■ 209 ■ 闇夜に花散るその下で 前編






 そうして、クィスたちは大ファミリーの頭領カポたちが集まったウルガータの館を包囲するように待ち構える。


 庭前線はナガルとガレス、裏口をオーエンとマルクが抑え、館内はイオリベが守る。

 街中の警邏と中、小規模ファミリーの警戒をラジィ、クリエルフィ、シンルー、ガレスのロクシーが担当。

 万が一の遊撃及び後詰としてティナとアウリスが教会で待機しているが、二人まで引っ張り出す状況にならないことを祈るのみだ。


 皆の体力はクィスとマルクが平素と比較して七割、イオリベ、オーエン、クリエルフィ、ナガル、シンルーが五割、ラジィが三割程度といったところだろう。


 これでもかなり回復した方なので、ガレスの脱落は痛いがシミオンの捕縛と魔ダニのリセット、一時的な神殿解除ができたことはかなりリュカバース魔術師にとって幸運だったと言える。


「今夜をしのげば今後の心配はない、というのは少しありがたいですね」


 クィスがコルナールから聞いた話が正しければ、成果が出せなければコルナールたちはもう二度とリュカバース攻略には投入されない。

 それはコルナールが自分から顔出しして来たことからも明らかだろう。

 だが、


「相手の望みを無視してでも生きて欲しい、と願うのはやはり傲慢なんだろうね」


 クィスとしては、ありがたいとは思えないし思いたくない。そこに救いはないし、勝っても負けてもコルナールたちは救われない。

 そしてそれはクィスが想うラジィも同じことで、他ならぬラジィ自身にクィスはそう指摘されている。


――空を飛べない魚を哀れんでいる人が他人の目にどう映るかは、いちど思考をめぐらせてみて欲しいかな、とも思うわね。


 ただラジィの場合は種としての存在意義が根底から異なっているせいであり、コルナールとクィスは生物という根源は同じ筈なのに。


「今は苦しくても、後になれば生きていて良かったと思えることもあるでしょう。頭領カポミッチェルは言ってますよ。死んだときに笑えるならそれは良い人生だったのだと」


 ナガルが言いたいのはつまり、死の今際になってみないと答え合わせなどできない、ということでもあり、


「人は己が最善を尽くそうとして時に衝突し、相手を踏み台にして望みを叶えようとするものです。勝者は敗者を食らって生きる。人とてそれは何ら変わらないものです」

「……四の五の言う前に勝て、ってことか」

「大正解」


 ナガルがニッコリ笑って、ラジィから借りた竜鱗の槍を構え直す。

 そう、勝てなければなんの意味もない。我を通すにせよ相手の望みを聞くにせよ、勝たねば話にならないのだ。


「さて、来ましたよ」


 ナガルの言うように、地面が隆起して人形に構築される光景もそろそろクィスも見慣れてきたころだ。


「ジェロームか」

「驚きましたよ、まさかあの竜人がクィスさんだったなんて」

「おうよ、声まで変わってるからすっかり勘違いしちまったぜ」


 仮面の奥から響いてくる声は多少くぐもってはいるが確かにジェロームとシェリフのもので、だから彼らもこれが最後の攻撃のつもりなのだろう。


「最後に一つだけ確認しておく、止めるって選択肢はないんだな?」

「ないですね。こちらにも恩に報いるという仁義があります」

「リュカバースの連中は確かに善良かもしれねぇがな、その善良な連中が俺たちを救ってくれたわけじゃねぇ。然るに俺たちは俺たちを救ってくれた者の為に戦う。戦える限りはな」


 その気持ちはクィスにもよく分かる気がした。ラジィに救われたクィスはだからラジィの為にできることなら何でもしたいし、しかしそれで「神化こそが唯一の救いである」ように造られているラジィを救えるわけでもない。

