■ 276 ■ 天使が墜ちたその先で
「ジィ、大丈夫?」
そうして、ラジィ・エルダートが目を覚ますと目の前にはティナの心配そうな顔がすぐ側にあって、
「不用心よお姉ちゃん。目を覚ましたのが私じゃなくてミカだったらどうするつもりだったのよ」
ラジィとしてはつい苦言を呈してしまう。
ティナに対する一言目が常にお説教となってしまうのは――そういうことを最初に言いたいわけではないのだが。
「何にせよ、私を助けに来てくれてありがとう、ティナ、シンルー、ガレス。貴方たちのおかげで助かったわ」
「いやー、それほどでも無いというか……」
「仲間を助けるのは当然の話なのだ」
「あまり俺は役に立ててはいないがな。ジィが無事でよかったよ」
チラ、と横を向けば、ラジィの横にはクィスが寝かされていて、まだ目を覚ましてはいないようだが人の姿で胸が上下しているから、多分問題はないのだろう。
「マルクも、イオリベも。巻き込んでしまってすまなかったわね。クリエは――」
やはりクリエルフィは殺されていたと、可能性としては捉えていたが改めて突きつけられた現実に、やはり心は痛む。
「神殿の外に出る以上、何より【
そう応えながらも、やはり悔しさは隠せないのだろう。マルクが沈痛な面持ちでそう述べ、
「戦い果てて生還叶わぬもまた戦場の習い。危険は承知の上なのです」
イオリベは乱波として神殿を旅立ったときから、進んでそう在りたいかはさておき死の危険と隣り合わせは当然と涼しい顔だ。
ゼルは――召喚者たるヤナが死滅したためだろう。
その長躯は既にこの鍾乳洞には影も形もなく、然るに次なる子供の呼び声に応えた、といったところか。
「……私がこの世に在るせいで、多くの人が死んだわね」
天使でありながら神にもならず、人のふりしてラジィが今も生きているから、ラジィはミカとアズライルに利用された。
もっと早くにラジィが自殺でもしておけば、このようなことにはならなかったのだ。
「ですが主さま、天使は一時代に一人です。主さまとクィスがここに揃っていなければ、ミカは今ごろ
フィンの言うことも事実ではあるのだ。ラジィが仮に自害していたとして、そして次に生まれることとなった天使はどう判断しただろう。ミカに賛同し、喜んで
ラジィだからこそミカの企みを打ち砕けた。その一面を無視してラジィを非難するのは傲慢の誹りを免れ得まい。
「ゼルの気持ちが、私には痛いほどよく分かるわ」
神になって人を救うために生まれてきたのに――救うはずだった者は全てこの掌からこぼれ落ちていく。ラジィ・エルダートには誰も救えない。
――やっぱり貴方は嘘つきよ、ディー。
誰かを消し去ることで得られる幸せは悪だ、とツァディは言った。人を消すことで得た価値を幸福と認めることこそが巨悪なんだと、だからラジィが生きることは疑いなく正しいことなんだと。
「正しい事をやれているなら、どうして私は胸を張れないのかしらね」
ヤナという、自分より幼い子供を、いくらヤナが望んだからとて使い捨てにして、ラジィは生き残った。
ヤナの主張には納得したし、だからその道行きを支えたのだが――結果として残るのはヤナを殺して自分が生きているという現実だけだ。
「あの子のことで自分を責めるなラジィ。彼女は守られる立場より戦士であることを選び、その生き方に殉じたんだ。魔術師として誇るべく生きたいっていうその心は俺にはよく分かる」
ガレスが嗜めるどころか責めるような口振りでそう忠言してくれるのは、だからその通りなのだろう。であれば、クヨクヨしてなどいられない。
汝
何時までも寝てられないな、と鍾乳洞の床に手を付いて身を起こそうとしたラジィは、自分の掌から伝わる感触に首を傾げたのち、思いっきり顔をしかめた。
ラジィが手を付いたのは床では無く、自分自身の背中から生えている翼の、その羽毛だ。
背中に意識を向けると、ラジィの意図に従って翼が動いたのが知覚できる。
三対六枚。まだラジィの背中には淡い光を放つ翼が残されたままで、
