■ 270 ■ 神よ無辜なる民を救い給え Ⅲ
それが始まった瞬間、リュキア王国第二王子にして竜牙騎士団長のステネルス・ヒュペレノール・リュキアはルフリウム城の北にして紛争地帯である森の偵察に当たっていた。
最近、どういうわけかノクティルカの
氏神を主体とする
幸い風神にして雷神の化神であるステネルスは高い飛行能力を持つ、というより天候を操って起こした風で空を飛べるが、そこまでの出力を持つものは多くない。
故に国境警備隊長カラタクスの苦い顔を押して自身が偵察に出ることもままあり、だからその日もステネルスは曖昧な国境である森林地帯を偵察していたのだが――
「ボス! やっぱりノクティルカの連中はどこにもいねぇよ!」
あの時ステネルスが拾い、肉体労働による奉仕を命じられた
ガローが取り込んだ魔獣は
戦力としては全く期待できないが、斥候としてなら有用だ。もっとも正確な報告を行なわせるための教育には少々難儀したが。
ただどれだけ矯正しようとしてもステネルスのことをボスと呼ぶのだけは、いささかステネルスも思うところがないわけでは無いのだが。
「罠も、待ち伏せもないようだな。陣地をあらかた残したまま撤退した、のか? ノクティルカの正規部隊が?」
偵察の結果が示しているのは明らかに異常だ。
これまで一進一退を繰り返していた――いや、どちらかと言うと城攻めされているリュキアのほうが押され気味だった国境地帯から、ノクティルカの魔術師が一人残らず撤退しているのだ。
しかもご丁寧に野営地と物資をそのまま放置して、だ。それは撤退と言うより――遁走とでも言うべき稚拙さ、あるいは拙速さである。
「どうすんだボス。もうちょっと探るのか?」
「いや、一端ルフリウム城に戻る。何か嫌な予感がする」
「そういうボスの予感って一回も当たったことないじゃん」
「喧しい! 教育のなっておらぬ小童は黙っておれ!」
舌打ちしながらステネルスは己が周囲に嵐を起こしている神殿に追い風を起こさせ、ルフリウムへの進路を取る。
――だからここからは私たちの仕事。
「え?」
いきなり耳元、というか脳裏に響いた声に怯えてガローは四方八方を見回した。
なにも、いない。いるのは先行するステネルスだけだ。そのステネルスにはしかし、訝しむ様子もないから声は聞こえなかったのだろうか?
「ボ――」
ボス、と声を上げようとしたところでヒュッと喉が詰まった。
いや、喉だけじゃない。全身がまるで収斂したかのように引きつって、指先一つ動かすことができない。当然、翅も。
そして空を飛んだまま翅の動きが止まればどうなるかなど、語るまでもない。ガローは重力に引かれるまま大地へと落下し、ドウ、とそのまま地面へと激突した。
「? ガロー、ガロー!? どうした!」
羽音が聞こえなくなった事実に訝しんだステネルスが振り返ったときには、全てが手遅れだった。
地面に叩き付けられたガロー少年は、否。地面に叩き付けられるより先にガロー少年は息絶えていたのだから。
――掬いましょう。
――救いましょう。
――あらゆる魔術から、貴方たちを救いましょう。
ステネルスの脳裏に、声が響き渡る。
「なんだ、この声は……」
割れた頭蓋から血を流して倒れ伏すガロー少年の死因を調べようと、ステネルスは風の神殿を解いて着地しようとし、
――ここに降臨は為されるでしょう。
――子どもたちよ、喜びなさい。
――この
「いや、今神殿を解くのは何かが……」
すんでで踏みとどまった。
ガロー少年が一回も当たったことないじゃんと馬鹿にしたステネルスの勘が今、けたたましい警鐘を鳴らしている。
今、この場で神殿を解除するのだけは絶対にやるべきではない、と。
「すまぬガロー、其方の亡骸は後で回収する。だが今は――」
ステネルスは再び風を纏って大空へと舞い上がり、即座にルフリウム城目指して空を駆け抜ける。