 無意味なのだ。それが分かっていてもクィスの生き方は変わらないのだから、もう二人に言えることなんて、


「分かった。ならば僕たちが勝つ」


 お前たちを倒すという勝利宣言だけだ。


「ハッ、ここまでで私たちが手の内を全て見せたと思わないことです」

「おうよ、ただそこにいるだけでモテるイケメン野郎め。ボッコボコのギッタンギッタンにしてやるぜ」

「……そうか、七日かけて釣果はゼロだったんだね」

「「しみじみと言うなァ!」」


 咆哮と同時に六体の土塊人形が駆け出した。それらはクィスとガレスを狙って――


「散った?」

「直接頭領カポを狙うつもりですか!」


 ではなく、二人の横を駆け抜けてウルガータの館を目指す。

 その土塊人形の背中にナガルが炎の槍を叩き付けて破壊を狙った、その、瞬間。


「ぐうッ!」

「うわっ!?」


 土塊人形がいきなり爆発を起こし、側にいたナガルが大きく吹き飛ばされた。

 クィスは余波ですんだものの、全身を覆う鱗が何か硬質のものに乱打されていて、顔を腕で守るのが精一杯だ。


「ナガル!」

「私のことは無視して人形を!」


 言われるがままにクィスは駆け出し、土塊人形をその腕で頭から一気に叩き潰すと、


――金属片! さっきの衝撃はこれか!


 腕に沢山の小さな金属が当たる手応えがあった。恐らく火薬と一緒に仕込んで、クィスの得意な火術を使うと爆ぜるようにしたのだろうが、


――馬鹿な、この家の庭から作られた土塊人形だろ? どうやって仕込んだ!


 方法は分からないが、火弾やブレスで一掃するのは危険だ、面倒でも一体一体潰さねばならない。


「セレブな攻撃じゃないか! 火薬にいくら掛けたんだシェリフ!?」

「はっはー、だろ!? これが最後だから大盤振る舞いってやつさァ!」

「お金の出所はママですがね……」


 そうやってクィスが五体目のの人形を叩き潰そうとしたところで、土塊人形が至近距離で爆ぜて、クィスは大きく吹き飛ばされた。


「おっと、起爆できるのはそっちだけじゃないぜ?」


 やられた、とクィスは歯噛みする。シェリフの【陽裂光ラディ ソリス】でも同様に土塊人形は起爆可能なのだ。クィスが迂闊に至近距離での破壊を行おうとしたらシェリフがそれを起爆すればよい。

 至近距離では流石にクィスも無傷とはいかず、鱗を砕かれ破片が肉に食い込んで血がこぼれ落ちる。


「ナガル、治療は終わった!?」

「駄目です、神殿が強化されていてポーションによる治癒すら受け付けません」


 ナガルの冷静な判断に、仮面の向こうでシェリフが鷹揚に笑った。


「当然だ、今日で最後だからな。サリタもコルナールも持続性なんてのは宿に置いてきてんぜ」

「負った怪我を癒やせるとは思わないことですよクィスさん! こっちは癒やしますがね!」


 どうやらコルナールとサリタの回復妨害は物理的な怪我すら治癒できぬレベルまで強化されているようだ。

 魔力切れも辞さない、後のことは考えない全力の魔術行使。この夜にかたを付けるつもりなのだ、サリタも、コルナールも。


「さあ、次々いきますよ。捌かなければドンが吹っ飛ぶと思って下さいね!」


 新たに六体、土塊人形が地面から湧きいでる。徹底して玉砕ができるその戦術はまさに人形を操る傀儡神レゴプーパならではだろう。しかし、


――いつだ、いつ人形の中に金属片と火薬を仕込んでいる。この庭はずっとソルジャーが見張りをして埋め立てていたはずだ。


 マフィアに監視された庭にどうやって彼らはあらかじめ火薬を仕込んだのか。それともジェロームは土を組成変化させて、ラジィがクズ石から霊銀を取り出すように鉄片を作り出しているとでもいうのか?


 ……いや、そうじゃない。



『ヤナは……ミソッカスとしていじめ抜かれていたところをダリルが拾ったそうです』



 ミソッカスと聞いてクィスがとっさに思い浮かべたのが自らを嘲笑うかつてのティナだったが――そうだ、ティナならできる。

 見張られている庭に侵入し、地中にタネと仕掛けをばら撒く事ができる。


「そう言えばモグラ、誇ってたね。君は」


 あの時、ヤナが何故モグラを褒められて破顔したのか、ようやくクィスは理解した。

 ディブラーモールを取り込んだ心呑神デーヴォロ魔術師がこの世にティナしかいないわけではなかろうに。


 敵がもう一人、土の中にいるのだ。だがそれが分かればもうクィスとて容赦はしない、している余裕がない!


