■ 275 ■ ヤナ






「ゼル、お願い」


 そう求めるヤナに対し、ゼルは小さく首を横に振って要求を拒絶する。


「駄目だ。私に子供は殺せない」

「子供扱いしないで。あたしはもう立派な淑女レディよ。ゼルは知らないかもしれないけど、舞台の上で大勢を魅了したことだってあるんだから」


 胸を張って笑うヤナの笑顔が、しかしゼルにはどうしても受け入れがたい。

 そういう顔を浮かべさせないために、ゼルは神になったのだ。小さな村で共に育った友人たちを救いたい。そう思ったからゼルは神になったのに――


「神になったのに――私の掌には何も残らない。救うはずだった者は全てこの掌からこぼれ落ちていく」


 ゼルが呆然とイサクの両断された死体と、焼け焦げたシェディの死体と、天使ラミと、そしてヤナへと視線を移す。

 救わなければならないはずだった。その為に呼ばれた。なのにゼルはミカを救えず、そして今ヤナも目の前で失おうとしている。


 厳密に言うなら、ゼルが救えなかったのはミカだけではないのだ。

 その長い神としての歴史の中で、ゼルの目の前では大勢の子供たちが死んでいった。


 救ったはずなのに、敵国の兵隊に殺された。

 救ったはずなのに、その子の親に殺された。

 救ったはずなのに、救った子供たち自身が殺し合いを始めた。


 救って。

 救って。

 救って、救って、ずっと救ってきたはずなのに――ゼル・エルヴァンシュタインは神になってなお、誰も救えていない。


「ゼルはあたしを救ってくれたわ。あのときミカからゼルが救ってくれなかったら、あたしはあの場で無駄死にしていたし」

「私はヤナを死なせるために救ったわけではない」


 悲痛な顔で首を振るゼルに対し、だけど当然の顔でヤナは笑ってみせる。笑うことができる。

 だってそうだろう。


「人はいつか死ぬ生き物よ。であれば生きた死んだの話なんて結局、自分が望むように自分の命を使えたか、ってことじゃない」


 そう、人は死ぬのだ。ゼルが助けた命だって五、六十年も経てば老いさらばえて朽ち果てる。

 ゼルが救った命は結局死に果てるのだ。一人の例外もなく。


「あたしが、あたしの意思で、あたしの望むようにあたしの命を使うの。それを止めるって言うのは、それはあたしの人生を殺すってことよ。そうでしょう?」

「――ええ、その通りだわ」


 ヤナの問いに、ゼルではなくティナを動かしているラジィが頷いた。


かつえる民に温もりを、難き道行きに安寧を。人が望む生き方を支えるのが地母神教マーター・マグナの聖務。人を殺す手伝いはできないけどね」

ミカひとを殺すためじゃないわ。天使を止めてクィスを助ける為よ」


 傲然と胸を張るヤナに、ラジィとしては苦笑するしかない。


「ものは言い様ね。ゼル、銃を貸して頂戴。それと天使弾も」


 ゼルが撃てないというなら、この役目は天使にして地母神教マーター・マグナたるラジィ・エルダートの役目だ。

 このお役目は誰にも譲れない。まだ十三歳ほどの子供をこの手で死なせることなど、只人にやらせてはいけない。難き道行きは常に、地母神教マーター・マグナ徒の為にある。


「只人にそれが成せぬというなら、私がそれを成しましょう。貴方にとってこの道行きが、後悔なきものでありますように」

「道は前にだけ続いているものじゃないんだから。後悔のない道なんてないわ」


 ヤナの言う通りだ。爪先の向かう先にも道はあり、しかしこれまで歩いてきた道もまた消えてなくなりはしない。

 だから何時如何なる時だって、振り返れば後悔はそこにあるのが当たり前なのだ。


 だけど、


「今あたしは、もっとも後悔の少ない道を選んでるんだって、それだけは断言できる」


 恐怖はある。後悔もある。逡巡も、絶望も、怒りも、悲しみも。

 だけど、


「あたしたちはチームだもの。一人だけを戦わせて高みの見物なんて、してられるわけないじゃない」


 クィスを一人で戦わせるのは可哀相だ、というその主張にラジィたちはひどく、眩しいものを見たような気がした。

 人という生き物がどうあるべきか、どう生きるべきなのか。その鑑をこの小さな少女の中に見出したのだ。


「立派な覚悟だわ、貴方。地母神教マーター・マグナに欲しいくらいよ」

「駄目よ、私は機動小隊ライオットスプラトゥーンだもの」


 ゼルから奪い取った銃身に火薬を、そして天使弾を装填して、狙いは過たずヤナの心臓へ。


「では、命令が必要かしら」


 ラジィの問いに、ヤナは苦笑しながら首を横に振った。


