■ 369 ■ 救われたのはどちらなのだろう






 そうして調度品を退かし、隠された入口から地下室へと侵入したダリルとディアナは、


「……凄い匂いだな」

「見た目に清掃はしてあるのにこれとか、目眩がします」


 その地下室に籠もった空気に圧倒される。

 鼻を突く刺激臭。薬と、体臭と、糞尿とを混ぜ合わせたそれを幾度となく継ぎ足したような匂い。人の住処にはあり得ない匂い。


「地下牢、ですね」

「ああ。だが――割と無人だな」


 ダリルの呟きにディアナはつつっと、鉄格子の隙間から指を入れて床の埃を確かめる。

 埃は――ほとんどない。という事はずっとこの牢屋は無人だったわけではなく、つい先日ぐらいに無人になったのだ。

 と、


「空気が震えてる――防音のアミュレットだ」

「防音?」

「ええ。療養所で見ました。音というのは空気の揺れで伝わるんですけど、アミュレットはそこから音だけ消し去るんで、揺れた空気だけが伝わるんですよ」


 と、いうことは。

 さっきから物音一つしないこの地下室では誰かが音を発しているというわけで、


「急ごう」

「はい。エーやお兄ちゃんが待ってますし」


 仮面を見合わせてディアナとダリルは両側に並ぶ牢を一つ一つ覗きながら奥を目指せば、


「う……」


 その途中でようやく、ダリルは音の発信源を目の当たりにして、その壮絶な現場に息を呑んだ。

 濃紺の髪の女の子が、鉄の拘束具で両手両足を老の石壁に固定されている。

 年ごろは、恐らく六歳か七歳ぐらいだろう。そんな年端もいかぬ子が獣のような形相で、ダリルとディアナに対して何かを訴えているが――声を聞くまでもなくそれは声にすらなっていないだろう、とダリルにも分かってしまう。


 元貴族だったダリルには刺激の強い光景だろうが――ディアナからすれば見慣れた光景にちょっと過激さが盛られた、日常の延長に過ぎない。

 自分たちも、こうだったのだ。それをリクスに救われて人間に戻してもらったのだから。


「人間性を失った獣を、軽蔑しますか?」


 だからそうディアナは静かに問い、そしてここに侵入する前、リクスに散々重ねて言われていた事実をダリルは思い出す。



――いいか、麻薬は人から人間性を剥奪するが――貴族も庶民も関係なく、人間性を失った者は獣になるんだ。一人の例外も無くな。



 獣か、とその時はダリルは頷くだけだったが、こうやって目にしてみれば嫌でもよく分かった。そして、その後にリクスが重ねた言葉も。



――だが勘違いするなダリル・アッカーソン。その剥奪された人間性こそが本来評価に値するモノであり、残された獣性は全ての生命に共通する本能に過ぎないのだ、と。



 人として積み重ねた、人であらんとする心。それをこそ人は評価すべきであり、薬によって引き剥がされ、唯一残った獣性を見て「これが人の性根、本性だ」と決めつけることは絶対に許されない、と。

 だから、ある意味他人の姿を最初に目にできたのはダリルにとって幸運で、


「いいや――ありがとう。君たちが違いなかったら、私は絶対に妹を救えなかっただろう」


 だから、その二つ先の牢に繋がれた獣を前にして、ダリルは単純にその生あるを喜ぶ事ができた。

 ディアナが錠を切り落とした鉄格子を開いて中に入れば、


「すまない、ダリア。来るのが遅くなった」


 痩せこけ、瞳も落ちくぼんだ少女を抱きしめ、しかしそれが己の首筋に噛み付いて、噛み千切ってきてもダリルは冷静でいられる。


「今更何しに来たんだよ、私たちを捨てて一人貴族として生きてたくせに……!」

「……すまない。お前も他の貴族家に引き取られたって、そんな言葉をおろかにも信じて締っている間に――」


 そう、ダリルがそうやって無駄に貴族として生きていた間に、ダリアはこうなってしまった。

 腕は枯れ枝のようで、それでいて手首と背中は自ら暴れたせいで血に染まっていて。

 床には血と便が入り交じって乾いた茶黒い染みだらけの、犬小屋よりも酷い場所で、こうやって死にかけている。


「今でも綺麗な格好だね、兄貴は。私はこうして糞便塗れの薬漬けだってのにさぁ?」

「……すまない。可能な限り急いだ、なんて何の言い訳にもならないよな……すまない、ダリア……」


 凄惨な腕と、背中の傷を前にして、血と小便の混ざり合った生乾きの床に膝を付くダリルは、それでもダリアから手を離せない。離すわけにはいかないのだ。

 この手を離した瞬間に、二度と妹を救う事はできなくなるとダリルは分かっているから、だからそっと、ダリアの背中に手を回して、


「だから、せめてお前をここから救わせてくれ。俺にお前を救わせてくれ。一緒に来てくれ、一緒に生きてくれ、ダリア……頼むよ、頼む」


 抱きしめて許しを請う事しかできない。

 そうして己の垢と血まみれの服に顔を埋めて嗚咽する兄を前に、


「ならとっとと立ってよ。ここから出してくれるんでしょ」


 そう静かに笑ってみせたダリアを、ディアナは強い子だと思った。

 ディアナは恐らくダリルのためでもなく、自分のためでもなく、ダリルをここに送り込み、今グラナを足止めしている誰かのために「ダリルに救われてやる」事を選べたのだから。


 ディアナが聖霊銀剣ミスリルブレードを振るって四肢を拘束する枷を斬り捨てると、


「ダリア、ダリア……一日だってお前を忘れた日はなかった。生きていてくれてありがとう。俺に、お前を救わせてくれてありがとう」

「ああそう、お望みならこれから散々罵ってやるわよ。それより子ゴキさん、お願いがあるんだけど」

「舎弟も連れていけばいいのですね?」

「……理解が早いね」

「私も裏路地出身ですので。二人ですか」

「そう、サリタとコルナ。頼むよ、助けてあげて」


 仮面の奥で笑ったディアナが即座にダリアの牢を脱出し、隣と、その隣にいた青緑の髪の少女と、濃紺の髪の少女に問答無用で頭蓋に魔力を流し込み、昏倒させて両肩に担ぐ。


「さあ、こんなところに長居は無用です。急ぎますよダリルさん」

「ああ。すまないダリア、すこし雑に揺らすが我慢してくれ」

「ん……」


 まだ祈る神もおらず身体強化が拙いダリルでも、抱き上げたダリアはあまりに軽くて――それがダリルの膝を情けなくも揺るがし、しかし――


「……助けに来てくれてありがとう、兄さん」


 そう、小さな声で告げられて、ダリルの膝の震えはピタリと止まった。



――情けないクズめ。お前が妹に助けられてるんじゃないか。何が助けに来ただ。



 そうとも、これ以上情けない姿は見せられない。散々苦しんだダリアにとって、ダリルは怒りと憎しみをぶつけられる的でなくてはならないのに。

 それが、何をお前は許されているんだ、と。


 だからダリルはダリアを強く抱きしめてディアナの後を追う。

 ただ、


「情けないな。男だろ、泣くなよ兄さん」


 そうダリアに笑われても、この両目から溢れる涙だけは――どうやっても留めようがないのだ。






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