■ 389 ■ 終局の王子
「ご報告致します。
「……そうか」
副棟領ガエルの報告を受けて、オレガリオ・サンチェス・セレンは老いた身体をソファに預けて深く沈み込ませた。
いずれこういう日が来るかもしれないと想定してから、随分と月日が流れた。マフィアにしては随分と長く生きられたものだ。
「私は幸せ者だな。自分の死を受け止めながら死んでいくことができる。ホセと違ってな」
「ホセ様は――残念でいらっしゃいました」
ホセ。ホセ・サンチェス・セレン。
本来オレガリオの後を継いでサンチェスファミリーを引っ張っていく筈だった息子は、他でもないオレガリオ自身がかつてその手で始末したのだ。
――いいか、黙ってりゃドンの椅子が手に入ると思うな。才能がなきゃ後は継がせられねぇんだ。
そう言ってオレガリオはホセが無能な後継者に陥らぬよう釘を刺し、発破をかけて成長を促した。
オレガリオからすれば息子を鍛えるための口癖だったが、ホセからすれば父の言葉は全く逆の意味としか捉えられなかった。
即ち、
「お前は才能が無いから後継者に据えるつもりはない」
常々、そう宣言されているように感じていたのだ。
自分がそう感じていると父親に一切覚らせなかったのが、或いはホセの才能であったのかもしれない。
父親に唯々諾々と従っていると見せかけて、ホセが実力でドンの椅子を取りに行こうとしているとオレガリオが知った時には、もう全てが手遅れだった。
ホセがユーニウス侯爵家を失墜させるために他領の貴族家の力を借りて、ユーニウス侯爵家と癒着するオレガリオを暗殺せんと企んでいる。
あらゆる情報がその推察を事実と裏付けてしまえばもう、オレガリオは反逆者ホセを始末する以外に、サンチェスファミリーを守る手を持てなかったのだ。
あまりにもホセは浅はかだった。レウカディアはユーニウス侯爵領の都市であり、そこから移動できないというのに。レウカディアに根を張るサンチェスファミリーのために、オレガリオを打倒した後まで他領の貴族が協力してくれるはずがない。
そもそもがユーニウス侯爵家とサンチェスファミリーを敵対させ、双方の力を削ぐのが目的なのだから。
他領の貴族がユーニウス侯爵家のお膝元でいったいどれだけのことができるというのか。
仮に全力で支援をしてくれたとて、全力の支援を受けてサンチェスファミリーはユーニウス侯爵家と敵対させられるのだ。ホセをこのまま放置すれば、サンチェスファミリーの衰退と壊滅はもはや疑いなかった。だから――
「
氾濫を未然に防がれ、自らの手で仕留める前に「何故こんな事をしたのか」と問うたオレガリオへの返答がそれだった。
ホセの成長を思って甘やかさなかった己の判断が間違っていたと、オレガリオはようやくその時になって理解したのだ。
「息子を殺してまで守ったファミリーだ、やり遂げろよ
オレガリオは息子と腹を割って話をすべきだったのだ。分かって貰えると勝手に期待して厳しく指導したオレガリオが愚かだったのだ。
だから、息子の最後の言葉ぐらいは違えないように、と懸命にファミリーを維持してきた。ファミリーを維持することが目的になった。
そうして、気が付いたらオレガリオの地位は盤石になっていて――オレガリオに続くナンバーツーに値する者は誰一人としていなくなっていた。
それに気付いて後継者を育てようとしても、無数のナンバースリーたちがナンバーツー候補の足を引っ張り、その地位を妨害する。
オレガリオの言う事は絶対であるが故に、オレガリオが命じればナンバースリーたちは黙るだろう。だがそれはナンバーツーに抜擢された元ナンバースリーを認めることと同義ではない。
だからオレガリオが後継者と定めたナンバーツーに、オレガリオの死後必ずナンバースリーたちは反逆するだろう。
故にサンチェスファミリーの崩壊は必然であり、予想との違いがあるとすれば、それが早かったか遅かったかの違いでしかない。
だから強い不満はない。だが強い疑念はある。
「もうすぐ俺の仲間たちがここへやってくるだろう」
どうやってリストランテ『パン・セレビジア』の貴賓室に入って来られたのか。
いつの間にかそこにいた黒い仮面の男にそう声をかけられて、純粋にオレガリオはくっとワインを呷った後に、
「なぁ、ゴーストライター。なぜお前はこのサンチェスファミリーを滅ぼす筋書きを書き上げたんだ?」
そう、末期の水を求めるかのように尋ねてみた。
この男が背後にいたからオクレーシアが成り上がれたのだ、というのはもう分かりきっている。
だが、何故それが必要だったのか、それだけが謎に包まれている。ドンの椅子をオレガリオからオクレーシアに譲ったあとに求める未来が、何一つオレガリオには見えてこないのだ。
魔術師としては非凡なオクレーシアだが、マフィアとしての才能が優れているとはどうしても見えないが故に。
「……明日、世界中の魔術師の九割が死滅する、と伝えられて昨日と違う今日を送れるか否か、だ。サンチェスファミリーにはそれが出来ん」
それが本当の理由かはさておき、仮面の男の言葉そのものには「そうだな」とオレガリオ・サンチェス・セレンは静かに頷いた。自分には確かにそれはできない。
まずそんなことは起こるはずがない、とオレガリオは冷静な、或いは硬直した思考を紡ぎ、男の言ったような話など鵜呑みにしないだろう。
「悪いな、オレガリオ。誰にも予想が出来ない酷い未来を生き延びるためには、お前じゃダメだったのさ」
そんな言葉と共に仮面が外され、そこに隠されていた素顔を目にしたオレガリオは――思わず呼吸を止めてその顔を見やってしまった。
カヒュ、と声にならない声が零れ、それが示す意味を黒仮面は過不足なく理解したのだろう。一度目を瞠った後、一本立てた人差し指を口に当ててから再び仮面でその素顔を隠した。