「最後の命令を遂行中なのよ。リュカバースマフィアに負けました、すみませんって報告をママ・オクレーシアに届けなきゃ」

「そう。なら助言だけに留めるわね」




 そうして、ほんの僅かな助言を伝えた後に、ラジィは引金を引いて――




 三体目の神が、地の底で臨界を開始する。




      §   §   §




 ズグン、とヤナの内臓がまるで別の生き物にでもなったかのように、ヤナの体内で暴れて踊る。


「あ、ギ、が、ガァアアアアアッ!!」


 たまらずに膝をついた。精一杯の誇りで、それだけで耐えた。

 本当なら泣きわめきながら、鍾乳石の床の上をみっともなく転げ回りたいほどの激痛。口から胃液と唾液がない交ぜになってベチャリと足元に落ちる。



 恐怖がある。生きたまま肉体を作り換えられる恐怖。自分が自分でなくなる恐怖。


 後悔がある。こんなものに耐えられると楽観視していたさっきの自分のツラを張り飛ばしてやりたい。


 逡巡がある。全身をバラバラにするような苦痛に耐えながら、本当に自分は戦えるのか。ただ無駄死にするだけなんじゃないかって。


 絶望がある。命の壊れていく音が聞こえる。ヤナという個体が無理矢理に変形させられ、その在り方すら歪められ、徹底的に陵辱されているのが分かる。


 怒りがある。なんでこんな死に方をしなければいけないんだって、この筋書きを描いたミカ・エルフィーネという故人に対する押さえがたい赫怒が溶岩のように煮えたぎっている。



 だけど、それより何よりも悲しみがある。こんな天使なんかを臨界させるために、ヤナは第一分隊ファーストスクワッドの仲間を失い――

 そして今世界中で、数多の人がそれぞれの知己を失っている。ヤナのように仲間を喪っている。全世界規模で、喪われている。



 だから、ヤナは震える膝を叱咤して立ち上がれる。



「こんな、痛み程度で……!」



 この先にヤナの安寧は無い。だけど歯を食いしばれる。


 この先にヤナの期待は無い。だけど強く在ることができる。


 この先にヤナの決断は無い。あとはただもう、死にに行くのみ。


 この先にヤナの希望は無い。だけど小さく儚い夢なら抱いて逝ける。


 この先にヤナの喜びがあるから、前を向いてただ一歩、足を踏み出して先に進める。




 だって、この先には愛がある。




――ヤナくらいの年で妖艶な気配を纏ってたらそれは逆におかしいまであるよ。でも、うん。ヤナも凄く可愛い。


 我ながら単純だとはヤナ自身も思っているのだ。

 可愛いだなんて、サリタにもコルナールにも言っている癖して。ヤナはおまけの三番目。それでも。


――うん。ヤナは賢い子だ。これ一回言って分かる奴はかなり少ないんだよ。


 学がないことなんて分かりきっているのに。傍目にも賢くなんて振る舞えない。

 頭のいい人を嫌悪して、教育を受けられているヤツに嫉妬して。そんな無能をしかし、賢いと言ってくれて。


――いいじゃないか。モグラ、強いし有能だし。


 ディブラーモールなんて、最弱の魔獣だって。そうこき下ろされて生きてきて。

 そんなヤナが魔術を見せる前からその強さを認めてくれていたのは、後にも先にも一人しかいなくて。


――お疲れ様、ヤナ。凄いじゃないか。皆が君に釘付けだ。


 自分の給料じゃ手の届かない衣装を二度も着ることができた。

 親の顔も知らない孤児が、金貨で着飾って羨望の眼差しを一身に集めることができた。


――ありがとうヤナ。舞台の上に立った君は凄く魅力的だったよ。君は何にだって成れるんだって、その事実を持ち帰ってくれると祭りの主催者側としてはとても嬉しいかな。


 だから、仕方ないじゃ無いか。

 好きになったって。

 恋に落ちたって。


 たとえその人の愛情が自分では無く、その横、すぐ傍らにいる娘に向いていると分かっていたって。

 べつに、いいじゃない。


 誰かのために、何かをしてあげたいって。初めて思ったのだから。

 自分自身を喜ばせるためじゃなくて、他人を喜ばせるために何かをしたいって、初めてそう思ったのだから。

 その人の横に立ちたい、並び立てるようになりたいって、そう思ったのだから。


 だから、


「――戦エる」


 確信があった。

 この身体は、今にも激痛でバラバラになってしまいそうな、今も自分の腹の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜているこの身体は――それでも、戦えると。


