え、身体をも貴族に差し出そうとして、ここまでやってきたのに。
「……もう、降りればいいじゃないですか。人に頼ればいいじゃないですか」
俺の言葉に、ルーシさんは首を振った。
「そういうわけには参りません。この街で生きていくためには」
彼女の小さな肩が、遠ざかっていく。雪のように白い髪を揺らしながら。
それを見送るべきか。彼女は彼女の人生を選択した。彼女は戦う道を選び続けてきた。それがルーシさんの選ぶ人生なのだ。
でも……
彼女の肩に手を掛ける。
ルーシさんの、涙をためた瞳と目が合った。
「泣いているじゃないですか」
「な、泣かずにいられますか」
彼女の顔に近づけていく。
ルーシさんの柔らかな唇と、自分のそれを重ねた。
口の中が切れていたのだろう。少し、血の味がした。
「……プロセル様」
「ルーシさんが嫌じゃなければの話ですけど……俺と一緒に、俺の故郷に帰りませんか? 服も、飯も、少々田舎っぽいですけど。一緒に眠る墓くらいは用意されていますから」
ルーシさんは顔を赤らめて、わずかな微笑みを浮かべ、しかしすぐにまじめな顔に戻った。
「でも……今の私はただの庶民です。プロセル様のような方と、一緒になることなど許されません。ご迷惑をかけてしまいます」
「いいんですよ、俺も金遣いとか、いっぱい迷惑をかけますから。ルーシさんにお尻を叩いてもらわないと、プロセル家も破綻してしまいます」
冗談めかしてみるが、それでもルーシさんは素直に身を預けてはくれない。
「でも、でも……プロセル様に、頼るなど」
「いいじゃないですか、人に頼れば。田舎でのんびり暮らせばいい。ほらっ」
俺はためらいつづける彼女の腰に手を回し、ぐっと持ち上げた。
「プロセル様!?」
「まずは移動から頼ってもらいましょうか。列車で負った傷も、まだ癒えていないでしょう?」
彼女の、軽すぎる身体を持ち上げて、ゆっくりと歩き始める。
街に背を向けて、故郷へと歩き始める。
この街は、生きるには厳しすぎるのだ。あらゆる人が集まりながら、みな、自分が走るのにいっぱいいっぱいだ。どこまで行っても上は見えず、下に降りるのはとっても簡単。ベッドがふわふわで、服が華やかで、丘の上からは綺麗なお月様が見えるけど、すべて重くのしかかる、スモッグの下に沈んでいった。
ルーシさんが、腕の中で、ぐっと身を預けてくれる。色素の薄い瞳と目を合わせて、にこりと笑った。
帰ろう。父と母の眠る、墓の見える家へ。
彼女は笑わない方が可愛い @maro_novel
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