■ 354 ■ 船上からは逃げられない






「……俺のせいだな。俺が『他の客と面倒を起こすな』と言ったからか、エーメリー」


 無言で是とも非とも言えず、瞳に涙を浮かべるエーメリーを前に、リクスは自分の愚かさに憤死してしまいそうになる。


 そんなことを期待しているわけではないのだ。こんなこと、リクスは一度だって求めちゃいない。

 迷惑など、自分にならいくらでもかけてもいいというのに――この子は自分に迷惑をかけないために、こんな、こんな馬鹿げた要求を受け入れようと――


「エーメリーからその薄汚い手を離せ、豚野郎」


 リクスが怒りと共に一歩を踏み出せば、もはやそれを止めるものはどこにもおらず、侍従たちが一歩でも距離を取ろうと後ずさっていく。

 一方、豚野郎と呼ばれた男は、そんな下品な言葉を投げかけられたことが一度もないのだろう。それが自分のことを指しているとすら認識していないようだった。


「ああ、『気を紛らわせるものを持ってこい』って命令だったか。それがこの状況か。誰だ? 提案者は」


 爪の生えた両手をぶら下げたままリクスが周囲に問えば、使用人たちの視線が一人へと向かう。

 夜半ながらそこそこ整ったパンツとベストを纏った四十路ぐらいの男は、恐らくベッドの上の男の侍従か何かだろう。


「喜べ、お前は後回しだ。どうせ逃げ場はないんだしな」


 リクスに手加減なき殺意をぶつけられた男が、血の気の引ききった顔で首を左右に振りながら尻餅をつき、手と足を無様に動かして後ずさっていく。

 それを横目にベッドに近づいたリクスは、この後に及んで自分に危害が加えられるとは微塵も思っていなそうな男の顔に、


「ウチの妹が世話になったな。これはその駄賃だよ! 貰っておけ!!」


 全力で鱗に覆われた拳を振り抜いた。

 ぐしゃりと男の鼻骨がひしゃげ、何本かの前歯が纏めて鼻血と共に宙を舞う。ベッドをボタボタと朱く染める。


「ひ、ギャアァアアアアアアッ!!」


 そのまま男の腹に容赦なく胴回し回転蹴りを叩き込んで船室にめり込ませ、


「説明が足らなくてごめん、エーメリー」


 ベッドの上で身動きが取れずにいたエーメリーの身体をそっと抱きしめると、やはり内心では屈辱に耐えていたのだろう。エーメリーがリクスの胸の中で嗚咽を零す。

 そんなエーメリーをあやしながら油断なく周囲に気を散じつつ、リクスは年の割に早熟なエーメリーの身体を抱き上げて自室へと運び、己のベッドへと座らせる。


「少しだけ待っていてくれないか。連中がこれ以上手出しできないよう話を付けてくるからさ」


 しゃくり上げながらも頷いたエーメリー一人を残すのも心苦しいが、まずは汚物の処分が先だ。


「不安なら、ポーションを使って誰かを目覚めさせておいてもいいから」

「……はい、御兄様」


 殺すにせよ黙らせるにせよ、これが禍根となるようなまま放置するのは最悪手だ。ここで、落とし前は付けておかないと。


 そうしてリクスが再び一等船室へと戻れば、どうやらこちらもポーションの備えはあったらしい。


「き、貴様! アルセウスはガラッシ伯爵家が嫡子たるこのアメデオの身に狼藉を働いた意味、分かっておろうや!」


 そう鼻息も荒く声を荒げる男の右頬にリクスは黙って拳を振り抜いた。再び男が宙を舞い、ドダンと船室の床に倒れ伏す。

 どうやら護衛の治療まではまだ及んでいないか、あるいは護衛の分のポーションがないのか。いずれにせよリクスを阻む者はこの部屋には何もない。


 しかしアルセウス、アルセウス貴種共和国か、とクィスはある意味納得した。

 アルセウス貴種共和国は闘神教アルス・マグナを国教とする、グランベル大陸と内海を挟んで隣接するアルテイル大陸最大の国家だ。


 そこの貴族制度は世界一盤石とされており、未だ天使狩りを――流石に公にはしていないが――続けている厳しい階級国家だ。

 共和国を謳っているが、あくまで貴族による共和制にすぎない。庶民には殆ど人権はない。ただ貴族の所有物としての価値は尊重されているので、他領の庶民の殺害は器物損壊罪に問われるが。