「こっちもすべてを見せたと思うなよ、さぁ三年間の成果を御覧じろ!」


 咆哮と共にクィスの背中が大きく広がった。

 否、広がったのは背中ではない。翼だ。




『翼があるってことは飛べるのかしら?』

『理屈上は。でも元から人にない器官を使うのにはかなりの習熟訓練が必要らしいですよ』




 最初にそうティナから説明を受けてよりずっと、クィスはこれを使いこなせるように鍛錬を続けていた。

 あれから、弛まず三年続けてきたのだ。


「ナガル、手を!」


 伸ばされた手を掴んでクィスは空へと舞い上がった。改めて見ればナガルの怪我はかなり深刻で、特に片目に金属片が刺さって視認能力が大幅に下がっているのが痛い。


「地面の下に心呑神魔術師ディブラーモールがいる。現時点の仕掛けを一掃するぞ」

「なるほど、そういう理屈ですか。では最大火力ですね」


 歴戦の魔術師であるナガルは即座にクィスの意図を理解して詠唱を始める。

 敵にはラジィのような魔術師の一括制御能力があるわけではない。ならばヤナが爆発物を仕込む位置をジェロームたちが知るには何らかの手段が必要になる。

 見た目にはその手段はクィスらにはわからず、となれば、逆に考えればよい。


――僕とナガルの位置だけがジェロームとヤナの両方が理解できるマーカーだ。僕たちの動きで恐らくヤナは火種の設置場所を決めている。


 ジェロームは目視で、ヤナは足音でクィスの位置を把握している筈だ。ならば、ここでクィスが空を飛んだら?


――まずは、既に仕込まれた爆発物を一掃する!


「人の営みに火の安らぎを。獣には猛き炎の恐怖を! 【紅蓮炎床ルベンス コンタブロ】ッ!」

「ガァアアアアアアッ!」


 ナガルの焔が庭全体を延焼させ、そこに合わせてクィスのブレスが地表に降り注ぐと、そこかしこの地面が次々と爆ぜていく。

 既にヤナがジェロームのために仕込んでいた火薬が引火温度を超えて次々と誘爆しているのだ。


「くそっ! ヤナ、無事か!」


 そうなれば、地下を掘り回っているヤナとて無傷では済むまい。心配したようなシェリフの声音から、クィスは己の読みが正しかったことを覚った。

 次いで放たれる【陽裂光ラディ ソリス】を、クィスは間一髪で躱す。ヤナを心配したと見せかけて地面を見ておきながら平然とクィスを狙撃するシェリフも大したペテン師だ。


 お返しにナガルが【炎戟フラーマ】を投じるが、やはり目に見えたそれは幻影のようで、【炎戟フラーマ】はあっさりシェリフの身体をすり抜ける。

 射撃戦では、埒が明かない。いや、


「落ちろぉ!」


 ヤナが地中から顔と腕を出して、両腕を組むのは、あれは――!


 放たれる弾体をクィスが慌てて躱すと、【陽裂光ラディ ソリス】がその弾体自体を打ち抜き、爆発。


「くぅっ、やはりか!」

「避けた!? なんて奴!」

「潜れヤナ、反撃されるぞ!」


 呆然としているヤナにナガルが【炎戟フラーマ】を投じるも、ジェロームが作り出した土塊人形がヤナに覆いかぶさりその身を盾として【炎戟フラーマ】からヤナを庇い切る。

 そのまま土塊人形は崩れ落ちるが、もうヤナも地下に避難を済ませていて状況は五分五分だ。


「増援を呼ぶか!? ナガル!」

「駄目です、まだ敵リーダーの位置が不明です」


 片目の視力を失いながらもナガルの判断はいつだって冷静だ。

 この期に及んでこれまで前線を張っていた心呑神ダリルが姿を見せていない、ということはジェロームとシェリフ、ヤナの役目は可能な限り前庭にクィスたちの戦力を釘付けにしたい、ということに違いあるまい。


