■ 269 ■ 神よ無辜なる民を救い給え Ⅱ







 緊急の呼び出しを受けた地母神教マーター・マグナ本部神殿、通称【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】の統治者にて地母神教マーター・マグナ最高指導者であるカイ・エルメレクはローブの裾を蹴り飛ばしながら、大急ぎで【道場アリーナ】の神殿へと駆け込んだ。

 訪れた先、道場アリーナ神殿の私室では今やその部屋の主が床に蹲り、苦悶の声をその歯の間から漏らしながら額を脂汗でしとどに濡らしている。


 何が起こっているか、は今更聞く必要はない。

 何故なら【至高の十人デカサンクティ】が一柱、【道場アリーナ】の背中からは細い骨のような突起がズルズルと這い出てきていて、その頭上には細い光の輪が明滅しているのだから。


「ディー、大丈夫ですか、ディー!」

「だい、じょうぶだ。すぐに神殿を張れ、カイ姐」


 ぴき、と背中の骨にヒビが入り、そこから少しずつ芽生えのように柔らかな羽毛が顔を覗かせ始めていれば、もはや状況はのっぴきならない非常事態だ。


「ジィが、臨界しているのですね。運命神フォルトゥナが降臨するのですか」


 しゃがんで手を差し伸べるカイのそれを、ツァディは乱暴に打ち払った。


「違う……これは――確かに、怒りだけど、もっと、単純で――根本的な、殺意……急げカイ姐! 多くの、人が死ぬぞ!」


 自分に構うな、というディーの雄叫びで、カイは状況がどうやらディー一人の範疇を超えて、事態が想像以上に最悪であることを覚らざるを得なかった。


「……分かりました、シンを呼びます」

「ああ、そうだな。シンばーちゃんなら、安心、か」


 返事を最後まで聞かずに【神殿テンプル】カイ・エルメレクは道場アリーナ神殿を飛び出し、己が神殿テンプル神殿へと帰還。

 緊急用に準備されている、これまで一度も使用したことがなかった拡声のアミュレットを手にして、


『【神殿テンプル】カイ・エルメレクより【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】に身を置く全ての地母神教マーター・マグナ徒へと通達。現時刻を以て地母神教マーター・マグナは戦時体制へと移行。シヴェル大陸全土に対する超々大型神殿を構築します。四十秒で支度を終えて下さい』


 最高指導者カイ・エルメレクからの通達に、一瞬にして【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】は大混乱へと陥った。

 無理もあるまい。傍目には何の予兆もないというのに、いきなり最高指導者が戦時体制へと移行、などと言い始めるのだ。ある種のジョークか、訓練かと誰もが首を傾げる中で、


納戸ホレオルム神殿、【納戸ホレオルム】ラム・メドム、配置についたわ』


 【至高の十人デカサンクティ】の一柱、【納戸ホレオルム】ラム・メドムから応答があれば、これは訓練でも冗談でもないと誰もが理解したのだろう。一斉に己が持ち場目指して駆け出していく。


温室ハーバ神殿、【温室ハーバ】ダレット・ヘイバブ、準備よし』

宝物庫セサウロス神殿、【宝物庫セサウロス】サヌアン・メフィンだ。初運用だな、胸が躍る』

武器庫アーマメンタリウム神殿、【武器庫アーマメンタリウム】アレフベート・ギーメルだ。不備無し』

スタブルム神殿、【スタブルム】ザイン・ヘレット。待機はしていますが、本当にこれ動くんです?』

道場アリーナ神殿、【道場アリーナ】ツァディ・タブコフが現在対応不可能のため【御厨コクイナ】シン・レーシュが代理で受け持ちます』

御厨コクイナ神殿、【御厨コクイナ】不在により候補生たちにて運用します』

菜園サジェス神殿、【菜園サジェス】テッド・ヨドカフ。遅れてすみません』

書庫ビブリオシカ神殿、【書庫ビブリオシカ】が巡礼中のため御厨コクイナ神殿同様候補生が準備中です』


 【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】を構築する全ての神殿で準備が整ったようだが――実際にこれを起動するのはカイも初めてだ。

 歴代の【神殿テンプル】襲名者が幾度となく増築を重ねてきたこれを、まさか己の代で使用することになるとは――




――ありがとう、ラジィをここまで育ててくれた人たち。




 頭の中に響いた声にカイが動じたのは一瞬のことだ。


「っ!? 誰が――いえ、天使、なのよね」


 ラジィ・エルダートは神臓を引き抜かれ、その神臓を確保しているのはツァディだ。

 で、あるというのにツァディは今や神臓に引きずられるように臨界を開始していて、しかしそれはラジィの神臓なのだ。


「そう、ジィに直接神臓の代わりとなる生物を繋げたということね」


 カイが想像するよりはるかに、世の中の人間たちは天使を己の都合よく使い尽くすことに貪欲だったとみえる。

 ラジィがこの臨界に同意しているかいないかはさておき、ツァディ曰くラジィの運命神フォルトゥナよりも単純で根本的な、殺意を持った臨界だというならば、


「神がこの世に降臨するのは、【創造神デウス】が定めたこの世の理。だけど人為的に利用された天使により今の神を信奉する者たちが害されることなど――許される筈がない」


 カイ・エルメレクは己の聖霊銀剣を両手で掴み、【神殿テンプル】神殿の祭壇へと足を進める。

 そこには【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】で修行中の神殿テンプル宗派たちが既に集っており、姿を表した宗派の頂点、【至高の十人デカサンクティ】の前に跪く。


