■ 353 ■ 知らなかったのか?
シヴェル大陸からリュカバースまでは直通便がないため、一度の乗り換えを経て二ヶ月の船旅になる。
二ヶ月は長い、と一度はリクスも自身の竜化で海を跳び越えられないかと考えたのだが――当然のように【
やはり自分自身であるせいか、以前のリクスも一度はそれを考え、自身の竜化にどれだけのことが可能かを検討したらしい。
結論から言えばリクスの竜化は結構な魔力を消費するらしく、ブレスなどを極力使わないように制限しても半日の顕現が限界との結論に至っている。
――流石に半日では海を跳び越えられないよな。
結局は大人しく船で移動するしかない、ということで船室に籠もり【
もっとも船室に籠もっている必要は必ずしもあるわけではなく、船員の邪魔をしなければ船内では旅客も活動の自由を許されている。
実際、イーリスとフェルナンは甲板で素手での戦闘訓練をしているし(剣槍は危ないのでリクスが使用を禁じた)、シータはディアナに命綱を握られながら(一人で放置していると海に飛び込みかねないので)海中の生物をぼーっと眺めている。
一応平和な船旅ではあるのだが、
『ふざけるな、これがパンだと? 手で千切れぬどころかナイフすら通らぬではないか! こんなものを喰えというのか!?』
『閣下、この船には
『魔術師の有無など関係ない! この私に対してこのような扱いが許されると思っているのか? 責任者を呼べ!』
『ですが閣下、快適さより船足を、早く故郷へ、と閣下が仰いましたので、ここで船長を呼んだところで――』
『ええい、ならばお前たちの落ち度と言うことではないか! 責任を持って私の気を紛らわせるものを持ってこい!』
他の船室からそういう耳障りな声が聞こえてきてリクスは憂鬱になる。
クィスだったとき、確かシンルーが「
――お客だから、嫌なら海になんか出るな、とも言えないわけか。大変だな。
自然と苦笑が漏れてしまう。そりゃ新人も辞めていくよ、と部下に当たり散らす貴族らしき男の罵詈雑言で、リクスはよく分かってしまった。
もっとも苦笑いで済ませることができたのはここまでであったのだが……
――なんか、妙に今日は身体がだるいな。
海に出てから二週間、リクスにとっての中継地点であるハブ港までちょうど半ばのある夜に、リクスは奇妙な疲弊を覚えた。
感覚は泥酔時に近く、実際
故に軽い酔いならば、ある程度は常に感じているが……今のリクスの体内で渦巻く倦怠感は酔いのそれとは似て非なるものだ。
もっと重く、コールタールのように思考を鈍らせ、身体が鉛のように重くなるこれは――
――盛られた、か。遅効性の睡眠薬か麻痺毒だな。
瞬時にリクスは枕へと手を伸ばす。元マフィアであるリクスにとって、毒殺というのは常に可能性として視野に入れるべき日常でしかない。
故に
故に異常を感じた瞬間に枕を引き裂き、取り出した解毒ポーションの封を開け、中身を嚥下して飲み下す。
やはりというか、一服盛られていたのは事実だったようで、ポーションを飲み干して待つことしばし、普通の疲弊以外の倦怠感がまるで水をたっぷり吸った厚布を剥がしたかのように、すっきりと消えていく。
「しかし、誰が一服盛ったんだ? 夕食か? だがまさか船内無差別というわけでもあるまいに」
ベッドから立ち上がったリクスが室内を確認すれば、皆深い眠りに落ちているのか静かな寝息が聞こえてくるのみで、リクスの声に反応して目覚めるものはいない――いや。
「エーメリーがいない、か」
二つ上のベッドに拵えられた布団の膨らみは、可能な限り人の形を模そうとはしているが――実際にその中に人が潜んでいるわけではない。
その事実を確認したリクスは無言で鞄をベッドの下から引きずり出すと、未加工の聖霊銀剣を一振り抜きだした。リクスには装備は不要なのだが、目に見えた凶器の有無で人は反応を変えるものだ。
鞘をベッドに放り投げ、抜き身の刃を手にリクスはカーテンを開き船内の廊下へと進む。
残りの五人を寝たまま放置するのには僅かな抵抗があったが――盛られているのでは起こそうにも目を覚ますまい。
