7.崩れていく彼女の人生
カチカチと、食器のあたる音が鳴る。
「お口にあいませんか?」
ルーシさんに問われ、我に返った。
いつの間にかぼうっとしていたらしい。スープがスプーンから垂れて、ズボンの上に点々と染みを作っていた。最悪だ。
「わっとと、タオル、タオル……」
「どうぞ、ハンカチです」
「あ、すいません」
彼女の差し出すハンカチを受け取ろうとする。それを取れば、彼女の手袋に隠された手が露わになった。
「……プロセル様、どうかなされたのですか」
動きを止めた俺に、ルーシさんは声をかけた。
「お洋服を買った時から、様子がおかしいです。何か私の格好に変な所がございましたか」
「いや、そんなことは」
「教えてください。私はいま、すごく楽しいのです。こんな素敵な服を着て、殿方とお食事をする日が来るとは、夢にも思いませんでした」
ルーシさんはとつとつと語った。
「プロセル様と過ごす時間は、私にとって得難いものでした。自由に笑うのも、自由に怒るのも、ずっと久しぶりで……好きな服を着るのは初めてでした」
ぐっと、瞳を見つめる。
「だから、少し寂しくて、悲しいのです。一体何があったのですか。今日という幸せな日を、プロセル様とすれ違ったままにして、終わらせたくないのです」
彼女の言葉が真摯であるからこそ、嬉しい気持ちを塗りつぶすように、どうして、という疑問が浮かび上がっていく。それは留まることなく、口から漏れ出し、空気を壊していく。
「テオドール卿と会ったのです」
その名前を聞いた途端に、ルーシさんは動きを止めた。
何かを言いかけて、とどめているのが分かった。
「……何を伺ったのですか」
その反応だけで、俺は彼女の婚約を半ば確信してしまう。
テオドール卿が彼女の不利益になる話を知っていることを、ルーシさんは分かっていた。それでも、その致命的な事実をまだ俺が聞いていないこと可能性にかけて、彼女は問うていた。それはあまりに無様な賭けだった。
俺はすべて、話していく。
「ルーシさんは、婚約していると聞きました」
彼女の顔が凍った。
「相手はベステック子爵とやらの息子だと。豚のような男だとかなんとか、テオドール卿はずいぶん散々に言っていました。そしてその証拠に、ルーシさんは婚約指輪を嵌めているとも」
彼女の左手をそっと取った。軽くて、繊細なその手にはめられた手袋に手をかける。
ルーシさんは諦めたように、目をつむった。
脱がしていく。丁寧に。手袋が外されていき、彼女の白い指が姿を表した。そしてその指につけられた、真っ赤なルビーの指輪。血のような色の石は、ルーシさんの身体にしがみついて、ギラギラとその存在を主張していた、
「どうして?」
短く聞く。
ルーシさんは涙を瞳にたたえる。しかし、彼女はそれをこぼさない。
「プロセル様も御覧になったでしょう? 一等車での扱いを。金が無ければ、最低限の尊厳も認められない。しかし金があっても、いつまでも立派な人としては扱われない」
現れたのは、闘志だった。
太陽の下で見せてくれた、少女らしい一面はなりを潜めていく。彼女の人格は後ろにとどめ置かれて、戦いにおもむく兵士のような、歪められた人格が露わになっていく。
「ご存じですか? プロセル様は貧しいものがどこに葬られるのか」
「……神の庭に埋葬されると思います」
「牧歌的ですね。この街では、貧民には眠る場所も与えられません。死者は解剖に回され、用が済めば墓石碑も建てられず、他の者と同じ穴に埋められ、身体の還る前に新たな死体が積まれていくのです」
ルーシさんはふと、どこか遠いところを見た。
「母の墓はありません。父は母の埋葬費を賄えなかった。帝都の外、墓地のどこかに埋められたと聞いています」
「でも、今は十分にお金があるじゃないですか。そんな、身体を売るような真似をしなくても!」
「いいえ。私も父も、立ち止まることはいたしません。私たちは私たちの望む未来のために、どんなことをしても前に進みます。……たとえ、私の身体とカネにしか興味のない男と結ばれようとも」