「もしかして、私の頭上って……」
「はい、主さまの頭上からはまだ光輪が消えておりませぬな」
フィンの返事にやっぱり、とラジィは深い溜息を吐いた。そっと視界を塞ぐ髪を払えば、その髪色こそ黄金から純白へと戻っているようだが――未だラジィの身体は天子としての特長をそのまま残しているようだ。
「これでもかとばかりに上書きしてやったつもりだったけど……まだミカの意思も完全には消滅してないわね」
ラジィはラドゥエリにやられたお返し、とばかりに【
だから天使ラミの肉体は今、ラジィの意識で運用されている。
だがそれでも、天使ラミの肉体はラジィの脳とミカの脳を内包したものであり、同一人物内に納まっているとは言え、人の思考とはある種の結界でもある。
自分の中に――というよりこの天使ラミの中に収まっているミカの部分にまでは、それが専門であるラドゥエリ程にはラジィでは影響を及ぼせない。塗りつぶすことができていない。
「体積で言えばこの身体はミカの部分が多い筈だけど、さて。私の意識が勝っているのは私が当代の天使だからか」
ミカとラジィの肉体を混ぜ合わせて再構成されたこの身体は、だから厳密には既にラジィでもミカでもなく、未だ天使ラミなのだ。
然るに、ラジィがアウリスから
「ガレス、これいる?」
ふと尋ねてみても、コルンにおぶわれたガレスは
「それはラジィのだ。俺は脚が動かないだけで他の生活は普通にできるしな」
躊躇などせず首を横に振る。
然るにラジィが力が入らず震える手で最後の
「あ、眼開いちゃった」
「うわぁ、恐怖四眼娘だぁ」
眉毛が二つに分かれ睫毛となって開けば、そこからもう一対の眼がギョロリと赤い瞳を覗かせる。
ラジィの瞳の色は青に戻って元の位置に納まっているから、これはだからミカの瞳だ。
天使ラミの肉体の中で、ミカという意識はまだ死んではいない。
残るミカの意識が何としても臨界を続けさせようと粘っているから、この肉体は神臓を抜かれてなお人の姿まで回帰できていないのだ。
万能の薬である
もはやラジィは今のこれが健全体、完治すべき状態が今のこれであると
「流石に数百年を生きた天屍、しぶといとしか言い様がないわ。いや死んでるけど」
立ち上がったラジィは上の双眸を閉じると二度三度と拳を振り抜き、次いで【
問題は――なさそうだ。この天使ラミの体躯はラジィの意志に従って動き、身体強化も問題なく作用する。
主導権は完全にラジィのほうにある。神臓も失った上に、既に過去の天使でしかないミカでは天使の体の主導権争いでラジィには勝ち得ないようだが、
「油断はしない方が良さそうね」
ラジィの意思が緩めば、逆にミカがこの身体の主導権を奪いに来る可能性は――低くはないだろう。
「これは痛み分け、というところかしらね。アズライル」
そうして、最後まで輪縁石が織りなす棚田のような祭壇の上から一歩も動かなかったアズライルに、そうラジィは問いかける。
「……総合的には、此方の負けだろう。ミカら天屍たちの宿願を叶えてやれなかったのは無念の極みだ」
当初の計画を変更し、狙いをノクティルカから当代の天使に移そうと提案してきたのはミカだが、承認したのは己だ。
そうアズライルが、静かに眼を閉じて神になり得なかった天屍たちに黙祷を捧げる。
「そう言えば、ミカの神臓は? ティナたちが回収したの?」
そうラジィが周囲を見回すと、ティナがある地点を指で指し示し――しかしその先には何もない。
「神臓はな、
「……元々が死せる天使のそれを、無茶な使い方をしたのだ。壊れるのは至極当然のこと」
今ごろ他の天屍たちの神臓も同様に、僅かな衝撃で崩れ落ちてしまう状態だろう、とアズライルは言う。
「それもそうか。というか天使が死んだ時点で数百年も経った神臓なんて普通、使い物になる筈ないんだけどね。貴方、流石に
「……研究と、鍛練を重ねたのでな」
そうやって丹念に神に届かんと積み重ねたアズライルの祈りの塔を破壊したのはラジィであり、【