何が起こっているのかは分からない。だが、恐らくこれがノクティルカ部隊が撤退した理由なのではないかと推察が及んだからだ。
――喜びなさい、子どもたちよ。
――貴方たちはもう二度と、魔術に苦しめられることはないのだから。
そうしてステネルスがルフリウム城の中庭へと着地すると、
「殿下、ご無事でしたか!」
中庭にて魔術の旗を掲げているラーマコスとその周囲にいる竜牙騎士団員たちが、ホッと安堵に胸をなで下ろした。
侵攻神である
恐らく頭の中で声が響いた瞬間から、彼らは意識を戦場のそれへと切り替えたのだろう。常在戦場と音に聞く竜牙騎士団のその判断が、どうやら彼らを正しく救ったようだ。
即座に【
「申し訳ありませんが殿下、今すぐ殿下の神殿でこのルフリウム城を覆って下さい!」
【
「何が起こった、ラーマコス」
問うステネルスに返されるは、ただ首を左右に振るだけの当惑と、そして深い悲しみだ。
「分かりません。ただ【
「なん……だと」
竜牙騎士団が? リュキアが誇る精鋭が何の前触れもなくいきなり絶命するなど――いや。だが実際にガローもそうやって事切れたのだ。
だから、
「我ら大地に蒔かれし竜骨、
聖句を唱える。かつて
身体の中に流れている神の血が熱を持つ。
身体が神代のころのそれに書き換えられていく。
「竜牙騎士団各員、今なら【
「了解です、騎士団長!」
即座にラーマコスの周囲に集っていた竜牙騎士団員が身体強化した速度で走り出す。
正体不明の攻撃を受けている今は、とりあえず守りを固めて生き残らなければどうしようもないのは誰の目にも明らかだった。
一人中庭に残ったステネルスはルフリウム城とその城下町を嵐で覆いながら、しかし胸騒ぎは全く以て納まらない。
恐らくこれで終わりではないだろう。今はまだ拮抗できているが――ここから先は一切が未知だ。
幸い竜牙騎士団は全員がエリートだ。異様を感知すれば対処を怠らない筈だし、実際こうやってラーマコスも生き延びている。
だが、ここから先は――
「何にせよ、生き延びるのが先決だ。ラーマコス、まだ魔力は持つな?」
「はい、殿下」
「よし、一旦【
ノクティルカが何故引いたのか? 答えは朧気ながらステネルスにも理解でき始めてきた。恐らく神殿を張って引き籠もるために、
これはノクティルカの攻撃なのだろうか? いや、だがこれをノクティルカが仕掛けたのならば撤退した理由は不明だし、だがノクティルカの仕業でないなら、彼らは何故撤退できたのか?
「これを生き延びた後には恐らくノクティルカの総攻撃が待っているだろう。地獄の始まりだぞ」
ひとまず今は生き延びることだ。
それから先のことは、生き延びてから考えればよい。
§ § §
「神子様、国境侵攻隊の収容終わりました。全員がこの首都ノナクリスに駐屯中。欠けはありません」
「ご苦労です。ランベール、貴方も休みなさい。我が次の命があるまでこのノナクリスからは出ないように」
「畏まりました」
恭しく頭を垂れたノクティルカ騎士団特殊第四部隊、通称【改編部隊】隊長ランベールは国の支えたる礎に頭を垂れて、その寝室から退室する。
自然体でベッドの上に腰を下ろした部屋の主はホゥ、と溜息を吐くと、胸元に抱えていたおくるみにそっと顔を埋める。
「この国には礎と【
胸に抱いた赤子はそう語りかけられてもすやすやと眠ったままで、眠ったままならこの子も天使なのだけど、とエテルナリアは唇をすぼませた。
全ては順調に進んでいる。エテルナリアの第一子こそは姉たるフォンティナリアと同様に外れだったが、今エテルナリアの腕の中にいる第二子は無事、礎を継承することができた。
これにてノクティルカの未来はしばらく安泰。であればノクティルカという国は容赦なく【
エテルナリアもまた、母アルテナリアがそうであったように今後は力を使いすぎて老いさらばえるまでノクティルカのために尽くすことになる。
否。