彼女の確固たる決意を前にして、一体何を言えようか。
存在するのは、埋めようのない断絶だった。田舎の地主の身分では、都会の貧民からなりあがったルーシさんに対して、何を言っても空虚に響いてしまうだろう。
それでも、俺は彼女を信じてしまう。
「でも、ルーシさんは別の未来だって選べるはずでしょう。ひたすら上を目指すだけが人生じゃない。競争から降りてもいいじゃないですか。今なら墓を建てるお金もあるでしょう。好きな服を買うことも、お腹いっぱいになるまで肉を食べることもできる。明日の飯も分からない所からここまで上り詰めて、まだ不満があるんですか」
「だからこそです」
ルーシの言葉は硬いままだった。
「最底辺の暮らしから来たからこそ、私たちは上を目指し続ける。競争にこれまで勝ってきたからこそ、止まることはできないのです。蹴落としてきた人々、路地裏の悪夢、より上を、上をという強迫……」
プロセル様も分かるでしょう、とルーシさんは言葉を紡ぐ。
「ここにプロセル様がいらっしゃるのはなぜですか? 一生食には困らない富があってもなお、わずかな土地を売り払うのにもためらいを覚えるのでしょう?」
当たり前のことです。彼女は語る。誰もががむしゃらに競争を生きる。親から莫大な財産を継いだものは、親を超えてやらんとする。ロースクールを卒業した秀才も、この程度では足りぬと嘆き、さらなる名声を求めて巨大な事務所へと入っていく。八百屋から身を起こした百貨店、公務員の末席に滑り込んだ幸運な者、絶世の美女と結婚した男。あらゆる人、存在が、何かを手に入れれば入れるほどに渇いていく。
「止まることなどできません。私たちは、進むしかない」
「だから、結婚するのですか?」
ルーシさんはわずかな沈黙の後に、頷いた。
「ええ」
私は私の身体をも資本にして、生きるのです。
その言葉を聞いて、悟った。
彼女と共に生きることはできない。彼女がそれを選ぶのであれば。
「お食事、ありがとうございました。とてもおいしかったです」
「プロセル様……」
まだ料理は残っていたが、これ以上食べる気にはどうしてもなれなかった。
ルーシさんはわずかに顔を伏せた。
「土地の件ですが、売却には同意しますよ。社長とはまだ会えていませんが、まあ、これはルーシさんへの餞別ということで。きっと悪用はしないだろうと、信じていますから」
「……ありがとうございます」
「契約は明日にでもいたしましょう。迎えにくる時間だけ教えてください」
言葉少なに明日の時間を決めた。
荷物をまとめて、席を立つ。
「それじゃ、今日はありがとうございました。楽しかったです」
「ええ、私も。楽しい日でした」
ガス灯の明かりはスモッグに隠れ、わずかに足元を照らすだけだ。
小さな失恋の旅だ。大したことはない。
自分に言い聞かせながら、ホテルにもどった。
翌日。
大きなガラス窓からさしこむ日の光で、目を覚ました。
人間というのは奇妙なもので、少し寝れば、勝手に精神は落ち着いていくものだ。
往々にして、それは心が嫌がるようで、眠るのが難しくなるのだが。一泊でいくらかかるのか、想像もつかないホテルのベッドは、否応なしにあたたかな睡眠の世界へ引きずり込んでくれていた。
「あー。はあ」
意味もなく声を出してみる。何となく今日は丁寧に身支度を整えてみる。髪に櫛を通し、靴を軽く磨き、時間を確認する。
彼女との約束まで、まだ時間がある。
やることも無い。本を読んでも、文字は滑っていくばかりだった。
「お客様、よくお眠りになれましたか? 当ホテルに問題があれば、なんなりとお申し付けください」
エントランスを出ようとすると、ホテルマンに声を掛けられた。