そうしてリクスはゆっくりと悠然と歩みを進め、リクスらの部屋とは違い、一等客室としてきちんと備えられている扉に息を殺して耳を付ければ、
『そうだ。そのままゆっくりと自分でたくし上げろ。そのまま口に咥えて離すなよ』
迷わずリクスは扉を蹴り開けば、ああ、やはり。
ベッドの上にはやや小太りな三十路ほどの男が股ぐらをいきり立たせたまま横たわっていて、
「御兄……様、何故」
下着も脱ぎ捨てその上に跨がっていたエーメリーが、自ら唇で咥えていたスカートを驚愕に離してしまう。
「投薬に備えての用心は基本中の基本、と言いたいが――それでもまだ俺は用心が足らなかったな」
「貴様、誰の許可を得てこの私の部屋へと足を踏み入れた。とっとと排除しろ」
「は、ははぁっ!」
その男の周囲を固めていた三名ほどの護衛と思しき男が、狭い室内戦に備えてのナイフを抜き放つが――その護衛たちよりもクィスの方がよほど室内戦には向いている。
聖霊銀剣は床に突き立て、瞬時に形成した両手の爪で一人目の男の腕を切り裂く。
傷ついた一人目を囮に斬りかかってきた二人目に膝を打ち付けナイフを落とし、三人目は腕と喉を掴んで完全に動きを止め――
「よ、止せ、止めろ!」
一人目の男が逆の手に備えたナイフで斬りかかってきたため、悠々と三人目の背中を盾にしてこれを防ぎ、そのまま一足で船室の床をベキリと踏み抜き、三人目を鎚に一人目を船室の壁にめり込ませる。
次いで背後の二人目に向かって全力で三人目を投げつけ動きを封じると、一人目の鳩尾に竜麟の生えた拳を全力で振り抜けば、
「ゲボッ……」
相手も魔術師だったのだろうが、到底耐えきれるものではない。
脇腹を押さえて膝をついた一人目はもうポーション抜きにはしばらく動けないだろう。
――聖句を唱えないな。もしかして
背中をぱっくり切り裂かれた三人目を邪魔そうに退けた二人目に、リクスは容赦なく火弾を投射。
「馬鹿な! 船内で火を放つなど!」
「安心しろ、火力は抑えた」
引火から船を護るべくその身を盾にした二人目への、火弾はただの目くらましだ。
両目を庇ってがら空きになった腹にリクスは容赦なく蹴りを打ち込んで――壁に穴を空け外へと蹴り飛ばす。
そのまま床に倒れ伏す三人目の背中に、重要な臓器は避けて聖霊銀剣を突き立てピン留めすれば、ひとまず無力化は終了だ。
「さて、言い訳を聞こうか」
呻き声を上げて床の上で痙攣し、あるいはのたうち回る配下たちを前に――胆力だけは一人前なのか、それとも単なる愚鈍か。
男は現実が目に入っていないかのように悠然と身を起こしてベッドに腰掛け、エーメリーの身体を抱き寄せる。
「言い訳? 何を言っている。貴様らが連れこんだ山猿の耳障りな金切り声に対する謝罪と称して、この娘は私に情けを求めてきたのだ。賤しい娘よのう」
ははは、と心底愉快げ肩を揺すって笑う男とは対照的に、侍従と思しき非戦闘員数名らはちゃんと状況が分かっているのだろう。
冷や汗を浮かべた貌を、リクスと男双方の間で忙しなく左右させるが、口を開く者は誰もいない。
「私は何も強制してはおらん。この娘は自ら下着を脱ぎ捨て娼婦の如く服を捲り上げたのだ。見よ、この雌猫のように盛りきった貌を!」
そう男がぐい、とエーメリーの顎を片手で掴んでリクスの方へと向けてくる。
男の言い分が正しいとするならば、エーメリーの「痴態」は自主的にエーメリーが自ら買って出たということになるわけだが――リクスはエーメリーが一服盛るための薬など所持していないことなど船に乗る前から知っている。
だから決して男の言い分が通るはずはなく、それは彼の部下たちも理解しているのだろう。
だがその男一人だけが未だ現実が見えてない。いや、そうではない。自分がそう語ればそれが真実になる、と疑っていないのだろう。
ずっとそういう環境の中に、この小太りの男は身を置いていて、そこから一歩も出たことがないのだ。
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