■ 285 ■ 限られた救済






「どうしたい、っていうのは?」

「そのままの意味。この先の未来は控えめに言って地獄よ? そうね、皆にも分かりやすい例を示してあげる。私の【演算スプタティオ】は残るリュカバース魔術師のうち、この先幸せに生きられる者の数は最良で四人が限界だと弾き出したわ」


 ラジィのそんな一言に、クィスらの背筋が凍る。

 今このリュカバースにはラジィ、クィス、ティナ、アウリス、フィン、ラオ、ソフィア、リッカルド、マルク、ガレス、コルン、ナガル、シンルー、イオリベ、オーエン、そしてクィスらは知らないがブルーノと総計十六人の魔術師が暮らしている。

 その十六人のうち、この先で幸せに成れるのが――最善でたったの四人だけ?


「そ、それ以外の十一人は……?」

「さて、後悔と苦悩に苛まれながら生きるか、あるいは神の御許へ旅立つものも」

「じょ、冗談、だよね? ジィ?」

「お姉ちゃんは相変らず覚悟が足りないわね。事実よ。あ、なお私の幸福は最初から無いわよ? 私の幸福ってのは私が神になることだからね」


 運命神フォルトゥナが降臨するのは最悪だ、とラジィに言われたその場の面々は僅かに顔をしかめてしまう。

 結局のところ、どうやってもラジィが幸せになれる未来は皆の不幸によってのみ成立する、という事実を変える術を未だ持ち得ないでいるからだ。


「あと誤解しないで欲しいんだけど、これは四つある幸福枠を誰に与えるか、という話ではないわ。私のようにどうやっても幸せに成れない者もいて、要するに幸せに成れる誰かを犠牲にすれば、別の誰かが代わりに幸せになれるって話ではないの」


 リュカバース魔術師として幸福の最高率を求めると、最大四人が幸せになる未来を引き寄せるのが上等、という判断になる。

 ただそれだけの話であり、誰と何を犠牲にしても幸せになれない者もいるのだ、というのはクィスたちにはあまり嬉しくもない指摘だった。


「絶対に幸せになれないって……たとえば誰?」


 クィスの問いに、ラジィは申し訳なさげに首を横に振る。


「言えないわ。私の【演算スプタティオ】はそれを口外すると更に幸せになれる人が減る、と算出してきたから」


 知ってしまえば助けられない人を何とかして助けようとしたり、また意図的に助けられない人を軽視して仲間割れをしたりする可能性があると。

 そうやって更に最悪の未来が更新されてしまうとのことで、そう言われればクィスも強くは望めない。


「でも、私は随分とティナとクィス、アウリスに助けて貰ったから。だからせめて結果はともかく、三人の望みに融通ぐらいは利かせたいなって。私が聞きたいのはそういうことよ」


 孤立無援だったラジィにクィスたちは家族になろうと、共に暮らし共に帰ることができる家を作ろうと言ってくれた。

 それでラジィが真に救われることなど何一つないというのに、ティナもクィスもアウリスも、幾度となくラジィを助けてくれているから。


 ラジィに喉を潤すよう勧められてティナもクィスも紅茶に口を付けるが、正直味なんてものはもうよく分からなくなっている。


「……うーん、じゃあジィはどうしたいの?」


 自分の意見より先にラジィの意見を聞きたい、とティナに問われたラジィはまた、少しだけ申し訳なさそうに肩を竦めた。


「私は地母神教マーター・マグナだからね。個人の望みとしてはルガーとシェファの安全が第一かな。次にヒューゴやコニー、シェファ配下のラウラたちやフェイらの幸せね」


 ティナやクィスではなく、只人である庶民を助けるのが第一だ、というラジィの言は三人ともが納得できる話であった。


 『かつえる民に温もりを、難き道行きに安寧を。只人にそれが成せぬというなら、私がそれを成しましょう』


 ラジィの人生は全てこの聖句に集約されていて、それを曇りなく成すのが【至高の十人デカサンクティ】だとクィスたちはもうよく知っているのだから。


「正直、全世界のことまでは【演算スプタティオ】できないから、ルガーらの幸せすら十全に確立できるのか私にも分からない。ミカは人の可能性を信じてるなんてたわごと言ってたけど、私はそこまで楽観なんてできないし。このまま人が滅びてしまう未来も十分にあり得るし」


