■ 287 ■ 何度だって僕は、君に会うことを望むだろう
「……ごめんなさい。クィスを馬鹿にしたかったわけじゃなかったの」
分かってる。分かってるからクィスはラジィの唇を掌で塞ぐ。
神臓の代わりに子宮を備えようと、天使は所詮人には成れないのだ。それをラジィは、天使は悲しいとも思わない。
天使は人を羨まない。天使は人を讃えない。人間になりたいなどと愚考しない。人間みたいに生きたいなんて思わない。
人がおよそ考える、人にとって都合のよい悲劇のヒロインに、天使は決して納まってはくれない。
人の様に嘆き苦しみながらもただ純粋に使命を果たそうとする。そんな天使に人並みの幸せを与えようとする人を、魚に空を飛べと言うようなものだと一蹴する。
そう作られているラジィ・エルダートは、だから絶対にクィス・エルダートを特別視して愛することはない。
だけど、そんなラジィ・エルダートをクィス・エルダートは愛してしまって――故に、ラジィの言う通りなのだ。
だから何をどうやっても幸せになれない筆頭は、他でもないクィスなのだ、と。
同じくラジィを愛しているであろうツァディとは違い、苦しむのはクィス一人だけだ。
人に施しながらも見返りを求めない。己に最も似たりと
そんなツァディとは違い、根底としてクィスは
然るにクィスは救われない。天使ではなく自分を愛してくれる人を愛さねば、クィスは救われないというのに。
それが分かっていても、
「兄にも、父にも、部下にも愛されることがなかったから――だから見返りを求めずに人を助けられる君を、美しいと思った」
クィスという男の生き方は、そこから始まってしまっている。
我欲を突き通した腹心のマクローに裏切られ、一人冷たい海の底に沈められた。
スティクス・リュキアは我欲に、即ち
だからこそ只人の代わりに人の助けたらんとする少女に憧れた。懸想した。こんな立派な人に自分もなりたいと思った。
だけどクィスの根底にあるのもまた、
そしてそれはラジィが言った様に、決して悪いことではない。悪いことではないはずなのに――
「私に出会わなければ、クィスは幸せになれたのね」
究極的には、そういうことなのだろう。
人が真似するにはあまりに難い、神が造りしモノの御業。それの在り方にクィスは心を奪われてしまった。
身を焦がすほどの怒りと絶望の後に初めて目にした善性が――初めて心惹かれた異性が天使でなければクィスは苦しむことはなく、
「でも、その場合の僕が歩くのは修羅の道だよ」
だけどラジィに出会わなければ、憎悪と憤怒に塗れたスティクス・リュキアが――赤竜のような男がこの世を闊歩し、クィス・エルダートという男はこの世に生まれ落ちることはなかった。スティクス・リュキアのままに怒りを撒き散らすだけの災厄となっていた。
それから解放されてなお、クィス・エルダートは苦しみに満ちた生を歩くために、この世界を生きている。それは疑いないが、
「辛くて、苦しいよ。それでも君に会えなかった生を送りたいとは、僕は思わない」
傷だらけの身体を引きずる様に歩くのがクィスの一生だとしても、その先にあるのが幸福ではなく不幸なのだとしても。
それでもクィスはラジィに出会わなければよかったなどとは思わない。思えない。
「美しいものを見たんだ。スティクス・リュキアには終ぞ見られなかった美しいものを」
美しいと思った。だから憧れて、その人のようになりたいと思った。
でも只人の身でそう思ったことがそもそもの間違いで。
だからクィスは苦しんで、天使や【
「この先何度だって僕はこの辛さに耐えかね膝を付き、苦しさから逃げようと逃げ道を探すんだろう」
クィスは天使のように完璧ではなく、
だが、それでも、
「幸福にはなれない。それは分かってる。でも、クィス・エルダートが生まれてこなければよかったとは絶対に思わない」
生まれてこなければよかったとは絶対に思わない。
スティクス・リュキアが救われて、クィス・エルダートが生まれたのだ。救われて、その生を祝福されてクィス・エルダートは生まれ落ちたのだ。
「でも、辛いのもまた、疑いない事実だから」
だけど、この生が苦しみに満ち満ちていて、それが苦悶であることもまた変えようのない事実で。
「もう少しだけこうしていてもいいかな」
「ええ、それで貴方が安らぎを得られるのならば」
だからクィスはラジィの胸に顔を埋めて、その細い身体をかき抱く。
それより先を望んでも何も得られないから、傷つくだけだから。ただその温もりだけを感じられる家族の距離までに留めて、その先までは求めない。
「演算過程で、答えが出てきたんだけど。私は多分、スティクス・リュキアがこの国に必要だった理由を知っちゃったわ」
ラジィが愛おしむようにクィスの頭に腕を回して、ぎゅっと胸元に抱き寄せる。
「知りたい?」
「ジィは、それを僕に知って欲しい?」
「【
でも、とラジィはクィスの頭を抱く腕に力を込める。
「ラジィ・エルダートとしてはとても家族には聞かせたくないわ。とても身勝手な理由だもの」
「そっか、ならいいや」
「本当に?」
「うん。もう僕はリュキアの為にスティクス・リュキアとして、何かをしてやりたいことなんてないからね」
「そうね……それでいいと思うわ。貴方は天使ではないのだから」
そうして、呼吸すらも忘れたように二人が微動だにせずそうやっていた、しばしの後に、
「おっと、邪魔したか?」
ノックの後に入室を許され、部屋に入ってきたドン・ウルガータの手には一つの封筒があって、
「いいえ、別に何もしていなかったし――
「ああ。クリエルフィへの文だ」
やはり来たか、とラジィはクィスと共にベッドの上に身を起こして、ボウッと窓の外、海の向こうを見やる。
クリエルフィ・テンフィオスへの
それはクリエルフィに報告を求めるアンブロジオ・テンフィオスからの催促にして、ラジィが既に予想していた地獄の幕開けだ。
「どうする? また偽りの報告でも送っておくか?」
「いいえ、今のマルクに嘘は吐きたくないわ。マルクに渡してあげて」
いいのか? とウルガータが目で問うてくるが、ラジィは然りと頷いた。
いずれにせよ、いつかはクリエルフィの死は露呈するのだ。であればそれはラジィの巡礼が
「私がいるうちに、面倒は全てまとめて始末する。その結果としてこのリュカバースは一度、滅茶苦茶になるけど――ドンなら立て直せると信じてるわ」
巡礼の期間が終われば、ラジィは【
故に、
「私が去ったあとのリュカバースは任せるわよ。ルガー、クィス」
「ああ。元々俺らの街だ、任せておけ」
「うん。君が帰るべき場所は、絶対に失わせない」
リュカバースを統治するのは麻薬を嫌うドンであるウルガータに任せるのがもっとも多くの人にとっての幸福となろう。
故に面倒ごとは、全て纏めてラジィ・エルダートが始末する。
例えその結果として、何が失われることになろうとも。
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