そしてミカが踏みつけにした、ヤナという呆れるほどに弱い一人の魔術師だ。
ヤナというちっぽけで貧弱な魔術師が、アズライルとミカの企みを水際で阻止してのけたのだ。
「……悲願は成就せなんだが――これで人の世も大幅に変わろう。概算で恐らく魔術師の九割九分は朽ち果てたはずだ。魔術師を頂点とした社会は、これで確実に崩れ去る」
「そうね。その一点においては完全に私たちの敗北だわ」
これからのことを考えると、ラジィとしては頭が痛くなってくる。
「現時点のこの大陸における、魔獣と相対する最強の戦力が冒険者って世界だなんて……
冒険者はその大半が
となると世界各地の民は魔獣の暴威から身を守るために冒険者たちに頼らざるを得なくなるわけで――そうなればどうなるかは、先の
最大の武力を有するのが破落戸という、ろくでもない現実だ。だがそれでも、
「……生まれで未来が定まる世界よりかは、遙かに均等な世であろう」
「そう言われちゃうと言い返せないわ」
ラジィはそう額を押さえて項垂れた。魔力無しは魔力持ちにはなれないが、庶民が冒険者としてランクを上げることなら誰にでもできる。
少しは人の世の不平等が解決されたと、前向きに考えるしか無いのだろう。
「アズライルは、この先どうするの?」
「……無論、次の機会を待つのみだ。この身はその為にこう在るのだから」
やはり、とラジィは頷いた。アズライルは再び死せる天使を集め、また同じことを繰り返すのだろう。
だが複数の天屍を集めなければならない都合上、それはどうやっても数百年は先のことになる。
「まだ諦めていないとか、流石だわ。頑張って、としか言い様がないわね」
「ジィ、この人放置していいの? これだけの虐殺を企てた人なんだし、ここで仕留めておいた方が良くない?」
そうティナが尋ねてくるが、ラジィとしてはやる気も起きないという話だ。
「殺そうとして殺せる奴じゃ無いわ。そこにいるアズライルは端末よ、というか本体なんてどこにもないんでしょ?」
「……流石に、賢いな
またとんでもない話が出てきたぞ、とティナやマルク、ガレスたちが顔を見合わせる。
ラジィとしては概ね予想できていたので今更驚くことでも無いが。
あのアズライルはあの場所から動かなかったのではない。そもそも動けないのだ。と言うか口を動かすだけでも億劫なのだろう。
「……私の死体は大地に撒かれ大地に帰り、しかし
「無茶苦茶な理屈よ、それ」
一体どういう死体の改造をすれば、このような存在が出来上るのか。ラジィから見ても全く見当がつかない未知の技術だ。
狂気の果てに組み上げられた奇跡が、このアズライルという死屍にして
「まぁいいわ、じゃあねアズライル。もう会うこともないでしょう」
「……そうだな。御身の身柄を回収しても我が望みと束ねるには能わぬ故」
この世に生きる人のために神になることを諦められるラジィは、だからアズライルの未来と交わることはない。
故にラジィとアズライルは、この先二度と出会うことも話をすることも無いだろう。
「……善き生を、当代の天使、ラジィ・エルダートよ」
「もうそれ無理って分かって言ってるでしょ」
フィンの背中にクィスを乗せ、
「ああ、彼女たちも今度こそ葬ってあげないと。構わないわね、アズライル」
「……ああ、丁重に葬ってやってくれると嬉しい」
もしかしたらそれはミカからの干渉だったのかもしれないが、死してなお天使の為に戦ったイサクとシェディの死体を、ラジィはそのままにしておけなかった。
イオリベとマルクに、それぞれが屠った二人の亡骸を回収してもらい、
「帰りましょう、リュカバースへ」
ラジィたちは地上を目指して歩き出す。
世界が、人界がどうあるにせよ、今はまず【
全ては、リュカバースへと帰ってから考えればよい。
世界の舵の切り方に対応するには、ウルガータ等も交えて話をしなければならないのだから。
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