■ 289 ■ 絶望 Ⅱ
そうして、マルクを内赦局に引き渡してから一週間が経過した後に、
「いやはや、剛毅な男ゆえ苦労しましたが――やはりラジィ・エルダートは天使であり、此度の騒動は彼女が引き起こしたようです」
アンブロジオの元に、内赦局の同志であるヤマツ・ヘメセリス主任司祭がそう報告へと訪れる。
「……クリエルフィはどう死んだと?」
「マルクと別行動中、負傷したラジィ・エルダートを単独護送中に別の天使に襲われた、と。そのままラジィ・エルダートはお嬢様を放置してその天使と共にリュカバースを去り、あの騒動を引き起こしたようです。つまり邪魔者として排された、とマルクが御身に語った言葉は一部事実ではあったようですね」
アンブロジオが握りしめた拳をデスクの天板へと振り下ろした。
怒りのままに握りしめられた拳は真っ白に染まっていて、爪が掌に食い込んでいることすらアンブロジオは気が付いていないのかもしれない。
リュカバースの魔術師たちが聞けば、ヤマツの言葉は事実の切り取りであり、恣意的に情報をねじ曲げているのはヤマツも同様だと指摘できただろう。
だが、ここにそれを正せる人はおらず、
「また、ラジィ・エルダートが至る神もまた判明しました。
そう語るヤマツの虹彩には、隠し切れない興奮が色濃く滲んでいる。
後者の神に、ヤマツは何らの興味も関心も抱きはしまい。だが、前者、
「ラジィ・エルダートは現在マフィアと手を組み、本来の政治機構から権限を奪いリュカバースを違法に統治しているとのことです。これは許されざる悪行でしょう」
当然、降臨した神を御し得るかは疑問だが、それはラジィ・エルダートを確保し、その魔術を検分した上で判断すればよい。
それに加えて、
「今のリュカバースはグランベル大陸における、健全な港湾機能を残している数少ない都市でもあります。我々の手に収めておけば何かと便利に扱えるでしょう」
情報と財が集う港町で、そしてシヴェル大陸からの影響力が及びにくい土地だ。
ヤマツたちの個人的な資金源にすることもできるし、グランベル大陸に
「……各地に分散して用意していた艦艇と揚陸部隊は?」
「いつでも出港可能です」
「宜しい。全艦リュカバースへ向けて出航後に【
「畏まりました、我らが同志」
最初からアンブロジオもシンがカイを暗殺したなどとは考えていないし、濡れ衣を着せるつもりもない。
アンブロジオが欲しかったのは、カイからシンへ最高指導者の責が引き継がれるまでの空白の時間である。
カイの手元にある書類がそのままシンに渡るのでは、聡明なシン・レーシュなら今この段階で性急に行なう必要などないリュカバースへの出撃など許可しなかっただろう。
だがカイの死後からシンに渡る空白期間に決定され、その上で書類が意図的に別の書類の影に埋もれてしまえば、流石のシンもそう簡単には気づけない。
最初から改ざんされたものが渡されていれば、それを前提に思考を組み立てるより他はない。
何せ思考を組み立てるために必要な数字そのものが間違っているのだから気づけるはずもないのだ。
こういった書類仕事に対して驚異的な抑止能力を発揮する【
「【
「我々の手でリュカバースを落とし、グランベル大陸に政治部が覇を広げる橋頭堡にする、ですね」
「そうだ。ラジィ・エルダートが、
他の神教が混乱しているうちに、パイの大きさそのものを広げるのだ。海の向こうのそこでなら、ある程度【
それにアンブロジオ個人としてはクリエルフィが眠る地を、クリエルフィを殺したラジィ・エルダートの支配下になど置いておけるはずが無い。
愛娘クリエルフィを殺したラジィ・エルダートの、その名誉も尊厳も、絶対に世界の歴史に残したりなどはしない。徹底的に貶めてやらねばクリエルフィの無念を晴らせぬではないか。
「出立の準備を。【
そう逸るアンブロジオに一抹の不安を抱いたか、
「ラジィ・エルダートの神としての有用性の判断が終わるまでは、御息女様の仇討ちはマフィアまでに留めておく、という整合をお忘れなく。どうか一時の感情に踊らされることなきよう」
ヤマツがそう冷静さを失うな、と釘を刺してきて、アンブロジオは苦々しげに頷いた。
「カラシス総務局長なら残る政治部と【
「勿論ですとも。ここで躓いてはあまりに損失が大きい。万全の準備を整えております」
「結構」
であれば問題ない。シヴェル大陸最強神教である
「マルク・ノファトはどうした?」
ふと思い出したアンブロジオがそう問うと、ヤマツはそれは穏やかな笑みを浮かべ、
「死にましたが?」
「……殺したのか?」
流石に一時期目をかけていただけあって、そう和やかに伝えられればアンブロジオも一瞬怯んでしまうが、
「クリエルフィお嬢様を賤しきラジィ・エルダートに売った卑劣漢に如何なる情けが必要で?」
そうヤマツに問われれば、怒りが再燃してそんな些細なことはどうでもよくなってしまう。
否。
――殺された。ということは口を封じられた可能性もあるのか? 何故?
一抹の疑念はやはり残るのだ。娘を殺されたという凄まじい赫怒ですら、政治部第二位のアンブロジオの理性を殺しきれず、完全な無能に貶すには至らない。
アンブロジオは政治部のナンバー2だからこそ、死人に口なしという言葉の意味を誰よりもよく知っている。
マルクは口が堅いが故に苛烈な拷問で結果的に死んでしまったのか。それとも内赦局が意図的に殺したのか。それはもうアンブロジオにも分からないが――
――ここで退く理由は無い。マルクは【
アンブロジオがそう、不退転の覚悟を緩める理由はどこにも無い。
「クリエルフィが眠る土地を、我らの手に取り戻す」
些細な違和感は、やはりここまで上り詰めた聡明なるアンブロジオの胸の内に確かにある。
だが政治部に所属して初めて、アンブロジオは理屈ではなく感情にその行動を委ねたい気持ちが分かってしまった。
この期待と親愛と希望の喪失は――何を以てしても代えがたく永久に埋まることはないのだろう。
それでは、とヤマツが退室し、再び一人になったアンブロジオはデスクへと頽れた。
「エルフィ……何故死んだ、エルフィ。無理せず帰ってこいと、そう言ったじゃないか……なぁ、エルフィ……」
両手で顔を覆っても、零れ落ちる雫は止め処もなく流れ落ちアンブロジオのローブを伝って床をしとどに濡らす。
この手から零れ落ちたものはどうやっても再び掴み上げること能わず、永遠にアンブロジオの手に戻ってくることはない。
「エルフィ、お前の無念はこの父が張らそう。一秒でも早くあの【
だが、アンブロジオがその席を空けたとて、もはや永遠にクリエルフィがその席に納まることはない。
「調査不足のリュカバースにお前を送ろうなどと考えた、この愚かな父を許してくれ、エルフィ……おお、おぉおおおお…………っ」
これまで無駄だ、無意味だとアンブロジオが切り捨ててきた愚民の感情を、僅かにアンブロジオは理解できてしまった。
この殺意は、この無意味な殺意は――どうやっても消し難いのだと。
こんな感情、決して理解できねばよかったのにと、そう嗚咽しながら。
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