 仮にこの世が人の世界であったならば、貴族社会の崩壊と革命を経て――無論幾多の血が流れるとしても――誰もが等しい人権を持つ社会に移行することも可能だったろう。

 だがこの世界には魔獣がいて、ビーストがいて、それらは自分の住まえる世界を広げるべく人と生存圏の奪い合いを行なっている。


 このような社会において人が真っ二つになっていがみ合うというのは、魔獣という最大の敵の前で仲間割れをするのと同義なのだ。

 ゆえに革命は為されず、そのまま人という種がこの世界から消えてなくなる確率はそう低いものではない、とラジィの【霊算器マシヌラ・カリキュメトリア】は弾き出している。


「私の望みは、このままティナ様に尽くして生きることにございます」


 口火を切りがたい、と二人が黙しているために、まずはアウリスがそう己が望みを口にする。

 それ自体はラジィにとって想定内だったので、静かにラジィは頷いた。


「アウリスはそうよね。ティナお姉ちゃんは?」

「まぁ、ありきたりかなぁ。このままエルダートファミリーで苦労することなく生きていければいいなって」

「これも予想の範囲内ね。じゃぁクィスお兄ちゃんは?」

「僕の望み、か……」


 そう呟いたクィスの脳裏に、苦い記憶が甦る。

 この手で貫いた少女の鼓動、溢れ出る血の温かさ、そして儚く消えた笑顔。



――コルナール。



 彼女を殺して、クィスは前に進んだ。なんのために?


「ティナと、同じかな。ただ苦労はあってもいい。結果として僕たち六人が無事に暮らせれば、それで」


 ラジィ、ティナ、クィス、アウリス、フィン、ラオ。

 エルダートファミリーであるこの六人が生き延びられるならクィスはそれで――


――本当に?


 心が、軋んで傷ついたクィスの心がそう問い直してくる。

 強く生きられない。自分の望みのために進むべき最短の道が分かっていながら、その最短距離を進めない。その結果としてクィスはコルナールを失ったのではなかったのか?


 自ら辛い道を選んでおきながら、その道の辛さに悲鳴を上げて、自分の幸せに逃げたがって、そして踏ん切りが付かないままクィスの手から幸せは零れ落ちた。

 零れ落ちたそれを幸せと認識していたクィスの根幹は、だから――でも、それを望んで、一体誰が幸せになれるのか?


「分かったわ。じゃあその方向でやれるだけのことはやってみるわね」


 そうして朝食の場はその場で一旦閉じられ、ティナは教師として教材を携えて家をあとにし、アウリスは食卓の片付けの後に洗濯を始め。

 そうして黒服を纏ったクィスもまたウルガータファミリーの用心棒として己が職場に向かう途中で、


「ちょっと秘密の話をしたいから一緒に来てくれる? ルガーの護衛はさっきラオに頼んでイオリベにお願いしてあるから」


 クィスはラジィにそう声をかけられ、シェファが運営する娼館の一室へと連れ込まれる。


「秘密の話って?」


 ベッドに腰を下ろしたクィスに向けられるラジィの瞳は――明らかな憐憫を帯びていて、


「何をどうやっても幸せになれない筆頭はね、クィス。お兄ちゃん。私を超えて貴方なのよ」


 そうして、ラジィが自らの護りであるローブをはだければ、聖霊銀糸と水晶蜘蛛糸で編まれたそれがするりとラジィの足元に滑り落ちる。

 そのまま被っていた帽子を脱ぎ捨てれば、光輪と翼が露わになって、その神々しさは正しくもラジィが天使であることを強くクィスに印象付けてくる。


「だから、ほんの僅かにでも貴方が幸せを感じられるにはどうしたらいいかなって」


 そのまま全ての衣服を脱ぎ捨て一糸まとわぬ姿となったラジィがそっと、クィスに近づいてその頭を胸にかき抱く。


「朝食の場で語ったことは、貴方の一番の望みじゃないでしょう? だから改めて二人きりで、貴方の望みを聞きたいなって」






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