6.彼女のウソ
買い物はそのあとも穏やかに続いた。
結局、ルーシさんの服が決まったのはさらに一時間以上経ってからだった。
ルーシさんは着付けのために店の奥に引っ込んだ。支払いを済ませ、暗くなり始めた店の外に出る。ぼんやりと佇んでいると、ふう、と幸せなため息が漏れた。
この街区は人通りが多い。だから初め、コツコツと石畳を革靴が叩く音が聞こえてきても、それが自分に向かって歩いてくる音だとは思わなかった。
「うん? これはこれは、昨日ぶりじゃないか。プロセルといったか。売女にほだされた男だ」
三度目の対面だった。初めは、カフェの前。二回目は、列車で。そしてまた、服屋の前で男に会ってしまった。三度目にして、すでに自分の中では嫌な相手として認知されていた。
「テオドール卿……」
「そう嫌な顔をしないでくれたまえよ。私はあの女は好かないが、君に対してはおおむね好意的に接してきたつもりだ」
違うかね? と肩をすくめ、テオドールは悠然とパイプをくわえた。
確かに敵意は感じない。しかし彼女を悪く言う人物に心を許す気にはなれなかった。
「いったい何をしにここに?」
「妻の付き添いだよ。店に入ると日が沈むまで出てこないからな。パイプを吸うしかやることがない。君の方こそ、どうして。帝都観光が服飾街区とは、いささか選択が渋いだろう」
「ルーシさんと来ているんです。彼女に、もう少し角の立たない服を買おうと思いましてね」
その名前を聞いたとたんに、テオドールは眉をひそめ、大げさに息を吐き出した。灰の煙が空にかすんで消えるのを確認してから、テオドールはあたりを見回した。
「女はどこに?」
「着付け中です」
「しばらくはかかりそうだな。はあ、私は再三に渡って忠告したはずだぞ。何も君の気分を悪くするために悪口を言っているわけではないんだ。分かってはくれないのかね」
「テオドール卿は彼女を誤解しています。あなたは、彼女を服装だけで判断している。たしかに服は少々過激なものを着ていますが……」
テオドールは目をすがめて聞いたのちに、かわいそうなものでも見たように、首を振った。
「残念ながら、私は服で人を判断しているのではないのだよ。アドハンティア親子の悪評はよく聞いている」
「悪評なんて、そんなの人の噂でしょう」
「一理あるな。だが、君がここに立っているということ自体が、私には彼女の人間性を表しているように思えるがね」
俺がここにいるから、ルーシさんは売女。
確かに、そう見えるのも致し方ないだろう。列車で意気投合して次の日にデートというのは、貞淑な女性としてふさわしい行動とは言えないだろう。生き残るために必死で、ルーシさんは営業のためなら肌を見せることだってためらわない。
それでも、彼女は悪い人ではないのだ。彼女は金にうるさくて、せっかちで、少し怒りっぽくて、服に興味津々な女の子なのだ。ルーシさんに金遣いを怒られたり、あるいは服の方向性の違いで喧嘩したり、そんな時間が俺の気持ちにもたらした効用は、誰にも否定できないのだ。
列車では、彼女が売女と呼ばれるだけの人間なのか、確かめようとしてしまった。しかし今の俺はもう、テオドールの言葉では揺るがない。揺るがないと思っていたのに。
「しかし……はあ。しかしね、彼女は婚約しているぞ」
テオドールは言った。少し迷ったように、どういえば目の前の若者を傷つけずに済むか、言葉をいくつか選んだ後にテオドールは伝えた。
彼女は婚約していると。
「こ、婚約……?」
よく、意味が分からない。俺が今日楽しく遊んでいた彼女は、すでに誰かと生涯を共にする契約を結んでいるという。
頭の中で、ぐるぐると言葉が渦巻いた。婚約という言葉の意味は理解しても、それを心が受け付けなかった。戦い続ける彼女が、誰か男と婚約している? いや、今日、こうして楽しく遊んだルーシさんに、すでに相手が存在していた? まさか。
「いやいや、ははは。テオドール卿、俺は怒るときは怒りますよ」
「私は嘘を言わない。相手はベステック子爵の倅だ。噂くらいは聞いたことがあるかね? とんでもないドラ息子でな、馬も乗れなければ金銭感覚もない。首の上には何も詰まっていないのに、身体だけは樽のようにぶよぶよと膨らんだ、不格好な男だよ」
「なら、ルーシさんがそんな人と結婚するはずがない」
「だからこそだ。ベステック家はもう終わりだと言われていたが、子爵め、とんでもない隠し玉を持ってきおった。アドハンティア親子がいればカネだけは尽きないだろうな」
下品なことだとテオドールは嘆いて見せるが、そんなのはどうでもよかった。
ルーシさんが、その豚のような男と結婚する?
