■ 355 ■ 反応の温度差
リクスが己の船室へと戻れば、エーメリーは健気にも剣槍を手に万が一に備えて弟妹たちを守ってくれていたようだった。
「……エーメリー」
「はい、御兄様」
三段ベッドの下、リクスの寝床に腰を下ろしたエーメリーだが、羞恥や屈辱よりもむしろリクスに嫌われること、見限られることを恐れているようにも見えて――リクスは何と言っていいか分からなくなってしまう。
黙ってエーメリーの隣に腰を下ろし、しばしリクスは言葉を探す。
「俺の言葉が足らないせいで、君に辛い思いをさせてすまなかった。だが、もうこんなことを俺に黙ってやらないでくれ。俺に迷惑をかけてくれ」
「ですが、御兄様――御兄様に私たちは助けられてばかりで――何でもいいから、御兄様の力になりたくて……!」
ギュッと膝の上にある剣槍を握りしめたエーメリーが、ぽろぽろと涙を流しながらそう訴えてくる。
貴族の男にフェルナンの粗暴について難癖を付けられ、これをリクスに秘密裏に収めようとして、要求を受け入れ皆の食事に一服盛って。
それがあっさり露見した挙句、もっとも見られたくない姿を見られて、さらに情けなくもリクスに助けられたエーメリーの内心は――リクスにはよく分かってしまった。
それはリクスがクィスであった頃に、ラジィに対して何度も抱いた感情だったからだ。
助けたいと願い、助力たらんと願い、結局は力及ばず助けたかった者に逆に助けられる。そんな挫折を繰り返したクィスはだから、リクスとして今ここにいるのだ。
今更こんなところでラジィの思考を追体験することになるとは、運命というのも随分と酷なものだろう。
この徹底的な噛み合わなさを、どうすれば噛み合わせることができるのかは――だが、天使じゃないからこそある程度リクスには推察できた。
「頼ってくれていい。押しつけてくれていいんだ。さもなければ俺は十三歳の女の子にすら頼りにならないと思われているのかって、情けなさで憤死してしまいそうになる」
「! 御兄様を頼りにしていないわけでは――」
その先は分かるから、人差し指でリクスはエーメリーの唇を塞ぐ。
「分かってる。これは俺の我儘、或いは弱さなんだよ。目に見える形で頼られないと不安になるんだ。情けないだろ? 自信がないんだ。幾人もの【
そんなリクスの言葉は、【
リクスは決して、【
それこそエーメリーらがリクスに及ばないと、納得と共に口惜しさを抱いている程度には。
「分かるだろ? 俺も君と同じなんだエリー。目に見える形で頼りにして貰えないと不安になる
「……御兄様も、そうなのですか? 私だけでなく」
「当然だ。俺はこれまでの人生で何も成せなかったから今ここにいる負け犬なんだから」
そう零したリクスの言葉は嘘偽りない己の本心だ。
誰もが一度しかない人生を送っている中で、リクスだけがやり直すことを許された。ティナが神になってくれたから、やり直すことを許された。
そういう意味ではリクスは未来を知っているというゲタを履いて、他者より優遇されたスタートを切っている、ただの卑怯者でしかない。
「あとこの件でフェルナンを責めないでやってくれ。あの手の連中は何でもいいから難癖をつけたかっただけで、フェルナンは所詮ただの口実だ。奴らにとって口実はシータでもイーリスでも誰でも良かったんだからね」
口実を与えたという意味ではフェルナンは迂闊だ、と上から目線で言うことはできる。だがそれはあまりに酷というものだ。
貴族の令嬢令息ならさておき、所詮十にも満たない元孤児に、他人から一切文句を付けられない行動をとれ、というのはそもそも無理な話だ。
というか、普通に生活しているだけでも人は他者にいくらでも難癖を付けられる。
そもそも奴らは自分たちで言っていたように、ただ退屈しのぎの玩具が欲しかっただけなのだから。
「分かりました。弟妹を責めるようなことは誓って致しません」
「うん、エーメリーは理解が早くて助かる。だからこういうことも二度とやらないと、ここで約束してくれるよね?」
「俺の知らないところでお前たちが泣いているなんて最悪だ」とリクスが片手でエーメリーの腰を抱き寄せると、
「頼ってしまっても、宜しいのですか……? 甘えてしまっても……」
「もちろんだ。その分俺もエーメリーに頼る。あれをしてくれ、これをしてくれってな。夜番の取り決めだって丸投げしたろ?」
結局は、会話が足りないのだ。リクスはそれを痛感してしまった。
教育内容に関してはいくらでも話も指導もしているが――互いの内面を交換するような会話は六人もいるからと――なおざりにしていた面がある。それが此度のすれ違いを招いたのだ。
「だから、何かをやる前に相談をしようエーメリー。黙って、互いの為に動くんじゃなくて」
「……はい、御兄様」
エーメリーがおずおずとリクスの肩に体重を預けてくる。その体はやはりというか少し震えていて、本当にギリギリとは言え前に間に合って良かった、とリクスは深い深い溜息を吐いた。
天使であり生殖能力がそもそもないラジィは
