■ 211 ■ リベル
そうして、乾ききった目蓋を擦って立ち上がったクィスが再びマフィアとしての顔を取り戻して、血だらけの身体を引きずりながら裏路地から出ると、
「クィス兄、こんなところにいたのか!」
レンティーニファミリー見習いのコニーが青い顔でクィスへと駆け寄ってくる。
その尋常ならざる剣幕から、クィスはのっぴきならぬ事態が起こっていることを嫌でも察知せざるを得ない。
「どうした、何があった」
「分からない、何があったのかも。ただ魔術師関連のことだから、ひとまずクィス兄とティナ姐さん、あとマルクを呼びに皆散っている」
ティナとクィスは分かるが、そこでラジィの名がなく、替わりにマルクが呼ばれているのは――
「ジィに、何かあったのか?」
ラジィはクリエルフィと共に教会に予備のポーションを取りに向かったはずだ。
クィスの心臓が、嫌な焦燥と共に早鐘と化し始める。自分は何か、とんでもない失敗をしているのではないかという漠然とした不安。
それが、
「分からないんだ。誰が、何の目的でこんな、こんな――」
§ § §
「クリエ……ルフィ……?」
商店の壁を背に、路肩に腰を下ろしている少女を見やって、クィスはそう呆然と言葉を紡ぐ――いや、紡いでいるという認識すらない。
不安がこうして形となって表われているのに、目の前の現実が認められなくて、ずしゃりと石畳の上に膝を付いてしまう。
「どうして、こんな……」
クリエルフィ・テンフォリスは胡乱な目で虚空を見つめたまま事切れていた。
その心臓には愛用の聖霊銀剣が深々と突き刺さっており、血の池の上にそっと腰を下ろして、もう己では閉じられぬ瞳を空の彼方へと向けて事切れていた。
「八人目か?」
そうクィスが問うも、黒服の一人が首を横に振った。八人目には、小隊が発覚して以降常に見張りを付けてあり、それから連絡がないということは八人目はこの件には関わっていない、ということらしい。
「ジィは……どうした」
「周囲を捜索しているけど、誰もまだジィを発見できていない」
この場を確保していたヒューゴがそう、血の気の引ききった青い顔で報告する声は、幼子のように震えていた。
無理もない、このリュカバースでクリエルフィの矯正に携わった、クリエルフィと恐らくもっとも親しい友人がヒューゴだったのだから。
ある意味クィス以上に、この現実を認められずにいるのだろう。
現実から逃避するようにクィスはせめて剣だけでも抜いてやろう、とクリエルフィの身体に手をかけて――そして気が付いた。
クリエルフィの背後に、よく見なければ分からないが未だ魔力を神気に編んで形作られた何かがあると。だから、
「お嬢様!!」
別のソルジャーに呼ばれたのだろう。マルクがヒューゴたちを押しのけて駆けつけて来る様は正気を失ったイノシシのようで、だから慌てて、
「マルク、止まれ! クリエルフィが残した手掛かりが消えてしまう!」
マルクの巨体をクィスは全身全霊で押し留める。
そうやって何とかマルクを抑え込んでいると、肉体が戦闘用の意識に切り替わったか、少しだけクィスも感情を整え始めることができてきた。
必要なのは、ここで何が起こったか。それに関する情報を可能な限り集めることだ。
「マルク、クリエルフィの【
抑え込んだマルクの耳元に、そうクィスは耳打ちする。
クリエルフィの心臓に突き立った剣を抜こうと近づいた際、クリエルフィの背中に僅かに光る魔力の残滓が見えたのだ。
ソフィアの訓練を何度も目にしたからクィスにもそれが【
なぜクリエルフィはそれを背中に隠すようにして、壁を背に座り込んでいたのか。全てはそれを残る
「お嬢様が……」
「そうだ。君が気づいてくれると思ってクリエが残してくれた情報だ。彼女に何があったのか、情報を引き出せるのはマルクとソフィアだけなんだ。頼む、マルク」
