■ 268 ■ 神よ無辜なる民を救い給え Ⅰ






「ママ、おっきな鳥さんがいるよ」


 最初にそれの存在に気がついたのはアルテイル大陸にある、闘神教アルス・マグナ本部神殿を中心に発展した貴族国家アルセウス首都アルテリーベの、どこにでもいる普通の子供である。


 今年七歳になる、可愛さと我儘さと小憎らしさで出来上がっている我が子の指し示す指の先。

 空に浮かぶ影は確かに鳥のようにも見えなくもないが、


「鳥、じゃないわね。何かしらあれ」

「鳥だよ、翼あるもん! お母さん頭悪いんだぁ」

「お馬鹿、鳥は一対しか翼がないものなのよ」


 三対六枚の翼を備えたそれは、ではいったい何なのだろうか。


「もしかしたら魔獣かもしれないわ、騎士団に連絡を入れておきましょう」


 母親にそう聞かされた少女は露骨に顔をしかめた。


「えー、き士団って偉そうに私たちを怒鳴ってばかりいる嫌な奴でしょ、私会いたくない」

「魔獣はもっと嫌な奴なのよ、お前みたいな悪い子なんてガブッと食べられちゃうんだから」

「私いい子だから食べられないもん」

「いい子っていうのは一度食卓についたら食べ終わるまで席を離れない子のことをいうよ。ガオー、食べちゃうぞ!」


 そうやって子供に百面相してみせた母親であったが、



――やり遂げてくれたのねミカ。


「え?」


 急に頭の中に声が聞こえてきて、キョロキョロと周囲を見回した。

 道行く人たちに自分らを見ているものはおらず、誰もが銘々の用事に従って店を、職場を、我が家を目指して歩いている。


「ママ、どうしたの?」

「声、聞こえなかった?」

「声? だれの?」


 どうやら娘には聞こえていなかったようで、では雑踏の誰かの声か、と意識を買い物かごに戻そうとして、




――掬いましょう。

――救いましょう。




――あらゆる魔術から、貴方たちを救いましょう。




――ここに降臨は為されるでしょう。




――子どもたちよ、喜びなさい。




――この封魔神オーディナリスが以後、貴方たちをあらゆる傲慢から救うでしょう。




――喜びなさい、子どもたちよ。




――貴方たちはもう二度と、魔術に苦しめられることはないのだから。




「誰、誰なの。私に話しかけているのは誰!?」


 そう狼狽し声を上げる母親を通行人たちが狂人でも見るかのように敬遠し始めたところで、


「偽りの天秤、血塗れの剣」


 脳裏に、抑え難い言葉が閃き、自然とそれを口にしてしまう。


「そのの上に光輪無きまま王権を騙る虚飾の道化」


「ママ、何を言ってるの? ママ!?」


 娘がしがみついてそう聞いてくるが、自分でもわからないのだ。だが、それが己に必要な言葉だというのは分かる。

 これは、自分に必要な力なのだと。


 急に、幼い頃の記憶が甦ってくる。

 幼い頃にいなくなった兄の記憶。

 七つ年の離れた兄は自分が八歳だった時分に、貴族の名誉を汚したという理由で連行され、帰らぬ人となった。


 それが言いがかりであることは分かっていたのだ。だって兄はその前日の晩に、暴漢に襲われていた女性を助けたのだと胸を張っていたのだから。

 だから防寒というのが貴族であることは明らかで、なのに父も母も兄を弁護しようともしなくて、だから兄は殺されてしまって。

 父と母をその時こそ恨んだものだが、大人になった今なら両親はせめて自分を巻き込まないように無抵抗を貫いたのだと分かれてしまう。

 自分も、人の親になったから。

 だけど、


「汝の蒙昧を此に祓わん」


 許せない思いがある。

 消し難い怒りがある。

 許しがたい悪がこの世界にはあるから。


――だからこの聖句は、私に必要なものなんだ。


「我は富貴を人に与えず」


 だから、その女性は聖句を唱えきって、そして、


「ママ……ママ?」


 糸の切れた人形のように、いきなりその場に倒れ伏した。


「ママ、道の真ん中で寝ちゃダメなんだよ」


 娘が母の体を何度揺さぶっても、その女性はもう目を覚まさない。

 覚ませないのだ。死人にはもう、二度と目を開くことはできないのだから。


「ママ、ママ!」


 なんだなんだ、と人々が親子の周りに群がって来ると同時に、空から柔らかな光が降り注いで、アルセウス王国首都アルテリーベを包み込んでゆく。


「天使?」


 誰かがそう、空を見上げて呟き、それにつられて多くの人が空を見上げれば、ああ、確かに。


「天使……」

「天使だ……!」

「天使が降臨しているぞ! 神が我々を救うために新たな天使を遣わしてくれたんだ!」


 信心浅く、然るが故に天使というものを漠然と神の使い程度にしか考えていない庶民が天を見上げて喝采の声を上げる。

 真にその天使に救われるべき者の脳裏にのみ聖句が届くのだと、即ち聖句の届かなかった者はその天使に救われることはないのだと。


 そういう事実など知らぬまま、これで自分たちは救われるのだと無邪気に喝采する。

 足元に倒れている、自分と同じ同胞などには全く目もくれず、


「ねぇママ、ママが目を開けてくれないの。私、どうすればいいの?」


 救いを求めている幼子の声など耳に入らないかのように、ただただ無邪気に喝采する。


 そんな城下町の熱狂を諌めるはずの騎士団はいつまで経っても姿を表さない。その理由にも気付けず、市街は希望と喝采に呑まれていく。


 自分たちが何かを成し得た訳でもないのに。

 自分たちは救われるに足る存在だと信じて疑わず。

 今、自分たちの頭上にいる天屍がどう死んだのかなんて、想像することすらもできないまま、虚ろなる喝采だけが世界を満たしていく。











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