オクレーシアが迫っているであろう、己が生ある貴重なひととき。それを呼吸を整え、納得するためだけに消費したオレガリオが、ゆっくりと口を開く。
「そうか、そういうことか……確かに貴方には『硬直した既得権益に報復する』権利がお有りだ。だが、なぜ
「先の問いに答えた対価として、此方からも一つ聞きたい。何故お前にはそれを確信できる?」
そう再び仮面を被った男に問われ、オレガリオの心は過去へと飛んだ。
「環境を手配したのが私だからです。貴方の父親と母親が逢瀬する時と場所を整えたのが――貴方は御父上によく似ていらっしゃる。そして母親の面影も」
そうオレガリオが返すと、仮面の男の方が今度はオレガリオに次いで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。
「そうか……よく考えたら俺にも母親がいるんだよな」
それは驚くほどに長閑、というか想像もしなかった事実に直面した無垢なる少年ような声だったので、
「木の股から生まれたとでもお考えでしたか?」
「いや……卵から産まれたかとはおもったことはあるが……」
己へ返された素朴な声に、少しだけオレガリオは笑ってしまった。
「当然母親はいらっしゃいます。ですがこの先は何も言えません。誰にも漏らさぬ、との約束ですので」
「ああ、そりゃそうだよな、分かるよ。死ぬまで義理を果たせオレガリオ、偉大なるドンにはそれが相応しい」
この問答が成立している辺りからして、オレガリオは己の予想が全て真であることが分かってしまう。
――髪や瞳の色も、年齢すらも合わないが……間違いなくこの方は
「とてもリュキア貴族に頼める話ではない」と
理不尽だとは、オレガリオは思わなかった。むしろ当然だとさえ思った。
そも、産婆すら用意できぬ秘匿された環境で、この世に生まれ落ちた赤子を世に送り出すまで守っていたのは他でもない、このオレガリオ・サンチェス・セレンその人であるのだから。
今でも思い出せる。産声を上げる赤子をあやさんと、分かるはずもないだろうに作り笑いを浮かべて見せた、あの時の自分の思い返せば返すほどに恥ずかしくなる情けない振る舞いを。
――この方は古き血、古き伝統が支配するリュキアに一石を投じるために、この世に生を受けて――再び私の元に戻ってきたのか。
だから、オレガリオが死出の道行を阻害する障害の全ては失われてしまった。
全ては必然だったのだ。
その為になら、このサンチェスファミリーの崩壊も納得することが出来る。一切抵抗なく受け入れられるかは別の話として、だが。
「ガエル」
「はい、ドン」
「以後、この男の要求には可能な限り従ってくれないか。それはお前にとって生き恥、と謗られる人生になるかもしれないが」
そうドンに命じられた副頭領ガエルは驚愕し、狼狽し、躊躇った後、静かに頷いた。
オレガリオと仮面の男の間に成立している会話を、副頭領ガエルは全く理解できていない。オレガリオはその至尊より命じられた秘密を他人には、股肱たるガエルにすら明かしてはいなかったからだ。
故にガエルには何が何だか理解は全く出来ていないのだが、己が敬愛したドンの遺言だ。無下には出来ないだろう。
「……まだ、心残りはあるか? ドン・オレガリオ」
仮面の男にそう尋ねられ、オレガリオは小さく首を横に振った。
「なぜ貴方が『そう』なのかは気になりますが、些末事ですので。ご健闘をお祈りしております。このリュキアにおいて最も尊く、しかし最も忌むべき御方」
スッとオレガリオの身体から力が抜けた。
自分は己の生涯を生ききった、と誰よりもオレガリオ自身が理解したのだ。
「では、さらばだドン・オレガリオ。長らくリュキア貴族に代わりこのレウカディアの繁栄を支えてくれたこと、リュキア王家に代わって御礼申し上げる」
「一介のマフィアたるこの身には勿体なきお言葉にございます」
ポン、と労うように仮面の男がオレガリオの肩を叩いて、そのままオレガリオを置いて歩み去る。仮面の男が振り向かなくてよかった、とオレガリオは心底思った。
今この場に残っているのはまるで我が子に労をねぎらわれ、心残りなど何一つなくなったかのような、己が死を受け入れた小さな一人の老人でしかなかったからだ。
そうして、仮面の男が夢幻かなにかのように消え去ってからしばらくの後、
「ドン・オレガリオですね」
「いかにも。成り上がり風情が土足で絨毯を汚しおって。ドレスコートも無視とは実に嘆かわしい事よ」
魔術師二人を率いて威風堂々とやってきたオクレーシアを、オレガリオもまた堂々たるドンの態度を纏い直して歓待する。
――人生とはまこと、不思議なものだな。何が何処で繋がるか予測も付かぬ。
内心で笑いながら、外見は頂点たるドンとしてオレガリオはオクレーシアへと相対する。
全てを受け入れる覚悟は既に出来ている。
――息子を殺してまで守ったファミリーを捨てるのかよ、
今際に息子の幻影がそう問うてくるが、オレガリオは些かも動じることなくその問いに答えることができる。
――鉄風雷火の時代に耐えられるだけの力がなかった。それだけの話さ、俺も、お前もな。息子よ。
嵐が来るのだ、このリュキア王国に。
あの終局の王子が嵐を起こすために、このレウカディアへと帰ってきたのだ。
これから吹き荒れる嵐にいったい、どれだけの者が耐えられるのか。
一足先にオレガリオは己が道行きを歩み終え、冥府の底からただ生き延びた者たちを心安らかにゆっくりと観察するのみだ。
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