そうクィスが伝えると、マルクも自分の成すべき事を理解したようだった。
涙を零しながら頷いて、そっとクリエルフィの亡骸の側に膝を付く。
「【
己の【
「【
魔術を発動させ、クリエルフィの【
クリエルフィに何があったのか。ラジィはどこへ行ったのか。
クリエルフィの【
§ § §
「大丈夫ですか? 【
「すぐに死ぬほどの怪我じゃないわ、止血もしてるし。それにクリエだって十分大怪我よ、そっちこそ大丈夫なの?」
ラジィを抱き上げて走るクリエルフィも、脇腹をダリルに突き刺されていて重傷は重傷だ。
だが石畳に叩き付けられ腰骨にヒビが入ったラジィとは違い、まだ二本の脚でえっちらおっちら走る程度の余裕はある。
「私よりも【
「まあ、そうなんだけどね」
「あら、【
茶化すように笑うクリエルフィに、そうではないとラジィは溜息を吐いた。
なにせラジィが死んだら次の天使がまたこの世界に降臨してしまう。降臨した天使がラジィと同じように自分の成る神を
――もうそろそろ、クリエには伝えてもいいかもしれないわね。
ラジィの【
実際、アンブロジオが正攻法として育てたクリエルフィは【
ラジィの実力を知った今では、心底感服してラジィを認めていて、アンブロジオにとってラジィとクリエルフィの不慮の遭遇、は不幸な邂逅と言っても過言ではないだろう。
「クリエ、これから言うことは他言無用なのだけど――」
「初めまして。当代の天使、ラジィ・エルダートさん」
突如として前方から投げられた言葉は、ラジィを抱いたクリエルフィの脚を留めるに十分な重みを持っていた。
「……何者です」
一歩後ずさったクリエルフィが、自分の前に現れた相手を見やる。
白い肌、白い髪、白い服の少女。
その瞳だけがまるで血のように赤く、闇夜の中で輝いている。
腰まである長い髪は生糸の如く月光を照り返して輝き、衣装は腹部をボタンで留めて絞った純白のコルセットドレスという、舞踏会から抜け出してきたかのような服装。
少女の愛らしさと女性の妖艶さ、その狭間に位置する娘が恋人にでも向けるような眩しい視線を、クリエルフィの腕の中にいるラジィへと向けている。
「貴方に用はないわ侍従さん。私が用があるのはそっち、当代の天使様ただ一人だけよ」
「当代の、天使?」
そう呟いたクリエルフィに、目の前の女性がちょっと意地悪げに唇をすぼめてみせる。
「あら侍従さん、貴方教えて貰っていなかったの? あまり信頼されていないのね」
「丁度今言おうとしていたところよ……それよりクリエの質問に答えなさい。何者よ、貴方」
クリエルフィの手から滑り降りたラジィが、己の剣を抜き放って切っ先を突きつける。
ラジィのここまで己を生かしてきた危機感覚が警鐘をけたたましく乱打している。この女、この娘に関わってはいけない、と。
これまで出会ってきた誰よりも、この娘から感じる気配は深い深い闇を纏っていて底が知れない。
ラジィには分かる。この娘はあまりに危険な存在だ。それこそ、あのグラナなど比較にすらならないほどに。
「私はミカ、ミカ・エルフィーネよ。ラジィ・エルダート、貴方を真に人を救う神とするためにこの場に現れたの。宜しくね?」
嫋やかに笑うその仕草、というか雰囲気にクリエルフィもまた圧倒されていた。
このミカと名乗った娘を見ていると、何故かクリエルフィにはラジィを見ているような錯覚を覚えるのだ。
顔の造りや体格が似ているわけでは、決してないというのに。
そうして、クリエルフィは己の手の平と背中がじっとりと冷や汗で塗れていることに気が付いた。
「クリエ、逃げなさい」
「あら、それは悪手よラジィ・エルダート。貴方もうろくに戦う力、残ってないでしょ?」
剣の切っ先を突きつけられてなお、恋人に語りかけるようなミカの柔和な気配は何ら変わるところを見せない。