「ありえませんよ。ありえない。ルーシさんは気が強いんです、どうしてそんな男にくっつくはずがありますか」
「同情はするがね。冷静になりたまえよ。潰れかけた貴族と金しかない成金が組みたがるのは、そうおかしな話ではないだろう。私はあの女の気が強いのかどうかは知らない。だがね、やつが金のためならなんでもする女であることくらいは分かる。貴族が後ろに付けば、成金だなんだと声高に批判されることも少なくなるだろうな。よくある話だ」
ありえる。熱し切った頭に、冷たい風が吹いた。混乱は頭を乱雑にするのであれば、納得は頭を整理していく。ルーシさんなら、人生を成功させるために、豚のような貴族と結婚することもありえるのかもしれない。
そう思うと、それだけ一層、感情が身を焦がしていった。そんなことはあってはならない。
「ありえません。帰ってください。ルーシさんも出てきます。お会いしたくはないのでしょう?」
「そうさせてもらおう。君とこれ以上話していても、有益なことはなさそうだ……同情するよ」
「そういうのは、もういいですから」
「確かめたければ、彼女の指を確認するといい。手袋で隠しているが、薬指には悪趣味な指輪がはまっているはずだ」
テオドールは去っていく。
指輪の有無を見れば、結論がでる。テオドールはお節介のつもりでよこしたアドバイスなのかもしれない。余計な選択肢を与えてくれた。いや、すべての情報が余計だ。
彼女を疑い、指輪を確認するのか? まさか。どうしてこそこそ行動する必要があるだろう。彼女に軽く聞いてしまえばいい。婚約者がいるんですか、と。いいえと言われればすべて終わりだ。手袋を脱がせる必要などない。
「プロセル様、お待たせいたしました」
後ろから、弾んだ声が聞こえた。振り返るまでもない。ルーシさんだ。
服装は様変わりしていた。シャツは首元までしっかりボタンで留められ、エレガントなフリルに彩られている。腰はコルセットできゅっと絞られ、落ち着いた色味のスカートが広がていた。その陰からは、茶色いブーツが顔を覗かせている。
ゆったりとした、品のいい服を身に着けた彼女は、どこかの深窓の御令嬢のような雰囲気を漂わせていた。色素の薄い瞳は儚いばかりであったが、その口からは辛口のコメントが飛び出すことを俺は知っている。俺の推した個性派の服は、すべて金の無駄だとか、服飾への冒涜だとかで却下されてしまったからだ。
「お金を払っていただいたようですね、申し訳ありません」
「いえいえ、今回は俺が誘ったデートなんですから、大丈夫ですよ」
「まさか、私の服なのですから、私が支払います。いくらでしたか?」
ルーシさんは強硬に主張して、財布からお金を取り出そうとする。この引っ張り合いもずっと好ましいものだったのに。
俺の目には、彼女が着替えてもなお身に着けている、白い手袋ばかりが映っていた。
「いいですから。俺が払うのでは、何か問題があるんですか?」
「い、いえ問題はないのですが……」
ルーシさんのひるんだような声で、俺は自分の語気が荒くなっていたことに気付いた。
何で気が立っているんだ。手袋くらい、誰だって着けるだろう。
「そ、そういえば、そろそろお夕食の時間にいたしませんか。プロセル様のご宿泊されているホテルの近くで、席を押さえてあるのです」
「夕飯……そうですね、いいと思います」
ルーシさんは話題を変えようと、ことさらに明るい声を出した。
「帝都で流行っている、異国の料理のお店です。香辛料の効いた独特の風味が話題になっているのです。きっとプロセル様もお気に召しますよ」
「ああ、とてもおいしそうですね。楽しみです」
ルーシさんは笑顔を作り、お店で出てくる料理について解説していく。
一度だけ食べたことがあるのだが、一口目は面食らってしまったとか。全く別の土地のワインと大層味があい、ちょっとした神秘を感じたとか。
楽しい雰囲気を作ろうとするルーシさんを見るほどに、落ち込んでいく。どうしても、その笑顔が営業用のものに見えてしまった。
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