 だが、主力三人のうち二人を足止めに用いてまでして、リーダーのダリルはいったい今どこで誰を狙っているのか。

 リュカバースマフィアによるドンの防衛網をシェリフたちが崩すのを期待して息を潜めているのか、それとも他に何か狙いが――


「クィス、あちらを。我々はまんまと嵌められたようです」


 ナガルのその残った右目は、何かを見つけたらしい。震える指が指した方向をクィスも睨み――そして、


「巫山戯るな、ふざけるなよシェリフ、ジェローム! これがお前たちが言う恩義のための戦いか! ナガル!」

「クィスはすぐにあちらへ、この場は私とオーエンにお任せを」

「だけど怪我が!」「今はあちらを、ここにはイオリベもいます」


 ナガルが空に打ち上げた【炎戟フラーマ】が弾けて、それを認識したオーエンが裏口をマルクに任せて前庭に周ってくる。

 それを目にしてクィスは一度高度を下げてナガルを下ろすと、再び翼を羽ばたかせて港沿いへと向かう。


――この姿だと人前で暴れるのはまずいか。


 闇夜に紛れて着地し、両腕のみ服の下に鱗を残して獣為変態を解除すれば、現場は住人と観光客が一緒くたになってパニック状態だ。


「助けて! 誰か、誰か!」

心呑神デーヴォロ魔術師だ、マフィアは何をやってるんだ!?」

「ノクティルカよ、ノクティルカが攻めて来たんだわ!」

「のんびり花火なんか上げてる場合かよ! 黒服はどこにいった! まさか、自分たちだけ逃げたのかよ!?」

「済まない、ソルジャーだ通してくれ!」


 暴れ狂う人の波をかき分けてクィスが何とか前に出ると、人垣空けたその先では三つの人影が死線の上で踊るように剣戟を交わしているところだった。


「ジィ! クリエ!」

「クィス!?」


 ラジィと、その配下となったクリエルフィ。両者が嵐のように踊る乱撃を防ぎながらその場に現れたクィスを目にして明らかにホッと嘆息している。


「ちょうどいいわ観光客の避難誘導を!」

「やってる場合かよ! 援護する!」

「もう少しなら私と【書庫ビブリオシカ】様で抑えられます! お願いしますクィス様。現場指揮官が軒並み殺されて統率が取れてませんの!」


 クリエルフィの訴えに、そういうことかとクィスは怒りと憎しみを抑え込んで歯噛みする。ダリルは先ず闇に紛れてマフィアのソルジャーを一掃し、それから観光客に襲いかかったのだ。

 そのせいで連絡が滞り、現場は阿鼻叫喚の地獄絵図となった。


「連絡員、いるか!? だれでもいい、誰か生きてたらK点に報告と避難要請、『海岸公園二区にて敵魔術師が民間人を襲撃、現場人員は全滅』。復唱不要だ、走れ!」

「ハイッ!」「分かりました!」


 どうやら黒服を着ていない子供の連絡員はまだ無事だったようで、即座に応答が返ってくる。

 であればクィスのやることはこの区画の観光客を、マフィアの避難誘導が始まるまでに落ち着かせることだ。

 大暴走スタンピードを起こすのは魔獣だけではない。むしろ人の方があっさりと吾を失って暴走を始めるぐらいだ。たった一人のパニックですら、恐ろしいほど簡単に他人に感染する。

 だからこそクィスは今にも死にかねないラジィとクリエルフィから距離を取って、港湾から離れようと街路で押しくら饅頭をしている民衆の前に立つ。


「皆さん! 敵は今現在マフィアの魔術師が抑え込んでいます。背後より前に気を付けてゆっくり避難して下さい! 人を踏み殺さないように! 大丈夫、背後はもう安全です!」

「今更ノコノコと出てきて何を言っていやがる! 妻が、妻が死んだんだぞ。あいつに斬り殺されて!」

「そうだ! リュカバースはリュキア一安全な場所じゃなかったのか!」

「みかじめ料だけとってこの様だ、どうしてくれるんだよ!」


「それとこれとは話が別だ!」


 ドゴン、とクィスが街の石畳みを震脚で踏み割ると、威勢の良かった観光客の喧騒が僅かに弱まった。


「遅れたのは済まなく思う。だがこっちも仲間を大勢失って、その上さらに死体を量産するわけにはいかないんだよ」


 重要なのは説得ではなく、相手の牙を折ることだ。

 ここでクィスに殴りかかっても逆に殺されるだけだと分かれば、凶暴性はなりをひそめる。


「いいか? 走るな。ゆっくり、人が転んでも踏み潰さないように歩いてここから去るんだ。それが嫌なら俺が道路に風穴空けてやるぞ」


 そうやってクィスが語っている間に、どうやら運営委員会が即座に状況を把握して増援を送ってくれたようだ。

 それが分かればあとは彼らに続きを託すだけだ。


「わかるか? 倒れた人を踏み潰し、蹴り殺せばお前らも人殺しだ! 此処から先の被害は絶対に出させない! 分かったらゆっくり歩け、お前たちがマフィアとは違う、思いやりのある人であるというなら転んだ他人にも手を貸して立たせてやれ、行け! ゆっくりだぞ!」