 天井を睨む目が霞む。視力はさっきから不安定で視界が明滅している。

 だが視力以外の何かが天使ラミと神竜クィスの位置を捉えている。同じものだから、感知できる。


 落とすべき天を睨め上げれば、ヤナの背中からバキリと小枝のような骨がつきだしてくる。

 突き出でた骨は柔らかな羽毛を纏って、七色の神々しい光を蓄えて大きく広がる。


 それを知覚してしまったことで、どうしようもなくヤナという人間が壊れていくのが手に取るように分かった。

 この身体は戦える。だがこの身体が動くのは恐らく、あと指折り十を数えるほどにも満たない。


 右手に五本、左手に五本。その指を順に折り畳んでいっただけの後に、ヤナはどうしようもなく壊れて果てる。

 でも、その短い時間だけが、


「あタしガ、この手デえらんだ、未来だから……!」


 肉体の暴走を、意思の力でねじ伏せる。正確にはねじ伏せた気になっているだけで、今も身体は壊れて死にゆく。

 だけど、この花道を、言葉も思考も無様なままでは渡れない。絶対に無様は晒せない。


 何かを求めるように突きだした両手の指を折り曲げて拳を握りしめれば、代わりに翼が神気を纏いて出番はまだかと猛り狂う。



 見上げれば、視界の先で天使が踊る。もはやその飛行速度は眼にも留まらず、全身を赤熱化させて音をも置き去りに。

 両手の聖霊銀剣で竜の身体を、翼を、爪を牙を切り刻んでいる。


 まだだ、まだ隙が無い。今飛び込めば技術に負ける・・・・・・

 ミカ・エルフィーネは元魔術師だ、元神殿騎士だろう。身につけた剣技の、その技の冴えにはヤナ如きでは及ばない。

 同じものになったところで、いや、なったからこそ強い方が勝ち、弱い方が負ける。



 だから、その時をずっとヤナは待つ。



 クィスは、ヤナにはヤナの戦い方があると言った。そしてヤナの戦いとはずっと、地中で機を待ち続ける類のものだった。

 我慢こそが、堪え忍ぶことがヤナの戦いだった。美麗な聖霊銀剣を振り回すような戦いとは無縁。最初から最後まで泥臭い泥まみれがヤナという魔術師だ。


 だから自分が壊れていく中でも、刻一刻と死にゆく中でも、ヤナは平然と待ち続けられる。

 自分の命を無駄に浪費しながらなにもせず、そっとその時を待ち続けられる。それが己の戦い方であると知っているから。


 そうして、


 だから、


 同じ存在ものになったはずなのに。

 いつまでも攻めてこない地上のそれを天使ラミが警戒して、たかが雑魚ヤナごときに注意を割いてしまったその瞬間が、ついにヤナが勝ち取った一瞬の機だ。


「グォアアアアアアアッ!!」


 神竜クィスが、大きく顎門を開いて天使ラミへと齧り付かんとする。

 開かれた顎門を難なく躱し、天使ラミは無防備に晒された目玉へと容赦なく右手の聖霊銀剣を突き入れて、その内側をズタズタに切り刻む。

 だが、


――アァアアアアアアアァア?


 ぱちり、と人にあらざる器官が、天使ラミの右腕を縫い止める。

 瞬膜という硬質の保護膜と目蓋の二つで、天使ラミの腕を挟み込んでその動きを止めて拘束する。

 その上で神竜クィスの両前足が天使ラミの翼を纏めて鷲掴みに握りつぶして動きを止める。


――クィスが、やれって言ってる!


