■ 288 ■ 絶望 Ⅰ
そうして、
「申し訳ありません、【
【
「文を検めも隠しもせずに渡しておいてなんだけど――マルク。今帰ったら貴方はろくな目に合わないわ」
そう忠告されても、しかしマルクの巌のような顔は既に覚悟を決めきっているようで、無駄とは思いつつもさらにラジィは言葉を重ねる。
「貴方にはクリエルフィの遺言通り、このリュカバースでヒューゴやトマス、ルチアを守って生きるという選択肢もあるはずよ」
「それも考えました。しかし、アンブロジオ様には御息女たるエルフィ様の顛末を知る権利があるはずです。上司としてではなく、子を持つ父として」
予想していた通りに、ラジィは言葉を失った。マルクは【
だからこそ責務がどうとか以前に、子を思う親の心を無視することができずにいる。
「当然、【
「いや、うん。それはありがたいけど私が心配しているのはそこじゃなくてね」
だが、本来護衛として同行したマルクのみが帰還し、クリエルフィが死んだなどと――そんな事実を前に、アンブロジオはどう行動するだろう?
「私が知っている頃のアンブロジオ次長のままなら、流石に命までは奪わないだろうけど――この後の貴方の栄達は絶望的よ? 【
「はい。何も【
そう言われてしまえばラジィと手それ以上かけられる言葉もない。男が覚悟を決めたのだ。それをどうして安い感情で阻めようか。
ここにあるのは【
「なら、最後に一つだけ約束なさい。内赦局に引き渡されそうになったら絶対に逃げるように。これまでありがとう、マルク・ノファト。貴方の難き道行きに幸多からんことを」
「忠言、ありがとうございます。【
一度平伏したマルクが立ち上がり、しかし迷いなき歩調で
元よりこの教会に住んでいたわけではないマルクの不在は、誰が心に穴の空いたような寂しさを感じずにはいられなかった。
§ § §
シヴェル大陸は聖なる内海へと注ぐシルケ河の上流、大滝を背に負うように建てられた神殿の前にマルクは再び帰ってきた。
よくも悪くも、アンブロジオ・テンフィオスの実子であるクリエルフィとその従者ノファトは【
故にここを発った時とは異なり、たった一人での帰還に誰もがマルクへ目を留め、しかしあまりおおっぴらに話しかけても来ないのは、
――シヴェル大陸の外では大量の魔術師が死んだ件は、もう【
クリエルフィたちは任務でシヴェル大陸の外で活動していた。故に
「任務、ご苦労だったと労うわけにはいかないことぐらいは分かっておろうな」
政治部の、十の神殿とは異なり機能的かつ贅を尽くして作られた一室で、アンブロジオ総務局次長がマルクに軽蔑の視線を投げかける。
「貴様には、娘の身をその命に代えても守るよう命令していたはずだ。どの面を下げて一人で私の前に現れた」
「エルフィお嬢様の、その最期をアンブロジオ様へお伝えするためにです」
アンブロジオが己のデスクにある重たいインク壷を掴んだものの――それを投げつけるのは話を聞いてからだと判断したのだろう。
「言え。子細嘘偽りなくだ」
「畏まりました」
そうアンブロジオに促されたマルクはラジィが天使であることは黙したまま、ラジィらとここまでは話してもよいと整合済みのクリエルフィの顛末をアンブロジオへと語る。
リュキアでは貴族と誼は結べなかったものの、庶民に
そしてリュキアにおける他都市から送られてきた魔術師との戦闘。
その間隙を縫うように、優秀な魔術師を殺して回る何物かの毒牙にクリエルフィが討たれたこと。
そしてその暗躍する影を追って現地の冒険者パーティーと共に、天使の一体を打ち破ったことなどをアンブロジオは黙って聞いていて、
「お嬢様の亡骸は、かの地を愛したお嬢様の意を汲んで現地に埋葬致しました。私からの報告は以上です」
そう結んだマルクを前に、アンブロジオが両手を組んで静かに黙祷を捧げた。
今は亡き娘に。
優秀だった【
クリエルフィ・テンフィオスにただゆっくりと時間と祈りを捧げた後に見開かれたアンブロジオの瞳には、凄まじい怒りの炎が燃え上がっている。
「それで? なぜ貴様の報告からラジィ・エルダートの存在が綺麗に抜け落ちている」
そう問われたマルクは、内心の恐慌を封じ込めるのに多大なる精神力を投じねばならなかった。
「ラジィ・エルダート、【
「此度の騒動、天使を操る
今度こそアンブロジオはインク壷を掴んで、それをマルクの顔へと投げつけてきた。
それは僅かに狙いがそれ、マルクの額に当たりその鍛えられた顔に裂傷を刻み込む。
「ならば天使であるラジィ・エルダートが此度の件に関わっていないはずがあるまい! 違うかマルク!」
「……ラジィ・エルダートは天使であるのですか?」
「猿芝居は止めろ! リュカバースの異常な発展もあの【
総務局次長であるアンブロジオがそう声を張り上げると、アンブロジオの執務室に
「マルク・ノファトを内赦局へと引き渡し真実を絞り出せ! 虚偽の情報を流し政治部を混乱に陥れようとした可能性がある!」
「お、お待ち下さいアンブロジオ様! これはエルフィ様のご意向でもあり――」
「黙れェ! 貴様が私の娘の名をみだりに口にするでないわ! 貴様、私の娘をあの孤児上がりに売ったのだな! あの素直な子を! あの狡猾な【
「誤解ですアンブロジオ様! どうか私の話をお聞き下さい!」
「真実を語る時間は既に貴様に与えたわ! それを虚偽で浪費したのは貴様だ――連れていけ!」
「アンブロジオ様!」
そうやって数多の騎士に拘束され、喚きながらも執務室から排除されたマルク・ノファトにはもはや一瞥もくれず、アンブロジオは無人になった執務室の椅子に腰を下ろし――
「エルフィ……お前を天使が殺したのか。あのラジィ・エルダートがお前を殺したのだな……」
そう、呆然と机の上に滂沱する。
アンブロジオ・テンフィオスはあの時確かに、天使の声を聞いたのだから。
――ありがとう、ラジィをここまで育ててくれた人たち。
――だからここからは私たちの仕事。
――私たちとラジィ・エルダートが世界を救済する。
――私たちとラジィ・エルダートが人類を救済する。
そう、アンブロジオの脳内に響いた天使たちの声を。アンブロジオは確かに聞いたのだ。
それがラジィの本意ではなかったことも、そしてその声はそれを発する天使の力を求める者にこそ、より強く聞こえたのだということもアンブロジオは知らない。
だからアンブロジオに分かるのは、この一件を引き起こしたのは天使ラジィ・エルダートであり、そのラジィの同胞たる天使によって愛娘クリエルフィが討たれた、ということだけだ。
故に、ラジィがクリエルフィの側に居たことは疑いなく、然るにその事実をひた隠すマルクなど、もはや一片も信じるには値しない。
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