「皆さん、覚悟は宜しいですね」


 この場にいるのは誰もがカイの指導を受けることを許された、地母神教マーター・マグナの上澄みだ。

 然るにその返答は当然のように定まっていて、


かつえる民に温もりを、難き道行きに安寧を。只人にそれが成せぬというなら、私がそれを成しましょう」


 只人を守る為に己には力を与えられ、またその力を磨いてきたのだと自負する者しか、この場に足を踏み入れることはない。


 カイが聖霊銀剣の先端を神殿の祭壇、その足元に開いた穴に突き入れ半回転させると、低い鳴動音と共に聖霊銀剣が固定される。

 そのまま魔力を流せば、放たれた魔力は【神殿テンプル】神殿――否、【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】を構築する十の神殿の全てへと伝導していく。


かつえる民に温もりを、難き道行きに安寧を。只人にそれが成せぬというなら、私がそれを成しましょう。【至高の大複合神殿マグナ・サクロ・サンクトゥス】、起動開始」


 その宣言を起点に、【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】を構築する十の神殿から光の柱が立ち上る。

 地母神教マーター・マグナ徒にとっては馴染み深い、洗礼時に立ち上る光の柱によく似たそれは、しかし規模が桁違いだ。


 此なるは歴代【神殿テンプル】襲名者たちが地母神教マーター・マグナを信じる民全てを守り参らせんと構築した、シヴェル大陸全土を守り切るための超大型神殿を支える支柱。


 【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】は元より複数の神殿の複合体を一つの神殿と見立てた構造になっている。

 逆に言えば【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】とは、神殿がある土地で結ばれた環境のことを指すことばでもあり、


「【至高の大複合神殿マグナ・サクロ・サンクトゥス】、広域展開!」



 【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】より立ち上った光の柱から波紋が広がり、シヴェル大陸全土を覆い尽くすのとほぼ同時、




――掬いましょう。

――救いましょう。




――あらゆる魔術から、貴方たちを救いましょう。




――ここに降臨は為されるでしょう。




――子どもたちよ、喜びなさい。




――この封魔神オーディナリスが以後、貴方たちをあらゆる傲慢から救うでしょう。




――喜びなさい、子どもたちよ。




――貴方たちはもう二度と、魔術に苦しめられることはないのだから。




 どこかで弾けた神気が怒涛となって超大型神殿、【至高の大複合神殿マグナ・サクロ・サンクトゥス】と激突する。


 その余波は余すことなく【至高の大複合神殿マグナ・サクロ・サンクトゥス】を構築している魔術師全てにも襲い掛かり――

 あっという間にカイを取り巻いている【神殿テンプル】候補生の三割ほどが魔力を使い果たして、糸が切れたようにその場に倒れ伏す。


――無理もないか、本来なら入念に準備を重ねて発動するものですしね。


 あっさりと数人が昏倒し、残る面々も脂汗を流しているというこの現状に、カイ・エルメレクは歯噛みする。

 【至高の大複合神殿マグナ・サクロ・サンクトゥス】は本来、発動に際しては可能な限りの信徒を動員して展開すべき大規模儀式魔術だ。

 平時の人員のみで突貫運用することなど、本来の運用方法として想定されていない。


 こんな使い方をすれば、恐らくこの魔術の中核を担う【神殿テンプル】宗派から犠牲者が続出するであろうことは起動前から分かっていたのだ。

 だが【至高の大複合神殿マグナ・サクロ・サンクトゥス】が現在水際で防いでる神気には――確かに害意が籠もっている。


 ツァディが語ったように、悪意ではない。純粋な怒り、神気である以上は救いを求める願いであることは疑いないのだろう。

 だがラジィが運命神フォルトゥナと定まったように、この世界は既に天使に求める救いが『人からの救済』に成り変わっている。


 であれば、人を当然の顔で殺すような神が降臨するのもまた必定。

 だが、それが必定だろうと死に甘んじてやる理由は、生物である人にはない。人は、生物とは生きるために生まれてきたのだから。


「皆さん、辛いでしょうが耐えて下さい。シヴェル大陸全ての人々の命が私たちにかかっているのですから」

「はい、【神殿テンプル】様」


 だから、カイ・エルメレクと神殿テンプル候補生たちは全力を絞りつくす。

 ラジィを生かすと決めたときから、己の命を捨てる覚悟はとうにできていた。


 仮に幼き頃のラジィをカイが殺していても、天使を利用しようとする者がいるなら、いつかの未来に今と同じことは起こっただろう。

 たまたま自分の時代にこれが起こっただけであるに過ぎない以上、カイ・エルメレクに後悔は無い。


 ただ、どぶさらいの役目を担わされた当代の地母神教マーター・マグナ徒たちには、申し訳ないとは思うが。




――貴方を信じますよジィ。そもそもそう簡単に果てるような子に育てた覚えはありませんからね。




 ラジィ・エルダートとツァディ・タブコフはカイ自らが手塩にかけて育てた、カイの自慢であり誇りである。

 仮に神化に利用されていようと、悪意在る臨界をただ指をくわえて見ているような娘では、ラジィは決してない。


 だからあとは、ラジィが臨界を止めるか、【至高の大複合神殿マグナ・サクロ・サンクトゥス】が術師をあらかた喪って機能停止するか。そのどちらが先に来るかの勝負だ。


かつえる民に温もりを、難き道行きに安寧を。只人にそれが成せぬというなら、私がそれを成しましょう」


 故にカイ・エルメレクは全力を絞り尽くす。

 神に挑むのはこれが最初ではない。此度で二度目、未だ二十代半ばながらも生涯で二度も神に挑みし魔術師がカイ・エルメレクだ。


 そう簡単には、負けてやれない。






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