■ 286 ■ たとえ苦しみの底でもがく未来でも






 クィスの心臓が、早鐘の様に乱打されている。

 感情はそれ以上にぐちゃぐちゃになっていて、思考がマトモに働かない。


 クィスに分かるのは、顔の皮膚越しに感じるラジィの薄く肉付きのないあばら骨と、それでも初めて出会ったときとは異なり、確かに存在を主張している胸の柔らかな膨らみ。

 そして息を吸い込めば嫌でも感じとれる、クィスの思考を蕩かすような、少女の甘い匂い。


「男の子は見栄っ張りだから、人前ではどうせ格好いいことしか言わないでしょ?」


 ラジィがそう、責めるでもなじるでもなく当然の様にそう微笑んで、優しくクィスの頭を撫でて、手櫛で髪を梳る。


「いま、ここでクィスが何をしても、この先にある全ての幸と不幸は不変だわ。それが貴方にとって悲しむべき事か、喜ぶべき事かまでは私には分からないけど」


 自然と、クィスの手が少女の背中へと伸びる。翼の根元、保湿をしているわけでもないのに滑らかな肌。

 そこから下に掌が滑り落ちれば、その先にあるのは手に吸い付く様な張りと、弾力のある柔らかな臀部。


 ラジィ・エルダートは言っている。

 クィス・エルダートへ言っている。


 今ここでクィスが何をしても、この先にある全ての幸と不幸は不変だと。

 即ちここでクィスがラジィに何をしたところで、ラジィは不幸にならないと。

 その先にある未来は変わらない、と。

 クィスが、何を、しても。


「クィスは、自分が・・・幸せになりたいのよね」


 そう薄っぺらな自分の性根をあっさりと見抜かれて、クィスの腕に力がこもる。

 力尽くで、線の細い少女の身体を己の身体に密着させるかのように、一つにならんと欲するかのように抱き寄せる。


「ミカの身体なんだけどね。生前、天使を増やす実験のために子宮が移植されていたの。今、ミカとラジィの身体を混ぜ合わせてできたこの天使ラミにも当然、それはそのまま残されているわ」


 ラジィから語られた言葉が、クィスの思考をこれ以上ないほど真っ白に漂白した。眩暈を覚え、一瞬呼吸の仕方すら忘れた。


 子宮の替わりに神臓を備えているのが天使だ。

 だがミカと融合して再構築された天使ラミには神臓がなく――その替わりに子宮がある、と、いうことは。


「流石に子供が産めるかは分からないけど――少なくとも行為だけはできるって事よ」


 気付いたときにはクィスはラジィの身体をベッドに押し倒していた。

 潰されるのを拒むかの様に六枚の翼がバサリとベッドに広がり、純白のシーツの上に純白の羽毛を敷き詰める。


「幸せになりたいって、そうクィスは思ってもいいの」


 白いシーツ。

 白い翼。

 白い羽根。

 白い肌。


 その中でたった二つだけ色を持つ、透き通る様な蒼玉の瞳に、赤く蠱惑的に濡れる唇。

 乱暴に乳房を鷲掴みにすれば、クィスの掌でラジィの胸がしなやかに形を変えて、しかし薄い張りで以てクィスの暴行に抗わんとする。


「別にそれは当然のことで、誰にも非難される様なことじゃないのに。自分の幸せを第一優先にすることを悪であるかのように語るのは人の悪癖よね」


 そうだ。自分が幸せになることを優先して何が悪い?

 誰もがそうやっている中で、クィス・エルダートがそうやってしまって何が悪い?

 でも、


「でも、ジィはそうしないだろ」


 だから、クィスは理性を捨てた獣にはなれない。

 ふとした拍子に正気に戻ってしまう。正気に戻れてしまう。


「そりゃあ、私が幸せになったら世界中の誰もが不幸になっちゃうしね」


 ラジィ・エルダートが、天使が困った様に笑う。


 天使。

 ラジィ・エルダート。


 苦しむためにこの世に生まれ落ち、人の苦しみを検分し、人を苦しみから救うためだけに作られた存在。


 人として作られてはいないからこそ、人のように自分の幸せを追い求めることがない存在。

 死にたくないなどと考えることはない。人を幸せにするために、仕様として・・・・・その命と未来を他人に捧げることが規定されている存在。


 人の為に消費されることそれ自体に幸せを求める。そのように作られている天使は、あまりに生物としては歪だ。

 だけど、その歪さは決して醜さ、醜悪さを人に意識させるものではない。むしろその逆に映る面もある。




 でも、その歪さがクィスを苛むのだ。




「続けないの? それともやっぱり目が四つあるような化け物を抱くのは嫌?」

「嫌なら最初からこの手はジィに伸びていないよ。正直、今でも僕はジィの身体を貪りたくて仕方がない」


 目が四つあろうと、背中から羽が生えていようと、頭上に光輪を掲げようと関係ない。

 ミカと混ざり合って、出会ったときのラジィとは顔つきも体格も微妙に異なっていても、そんなことお構いなしにクィスはラジィに劣情を抱いている。


「だけどジィが言ったんじゃないか、この先にある全ての幸と不幸は不変だって」


 だけど、だからこそこの先には踏み込めない。

 クィスがラジィの身体を蹂躙しても、ラジィは不幸にならないし、クィスもまた幸せになれない。

 得られるのは一時の快楽と、それがもたらす永遠の苦しみだ。


賞杯トロフィーじゃないんだ。身体だけ蹂躙できても、自由にできても。心が動かないんじゃ虚しいだけだ。なんの感慨も湧いてこない」


 そうとも。相手の心が動かないなら何の意味もない。


 無理矢理手込めにして、強姦して、殺したいほど恨まれるのなら、それでもいい。

 気を使いながら互いの感情を確認し合って、愛と情を深められるのは幸福だろう。


 向けられるのが愛情でも、憎悪でも、信頼でも、敵意でも、恋慕でも、屈辱でもいい。

 そういった感情の動きこそが人が交わることの意味だ。情報の、感情の交換こそが人と人とが触れ合うことの意味なのだ。


 だが、それが一切ないのであれば――

 両者の関係は見知らぬ交差点ですれ違う赤の他人ほどにも遠く、無意味なものでしかない。






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