「なるほど、大した身分だ。本国にどれだけの民と財と魔術師を抱えているかは想像もつかないな」

「当然だ! 貴様のような下等民を消し去ることなどガラッシ伯爵家の力を持ってすれば造作も無いのだぞ! 伏して蹲い、靴を舐めて許しを請え!」


 そのような環境から来たのならこの男の異常性は――ある意味正常なのだろう。あくまで、アルセウス共和国という国の中では。

 リクスは黙って男、アメデオ・ディ・ガラッシにつかつかと歩み寄ると、その油で髪が固められた頭を掴んで顔面を二度、三度と壁に叩き付ける。


「き、貴様「黙れ」


 そのまま床に放り投げて転がった腹を思い切り踏みつけると、男が噴水のように吐瀉物を撒き散らした。

 それに傍らの水瓶から柄杓で掬った水をかけて簡単に汚物を流し終えると、男の足を掴んでズルズルと引きずり出し甲板へと上がる。


 そんなリクスを目にした見張りの船員がギョッと目を剥いたが、リクスの目を見て何も言わずにたじろぎ、口を噤んだ。

 海の男である船員には分かる。アレは裏社会に身を置いた、決して関わってはいけない類の人間であると。


 そうして自由を得たリクスはアメデオとやらの右脚に舫いを結ぶと、


「で? そのガラッシ家からの刺客はいつ来るんだ? 今日か? 明日か? 十日後か? 俺がお前を殺すのにこれから一日も要らんぞ」


 そのままぽーんと海へと放り投げる。


「ごぼっ、がばばっ!」


 恐らく自分の力で泳いだことなどないだろう男が海上でもがくが、その肥満した身体は衣服が邪魔することもあって水上に頭を維持することすらままならない。

 そうやって溺れかけた男は――顔から出血しているせいだろう。血の臭いを嗅ぎ付けたレモラが集まってきてその身体にへばりつき、ますますその動きを阻害していく。


 ひとまずそれで踵を返したリクスはガラッシ家の船室に戻り、


「ただ見ているだけだった貴様らも主に似てクズ同然だ。それは分かってるよなぁ?」


 前時間軸ツァディ直伝、ワンパンで胃壁を破って悶えさせる。その上で全員を縛り上げ、怪我が癒えてない護衛も縛り上げ、


「おっと忠臣であるお前は主のお側だ、喜べよ?」

「ひ、ひぃぃ! お許しを、お許しをぉ! 逆らえなかったんです! そうしないと我々が打擲を――」

「そいつぁたいへんだ。だがその道行きを選んだのも疑いなくお前さんなんでな」


 侍従らしき男の首根っこを掴んで甲板に上がり、同じように片脚を舫いで縛って水中へ放り投げる。


「おっと、溺れ死んじまうか?」


 そうして一度沈みかけたアメデオ某を、リクスはロープを引っ張って一度水面まで引き上げてみれば、


「きっ、貴様、私にこんなことをして――」


 逆さで釣り上げられたまま他人を罵倒できる程度の元気は有り余っていたようで、リクスとしては安心である。


「ああ元気だな、助ける必要はなかったか」


 そしてそのままロープから手を離せば、アメデオとやらが再び夜の海へとリリースされる。

 それを何度か主従交互に繰り返せば、レモラ以外の魚影もまた海中に迫ってきて――


「ギャァアアアアッ!! ま、魔獣だ! 魔獣が私にぃいいい!」

「……いや、ただのサメだよそれ」


 貴族なら魔術師であるはずだろうに。魔獣どころかただのサメに噛み付かれた男が、情けない悲鳴を上げてリクスを見上げてくる。

 見たところ大した大きさのサメでもなので、あっさり絶命することはないだろうが――サメを殺す、という選択肢を採れない時点でたかが知れている。もしかしたら信仰が闘神教アルス・マグナで、誓いを立てた武器が手元に無いから何も出来ないのかもしれないが。


「た、頼む! 助けてくれ! 金ならいくらでも出す!」

「知らんな、救援ならそのガラッシ家とやらに頼め。俺のような下等民を消し去ることなど造作も無いんだろ? 卑賤な俺如きが出しゃばる必要もない」


 サメに噛み付かれ、更なる血を流しながら懇願するアメデオ某に、船の縁に腰掛けたリクスは莞爾と笑ってみせる。


「そもそも助けちまったらガラッシ家とやらがあとで報復に来るんだろ? おお怖い怖い、助ける意味がないよなぁ? ここで魚の餌にしちまった方が楽だよなぁ?」


 カラカラと笑うリクスのそれはポーズでも何でも無い。リュカバースマフィアから指導を受けたマフィアの手加減した・・・・・やり口である。この先の態度如何によってはそのまま魚の餌にするつもりだ。

 ただ殺さない選択肢も当然あって、このように繰り返される絶望を受けた者の心の見分け方を、クィスはウルガータファミリーから学んでいた。


 絶対に受けた屈辱を忘れない、執念を命より優先する折れない者。これは殺すの一択になる。

 だが恐怖から報復を断念する、ある意味生命としては真っ当な者なら殺さない目も十分にある。


 殺す必要が無いならマフィアとて無駄に殺しはしない。

 別にマフィアだからとて人殺しを好んでいるわけではないのだから。


「今後俺たちにお前らと、お前の雇用した連中まで含め二度と手を出さない、とガラッシ家の名で念書を書くならが助けてやらなくもないが」

「書く、書くからガボボッ! わだ、バッ、私を助けてくれ、見捨てないでくれぇエエエッ!」


――こいつは大丈夫だ。復讐に拘るだけの心の強さはないな。


 マフィアの拷問に万が一の護衛として何度も立ち会っているクィスの判断だ。今更読み間違えることはない。


 そうやってアメデオ某を、次いでその侍従を海から引き上げてやると、サメに何度も身体を囓られた二人はもう逆らう気力を完全に失っていたようだった。

 手早くペンと羊皮紙を用意し、男に念書を書かせ血判と指輪の刻印までしっかり刻ませた羊皮紙を丸める。その上でポーションを投げ渡してやってから、リクスは己の寝室へ踵を返す。


 こんな男たちに費やしている時間など、リクスにはもったいなさ過ぎて仕方がないのだから。






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