 クィスの恫喝は、マフィアこそこの街の番人にして支配者であることを観光客たちにもはっきりと知らしめたようだった。


 ゆっくり人の波が移動を始めると、運営委員会が派兵したソルジャーたちが即座に避難誘導を回避する。

 マフィアからの指示が復活したと分かった民衆の流れにも少しずつ理性が戻り始めて、これでこの場はもう大丈夫だろう。クィスもラジィとクリエルフィの加勢へと踵を返す。


 ラジィもクリエルフィも、元より本調子とは程遠いような状態だったが、重ねて相当に疲弊しているようだった。

 動きにキレがなく、実力差があるはずのラジィとクリエルフィの動きはほぼ同程度で、二人共息が完全に上がっている。


「ジィ、一旦下がれ!」


 火弾を四つ作成しこれを撃ち放つものの、ダリルが触手と両手の刃でこれを両断し、何事もなかったかのように再びラジィへと斬りかかる。


――前より強い? 捨て身であるが故の強さか!?


 正面はラジィとクリエルフィに任せ、クィスは背面へと回り込んで炎を纏う爪を振るう。

 だが背後に目があるかのようにダリルはそれを安々と回避し、薄刃をクィスへと差し向けてくる。


 挟み撃ちをものともしないその技倆には舌を巻くが、これでラジィとクリエルフィへ向かう手数は減った。

 少しずつだがラジィとクリエルフィは呼吸を整えられるようになり、そしてクィスはラジィの髪から大量の水滴がこぼれ落ちていることに気が付いた。


 ローブが撥水性のために気づくのが遅れたが、それは大量の汗では説明がつかない量で、まるで先程まで海の中にでもいたかのような有り様だ。

 そしてそれはダリルの方もよく見れば同じで、こちらは衣服が水で肌に張り付いている。


「ジィ、どういう経緯だ?」

「こいつの狙いはマリンソルジャーだったのよ、さっきまでは!」


 そのラジィの一言に、クィスは頭を横殴りにされたような衝撃を受けた。

 リュカバースの繁栄を支えているのは魔術師もそうだが、マリンソルジャーによる海戦力も忘れてはならない立派な支柱だ。


 これを花火の打ち上げに使用するという、一番精神的に手薄になる時を狙って、ダリルが単身で殺して回るなど、まさに盲点だ。

 海の魔獣でもない薄刃影狼ウェプアウトでどう襲うのか、は深く考える必要もない。ただ動かない船に泳いで向かえばいいだけなのだから。


「今シンルーが海に落ちたソルジャーの救援とポーションでの治療をやってくれてるけど、正直かなりのソルジャーが食われた。ただその後にこいつ、いきなり逃げたと思ったら市民に襲いかかったのよ!」

「さっきから一言も喋らないし、攻撃スタイルも少し変わっていて、まるで別人になったみたいなのです!」


 別人、と言われてクィスはそんなバカなと一蹴しようとし、



『人の心が失われて狂暴になって、いずれ人に牙を剥くようになる。これがね、段々とじゃなくていきなり来るんだ。ある日突然変貌して、前兆がないの』



 ティナの語った、致命的な心呑神デーヴォロ魔術師の対価を思い出し、戦慄する。


「まさか……このタイミングでリミットが来たのか!?」


 ダリルは心呑神デーヴォロの魔術師だが、ノクティルカに所属しているわけではない。

 だからもし礎がダリルの発狂を予言していても、それをダリルに伝える方法はないし、そもそも誰も伝えようともしないだろう。

 そしてそれが、この世界に心呑神デーヴォロ魔術師が広がっていけない最大の理由なのだ。


「かもしれないし違うかもしれない! ただこの男はもう殺さないと止まらないわ! クィス、手加減不要でやるわよ!」

「……ああ、分かった」


 対話の希望は、これで潰えた。

 もう何をどう語ってもクィスはダリル殺しの下手人となり、サリタやコルナールとの和解はもはや不可能になるだろう。


 だがそれでもクィスはやらねばならないのだ。もうここでダリルを無力化して容態を確かめるだけの余裕がない。

 市民と観光客が、もう転がっている死体を見るだけで数十人、斬殺されているのだから。






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