「では、私はまだあのような男に穢されていないのだと、御兄様が全身くまなく確かめて、愛して下さいますか?」
「――エーメリー」
……前言撤回。リクスが少しだけ咎めるような視線を向けると「冗談です」とエーメリーは笑ったが、たぶん冗談じゃなく本気だったのだろうなとリクスには看破できてしまった。
ただ、未だ心細いのは事実なのだろう。
「では、せめて御兄様の隣で眠ってもいいですか?」
そのくらいであれば、許可するべきだろう。方法は間違っていたが、エーメリーはリクスの為に我が身を犠牲にしようとして、それを突き放すことなどできる筈もない。
「ああ。今日の夜番は俺が代わるから、エーメリーは安心して眠るといい」
「エリー」
「うん?」
「さっき、そう呼んで下さいました。それがいいです」
おずおずとエーメリーがそう求めてくる。
言ったっけ? 言ったかも、とリクスは記憶を探り――まあそれでエーメリーの気が安らぐならいいか、と判断する。
「分かった、おやすみ、エリー」
「隣ですよ、御兄様」
「はいはい」
横になるよう求められ並んでベッドに寝転がれば、エーメリーがリクスに身体を密着させてきて、それでエーメリーは本当に安心できているらしい。
エーメリーの身体を呪いのように蝕んでいた震えは、それでちゃんと収まっているようだった。
誤って寝てしまわないよう気をつけないとなあ、とリクスは薄布越しにエーメリーの体温を感じながら、ぼんやりと考えていて――
翌朝。
「リクス兄様はエーメリーに甘過ぎます。というか添い寝とかズルい。贔屓ですよ!」
何気ないおはようの挨拶のつもりだったのだろう。
ベッドの中段からニッコニコの笑顔で下を覗き込んできたビアンカの表情が一瞬にして急変、沸騰。ムスッと膨れた顔でリクスを睨んできて、リクスは説明に困ってしまう。
「いや、これには深い理由があってね……」
その上エーメリーがもぞもぞとリクスの横で目を覚ましてきて、実にタイミングの悪いこと悪いこと。
「お、おはようエーメリー、よく眠れたかい?」
「おはようございます御兄様。はい、とても心安らかに」
更にはエーメリーがリクスの頬に穏やかな笑顔でキスなどするものだから、火山がドンと火を噴くのは誰の目にも明らかだった。
「卑しい、卑しいわよエー!」
「難癖は見苦しいですよビー、ちゃんと私は御兄様に許可を取りました」
「押しに弱いリクス兄様がそんなの断れるはずないでしょ!」
「二人の中の俺、そういう印象なのね……」
エーメリーとビアンカが犬猿のように視線をバチバチとぶつけ合い、
「エーが先手を取った。にひ、賭けは私の勝ち」
「むぅ……ビアンカが先行すると思ったんだけどなぁ。エーお姉ちゃん奥手だし」
「がなってる暇があるならリクス兄の横に滑り込めばいいのに」
「そんなことよりメシの時間だろ? 兄貴! 俺が兄貴の分も取ってくるよ!」
そして残るエルダートファミリーは今日も平常運転だ。
なお、エルダートファミリーがそうであるのに対し、
「……なんだ? 船員たちが妙に怯えているような」
朝食を終え、ちょっと甲羅干しでもと甲板に上がったリクスへ向けられる視線には、怖気がべっとりと含まれている。
「あの、ちょっといいかい?」
「ヒィッ! すみません、俺は貢ぐべき女の子を港で待たせてるんです! 許して下さい! 魚の餌だけはご勘弁を!」
「……あー。うん。貢いでるってわかってるんだ。がんばれ」
マフィアの流儀をガラッシ家に通したリクスの振る舞いは――そりゃあ船員たちの中にもマフィアのやり口を知る者がいてもおかしくないだろう。
すっかりリクスは
「やりすぎたかな……別にあの程度、普通だと思うけど」
当然マフィアの普通は庶民の普通ではないのだが、すっかりウルガータのソルジャーが板についてしまったリクスにはもうそれが分からなくなってしまっているのだ。
さておき、
「【
甲板にて日光を浴びながら、リクスは【
だから、あの程度はいちいち記録に残すようなことじゃない、とリクスたちは判断したという証左でもあり――それが少しだけリクスの胸に棘となって残り続ける。
――
エーメリーが
十年後の自分がそうなっているのか、と考えると気が滅入ってくる。或いは毎回阻止できているから、という合理故かもしれないが、万が一だって起こりえるだろうに。
『俺は誰しもを救える力が無かった人間なのです。それが証明されているのにまだ背負えと、同じ失敗を重ねろと。シン様はそう仰るのですか』
『それが
シン・レーシュとの会話が思い出される。
昨晩の出来事を【
同じ言葉を賜ってなお、リクスは昨晩の出来事を些事と判断したのか。
「悩ましいな、俺自身のことだから」
目的を成し遂げたとき、自分はどのような人間になっているのか。それだけが噛み潰した苦虫のようにリクスの口いっぱいに広がって、飲み下せないでいるのだ。
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