その理由がラジィには分かり、クリエルフィには分からなかった。だから、
「【
クリエルフィもまた己の聖霊銀剣を抜き放ってラジィと並んだ。
今のラジィよりかは、少しだけクリエルフィの方が戦力になると踏んで、それは実際に誰の目から見てもその通りだったからだ。
だが問題はラジィとクリエルフィの差などではなく――
「そうよ、そうよね。傍目には負け犬に見えるだろうけど
ぱちぱちぱち、と乾いた拍手を虚空に送るミカの態度に、ラジィの第六感が気付きたくない事実の尻尾を掴んでしまった。
「――まさか、あの暴走は
「私の仕込みよ。考えてもご覧なさい? あの哀れなダリルが、どうして
そうだ、それがラジィにも引っかかっていた。
ダリルは
ということはダリルは
前者だとしたら――そんな優秀な魔術師をノクティルカが手放すはずがない。だが後者だと考えるなら――継承魔獣も無しにダリルはAランク魔獣を討伐し、その心臓を喰らえたということになる。
ダリルは確かに強かったが、そこまでの頴脱した実力を覗かせてはいなかった。それは最初の邂逅の時点でラジィも把握していた。
だからこそダリルはチームで虚弱戦術を展開してラジィたちを少しずつ削っていたのだから。
「そんな、あれは、あの虐殺は貴方が企んだというのですか!?」
あの観光客虐殺が意図的に起こされていた、と知ったクリエルフィが怒りも露わにミカを睨みつけるが、そんなものミカの方はどこ吹く風だ。
「そんな非難した顔しなくてもよくない? 私とダリルは合意の上よ? ダリルがグラナを倒す力が欲しいって言うから、過去に私がコレクションの一つを譲ってあげて、その時に取引をしただけだもの」
そのグラナがもう死んでるんだから、あとは私の自由にしてもいいでしょ? と。
そう無邪気に笑うミカと己の倫理観が全く異なっていることを、クリエルフィは嫌でも覚らざるをえない。
これは、言葉が通じるだけの怪物だと。人の形をしているが人ではない何かだ、と。
そう戦慄するクリエルフィの隣で、
「コレクション……心臓に仕込み……意図的な暴走、ではなく仕込みだから制御……! そう、貴方ヤミ――」
呟き、別の何かを覚ったラジィはそれ以上の言葉を紡ぐことができなかった。
瞬時に姿がかき消えたと思った次の瞬間にはミカの脚がラジィの腹に食い込んでいて、そのまま大きくラジィの痩躯は吹き飛ばされて無人の街路を転がっていく。
「【
「大丈夫、殺しはしないわ。だってあの子はこれから人類を正しく救済する神になるんですもの」
即座にクリエルフィは己の剣を敵目掛けて突き入れた。
だがミカのその痩躯は必殺の刺突を放った剣先ではなく、いつの間にかクリエルフィの目と鼻の先にあって、
「貴方も優秀ね。今はまだちょっとへっぽこだけど、いずれ偉大な魔術師になれるわ。眩しいくらいの才能の輝きがある」
そっと頬に手を当てられて、クリエルフィは驚愕と、何より恐怖で身動きが取れない。
自然と歯の根が合わずガチガチと音を立て、蛇に睨まれた蛙のように身体が己の意思に反して全く動いてくれない。
この女はいつ動いた、いつ懐へ飛び込まれた。
なにも、なにも見えなかった。己の剣は確かにその身体を貫いたと思ったのに――
「だから今ここで殺しておくの。悪く思わないでね? だって優秀な魔術師なんて減らしておくに越したことはないんですもの」
己の愛剣が奪われていたとクリエルフィが気が付いたのは、愚かしくもそれが己の心臓に突き立てられてからという体たらくだ。
今更になってようやく、クリエルフィはラジィが己に逃げろ、と言った意味を理解した。
それはラジィから見てクリエルフィが戦力にならない足手まといだからではなく、ミカから見れば今のラジィやクリエルフィなど、何らの障害にすらならないからだ。