ベッドをどこで買ったのかだけ質問して、外に出た。個室というのは、居心地のいい空間ではあるのだが、いかんせん外と隔絶されすぎる。最悪の気分の時は、何も用がなかったとしても道へ出るのが一番だ。あらゆる人が、自分のあずかり知らぬところで目的を持ち、道を歩いていく。自分とは全く関係のない人々の存在を確認すると、初めて、自分はこの広い世界の一部として存在していることを思い出せる。赤の他人がいるからこそ、俺は一人ではないのだ。
ただ、道ゆく人々の雰囲気は、昨日に比べると妙な興奮状態にあるようだった。帝都で祭りか何かが開かれているのかもしれない。若干の違和感を覚えながら、軽い朝食を外でとり、再びホテルに戻った。
そろそろ約束の時間のはずだが、彼女も、あるいは使者もいないようだった。
時間に厳しい彼女にしては、珍しいことだ。
少し不思議に思いながら、部屋に帰る。
結局、日がな一日待ち続け、日が傾き始めてから俺は再び部屋を出ることにした。
「すいません、俺のところに客人は来ていませんか。今日、待ち合せているはずだったんですけど」
まずはホテルマンに聞くと、すぐに首を振られた。
「とくにそういった方はいらっしゃっていないようですが……失敬、ちなみにご客人のお名前を伺っても?」
「ルーシ・アドハンティアです。本人が来るとも限らないんですけども」
「ルーシ様ですか。……ん、いま、アドハンティアとおっしゃいましたか?」
ホテルマンは、何かが引っかかったようだった。
まあ、彼女の悪名はそれなりに有名らしい。特に違和感なく頷く。
「そうですけども、何かありましたか?」
「『アドハンティア』がアドハンティア鉄道のご家族を指していらっしゃるのであれば……」
ホテルマンはゆっくりと口を開いた。
「号外! 号外だよ~!」
新聞売りの少年が元気な声を挙げる。
夕方まで新聞が売れ続けているのだ。少年にとっては嬉しいことだろう。
「君、一つくれないかな。いくらだい?」
「2レブラだよ」
少年の手に5レブラ札を握らせて、奪うように新聞を取る。
紙をめくる必要もなかった。
『アドハンティア鉄道 巨額債務疑惑』
『総額400億レブラ 社長は否認』
『ハイラット商会「事実なら融資引き上げ」』
ご丁寧に、太く黒く書かれた見出したちは、内容を押し付けるようにして伝えてくる。おどろおどろしい文字は一様に『アドハンティア』の名を連ね、その下に債務、詐欺、失踪と、思いつく限りの悪行を繋げていた。
しばし新聞を握ったまま、立ち尽くしてしまう。
これは、どう受け止めればいいのだろう。見出しはむやみに、とんでもないことが起きている予感ばかりを煽っていく。しかし心臓がドキドキと身体のうちから脈動を伝えるばかりで、新聞の中の出来事と自分とが、どうにも結びつかなかった。
土地の売却はどうなるのか。今日誰もホテルに訪れなかったということは、とても忙しいのだろう。折を見て、一度会社に伺う必要があるだろう。えっと……
ルーシさんはどうなっているんだ?
「は、はっきりしろよ俺! 土地はどうでもいいんだ。そうだ、ルーシさんは……」
新聞の上から下まで、舐めるようにして記事を追った。しかし、『ルーシ』の名は出てこない。
ひとまずは胸をなでおろすべきか。逮捕だとか、そういうことが起きているのなら、少しは触れられるはず。
しかし、あくまで一時的なことだろう。記事に書かれていることが本当であれば、彼女は再び、彼女の抜け出してきた所へ転落するのは確かだ。すべてを武器にして戦い続けていた彼女が。
彼女と俺のつながりなど、ほとんど無い。わずかな心の繋がりは、昨日の食事でちぎられてしまった。情報が整理されるまで、ホテルで大人しくしているのが正しいのかもしれない。あるいはこうなってしまっては、土地の売却など検討される余地もないだろう。家に帰るのが最も合理的な行動かもしれない。自分がここにいても、やれることもやるべきことも無いのだ。
しかしそれでも……彼女が不安だった。ルーシさんの行く先が。
俺はホテルに背を向けて、日の暮れ始めた帝都へ走り出す。
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