「宛がわれただけの男との間に産まれた子でも、産んでしまえば可愛いと感じてしまえる。生命というのも案外単純なものね」
子を成す相手の男すら自分で選べていないエテルナリアの人生は最初から最後まで、ノクティルカにとっての礎でしかない。
こんな人生を自分の子供に送らせてやりたいとは思わないし、何よりこんな人生を今後も続けていくことが楽しいはずもない。
だからこそ、
「お姉様、フォンティナリアお姉様。もうすぐ会いに行きます。このエテルナリアが会いに行きます。だからどうか、」
だから、どうかその手で私の命を――
「ほぎゃあ、ほぎゃあ!」
「ああ、ああ、泣かないでオルガ。お腹がすいたのね」
服をはだけ、泣き出した娘に乳を与えていると、脈絡もなく神子であるエテルナリアの寝室の扉が開かれて、
「授乳中だったか。まあいい、乳を飲んでいる間は泣きようがないしな」
子供の声など耳障りだ、と言外に告げながら、そろそろ四十路も近い男が平然と寝室へと踏み込んでくる。踏み込んできた男に、侍従たちが頭を垂れる。
茶色の髪を揺らしながら、藤色の眼に精力的なまでの意思をギラつかせたその男が、エテルナリアの夫にして次の礎オルガナリアの父親である。
「神子たるお前の【
楽しそうに語る男のそれは、
男とエテルナリアが礎を生んだことで、この男はノクティルカ一族としてエテルナリアに次ぐ発言権を得た。
もっともノクティルカという国は神子たるエテルナリアの予言に従いノクティルカ一族が調整して動かしていく合議制のため、男に権力らしい権力が備わったわけではないのだが。
それでも今の地位が楽しくて仕方がないらしい。というのは――
――俗な男ね。操りやすいからいいように使われているのに、それに満足している。
毒にも薬にもならない男を前に、エテルナリアには何の感慨も浮かばない。行為に至っていたときもそうだった。
それでもそうやってできた我が子を抱いてみれば可愛く感じるのだから、エテルナリアが失笑してしまうのも仕方ないというものだ。
もっとも、エテルナリアがこの男との間にできた娘オルガナリアに愛情を抱くのは、少しだけ複雑な事情もあるのだが。
「騒動が終われば、大幅に弱体化したリュキアに攻め込み、傲慢で賤しき
「――オルドレイクの生活環境は整え終えましたか?」
脈絡もなく異父子の状況を聞かれた男は、己の言葉を塞がれて一瞬不快になったようだ――が、自分の地位を支えている
「当然だ。礎を継承できなかった男子とは言え疑いなくお前の息子だ。一族の使命として何不自由なきよう暮らせるよう、手配は終えている」
「ありがとうございます。ただ、あまり甘やかさないようにはして下さいね。分別ある大人になって貰いたいので」
この男が信用に足るかはともかく、ノクティルカは伝統を重んじる一族だ。
だからオルガナリアの前に生まれた長男オルドレイクの生活環境は、恐らく一族の手で何不自由なく生きられるよう整えられているはずだ。
「号令については了解しました。形式のみですがこの私も陣頭に立ちます。それで皆はやる気になるでしょう」
そうエテルナリアが同意したことで、男は満足したようだった。
そのまま愛を囁くでも娘を愛でるでもなく、エテルナリアの自室を足早に立ち去っていく。どうやら娘が泣き出す前に退散したかったらしい。
「……世界中で大勢人が死んでいく中で、これを機と更に戦争を起こす。こんなことのために神になったわけではないでしょうにね、
だが、そう語るエテルナリアとて我欲のためにその戦を承認した。
第一の予言も、第二の予言もまだ消えることなく【
「さぁ天使よ、もっともっと殺しなさい。もっと世界に混乱を振りまきなさい。あらゆる国と組織が弱体化したその先でしか私の願いは叶わないのだから」
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