 だから天使ラミの動きが止まったその瞬間、迷うことなくヤナは床を蹴って飛び上がった。

 大きく広げた翼が撓む。初めて操る翼ある身体だが、既に神臓の欠片に余すところなく汚染されていたヤナは、だから手に取るようにこの身体の使い方を理解していた。

 空気と音を切り裂いて、


「我は毒にして人の罪なり。毒を制する力に焦れて心を喰らいし罪の証なり」


 聖句を、唱える。

 獣を喰らいて獣に堕せし、罪人が語る懺悔の謳を。


 聖句が、信じられないほどに身体に馴染む。身体強化の出力が桁違いに跳ね上がる。

 まるで不当な手段で天使の力を得た・・・・・・・・・・・・・今のヤナこそがそうであるかのように・・・・・・・・・・心呑神デーヴォロの力を引き出してくれる。


「贖罪のために魔を駆逐する、人ならざりし異形なり!」


 人の姿を捨てたヤナのその手に、鋭い爪が構築される。

 土竜モグラの爪を、鋭く伸びた爪をどこにねじ込めばよいか、同じ存在であるからこそヤナははっきりと分かる。神臓の在処が分かる。


 天使ラミが迫るヤナに向けて、残る片手の聖霊銀剣を振り抜いた。

 音より早く駆ける刀身を、音より早く天使ラミに迫っていたヤナには躱せない。

 だが、そもそもからして躱す必要などないのだ。ヤナの身体は攻撃を受けるまでもなく、もうどうしようもないほどに壊れきっている。


 だから究極的にはヤナにとって、腕一本さえ首の下にぶら下がっていればそれでいいわけで――然るに、そんなヤナの捨て身の一撃を天使ラミは躱せない。


 重力に従って落ち行く胸から下にヤナは一瞥もくれず。

 ただ己が右手首から先を天使ラミの肉体にめり込ませた状態で、




「【接続コンタギオ】」




 ラジィから受けた助言に従って、ヤナは一言を唱え。

 それがまるで魔法のように、ビクリと天使ラミの動きを硬直させて封じ込める。



 ラジィがソフィアにそうしたように、ミカがラジィにそうしたように、相手の体内に入り込んでの魔力操作は自分と他人の境界があやふやになる。

 ましてや今のヤナは天使であり、そしてラジィとミカが融合したラミは紛う事なき天使であるからこそ、ヤナの魔力行使を・・・・・・・・天使ラミは己のそれだと誤認する・・・・・・・・・・・・・・・


――繋がったわよ私の肉体! もう勝手は許さないんだから!


 ラドゥエリからの干渉を遮断するため、これまで天使ラミの肉体と接続されずに自律稼働していた【霊算機マシヌラ・カリキュメトリア】がついに、本来の肉体と接続する。

 【霊算機マシヌラ・カリキュメトリア】はあくまで魔術であり、そして魔術は自主的に魔術を使えない。故にラジィは自らの肉体に働きかける術を持たなかったが――肉体のほうから要請があれば話は別だ。

 演算としてのラジィの思考、【霊算機マシヌラ・カリキュメトリア】として演算要素として組み上げられていたラジィの記憶を、一気に天使ラミの肉体のほうへと【写本トランスクリーヴォ】していく。


――アァ、ア、アアアアアアアァアアアアアァアアアッ!!


 天使ラミが苦悶の声を響かせる。

 これまでミカの思考で運用されていた天使ラミに突如として、ラジィの思考が割り込んできたのだ。


 神になりたいと願う思考に、神になってはいけないという思考が同等質量でぶつかり、競合し始める。凄まじい自己否定が、天使ラミの臨界を阻害する。

 そうやってミカの思考がラジィの思考を否定することに全力を差し向けてしまった、その瞬間に――


「この神臓、貰ってくわ」


 勝負はもう決まっていたのだ。


 ヤナの長く伸びた鋭い爪が、抵抗力の弱まった肉体の中にある球体を掴んで、ズルリと天使ラミの肉体から抜け落ちる。


「ごめんなさい、ママ・オクレーシア。リュカバースの魔術師を、あたしは殺せませんでした」


 もはやヤナには翼を広げて遊弋するだけの力も残されていない。全ての力を握力にのみつぎ込んで、神臓を握りしめたまま、


「皆、いい奴で……恋も、してしまって……そのご報告に……いま、あたしもママと同じ……とこ…………」




 限界を超え、ボロボロに崩れ去ったヤナの肉体は隙間風に散らされて、地に落ちることはなく。

 天使でもないのに天使の力を得ようなどという、神を愚弄した者に亡骸など残すものかと言わんばかりに。



 そうしてカツン、とミカの神臓だけが鍾乳洞の床に落下して、粉々に砕け散った。






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