二人して手も足もでないのなら、せめて一人は逃げた方が良い。ただそれだけのことだったのだと。
一歩、二歩、よろよろと後ろに下がって、胸を己の血で真っ赤に染めたクリエルフィが商店の壁にドンと背を付いて、そのままずるずると崩れ落ちる。
「じゃあ天使は貰っていくわね。貴方に安らかな眠りの訪れんことを」
一度ミカがクリエルフィの前に跪いて、その死を本心から悼むように目を閉じ手を組んで祈りを捧げた。
その後にすらりと立ち上がり、己が蹴り飛ばしたラジィを回収すべく立ち去っていく。
クリエルフィは選択を誤った。
ラジィの言う通り、脇目も振らずに逃げの一手を打っておくべきだったのだ。その判断ができないから、クリエルフィは未だ教科書通りにしか動けない戦の素人のまま、こうしてここで死ぬ。
だが、だとしてもそれだけでは終われない。
――【
クリエルフィは己の背中で、最早詠唱も不要なほどに何度も繰り返した魔術を発動させる。
この、記憶を。そしてこれから紡ぐ言葉を、
『マルク。貴方がこの【
どうか、これがマルクに伝わりますように、と。
『この事実をクィス様やティナ様に伝え、お力をお借りして【
無茶を押しつけていることは分かっている。
命の危険を押しつけることになるとも分かっている。
だが、クリエルフィはこのリュカバースで正しく人を思いやるということが、
『あの者は危険です。放置すべきでない災厄です。だからどうかマルク、ヒューゴやトマス、ルチアの未来を私の代わりに守ってあげて下さい』
クリエルフィ・テンフィオスは純粋に祈るのだ。
只人でしかなかった己の代わりにどうか、もっとも己が信頼する貴方にそれを成して欲しい、と。
『ここで只人として終わる私の代わりに、いずれ【
それが、クリエルフィが残せる最後の餞だ。
只人なりに足掻いて手の内に掴み入れた、ごく僅かな希望の光だ。
『これまでありがとう、マルク。私にとっては貴方こそが【
§ § §
そうして、マルクの意識は現実へと浮上する。
「お嬢様……エルフィお嬢様…………! うぐっ……おぉ……おぉおおおおおおおおっ……!」
蹲り、石畳みに拳を叩き付けながら号泣するマルクに、声をかけられるものはいない。
ずっとともに歩んできた同胞を失った男の気持ちは、クィスにも、また遅れてやってきたティナやアウリスにもまだ分かれないでいたからだ。
そうして慟哭し、涙も涸れたであろうマルクが拳を握りしめて、ゆっくりと立ち上がった。
怨念と決意を、その背中に乗せて、二度と膝など付かぬという強い意思を込めて。
「これより私は我が無き主の命に従い、【
「ジィは、攫われたんだね?」
ティナの問いに、マルクは静かに頷いた。
「はい。私が見たもの全てをお伝え致しますので、何卒助力をお願いいたします」
「否やなど無いさ。ジィは僕たちの家族だからね。それにクリエの仇を討たないと」
そうだ、とマルクは固く拳を握る。
仇討ちだ。あのミカ・エルフィーネと名乗った女はこのマルク・ノファトの手で殺す。何としても、この命と引き替えにしてでも、だ。
握った手を開き、クリエルフィの聖霊銀剣を彼女の胸から引き抜いて、それを彼女の腹の上に乗せたままクリエルフィの亡骸を抱き上げる。
――委細お任せください、お嬢様。このマルクが必ずや【
だからどうか、その眠りが安らかならんことをと願って、マルクは歩き出した。
怒りも嘆きも苦しみも、総ては事が終わってからだ。主の最後の願いを叶えるまで、マルク・ノファトには立ち止まることも足踏みも許されない。
この脚は、ただただ前に進むためにのみ動かされねばならないのだから。
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