■ 176 ■ 民よ我が神を崇めたまえ Ⅳ






「ど、どうでしょうか」

「……お前がサボってなかったってのは認める、認めるんだがなぁ」


 新入りの最初の仕事は掃除、というのがヒューゴらにとっての暗黙の了解である。

 そういうこともあって、なんとか健康な身体を取り戻したクリエルフィに清掃の仕事を振ってみたのだが、


「お前、掃除したことないだろ」

「あ、ありますわ! 地母神教マーター・マグナの神官は誰しも教会の清掃から始まりますもの!」


 クリエルフィの反論は事実である。貴族の出身だろうと、出家すれば先ずは今ソフィアがそうであるように教会の掃除から始めることになる。

 だが、


「なら相当甘やかされてたんだろうな。これは掃除したっていうより乾布でそっと撫でたって言うべきだろ」

「うっ……」


 ヒューゴの指摘も事実である。お貴族様の令嬢令息に清掃を割り振ると言っても、雑巾掛けみたいな汚水に手が触れるような仕事など割り振れるはずもない。

 清潔な布でサッと美しい食器や聖杯の、積ってもいない埃を落とす程度が関の山だ。


「まあいい、ならば料理だ。流石にこれは失敗しないだろ」


 野菜スープの作り方は、ティナによる授業でヒューゴらが「誰がどう読んでも調理に失敗しないレシピ」として仕上げられている。

 これまでそれで誰も失敗しなかったレシピを前に、


「ええと、丸くて赤くて緑のへたがついてるのがトマト……」

「違う! お前が手に持っているのはラディッシュだ! へたと葉の区別ぐらいつけろ! こっちがトマト!」

「え? でもこれはたまたまここで切り落としているから短いだけなのでは――」

「お前何でそういう屁理屈ばっか言うの?」


 あ、これ駄目な奴だと瞬時にヒューゴが悟ったのは僥倖だったろう。流石に使い方は見た目から覚ってはいるが、自分が握っているのが包丁でその下にあるのがまな板だ、という名称をクリエルフィは理解していない。

 そもそも、貴族令嬢は厨房になど入りはしない。調理された食材しか見たことがないので、トマトの味もラディッシュの味も分かるし、なんなら産地すらも舌で言い当てられるが、それが元々どういう外見をしているかを知らないのだ。

 クリエルフィの所持金が減るのが早かったのも、食事は自炊せず全て外食だったことが理由の一つでもある。


 そんなクリエルフィと違い、孤児たちは逆に元の素材の形しか知らないし、食べられるものと食べられないものの名前は経験として知らなければ死ぬだけだから、そこを間違える可能性は極めて低かった。

 要するにヒューゴたちの常識で作成したレシピは孤児には通じるが、貴族相手だと「誰がどう読んでも調理に失敗しないレシピ」ではなかったのだ。


「……悪いことは言わないからさ、お前もう国へ帰った方がいいよ。住む世界がこれだけ違うんじゃ話にならねぇし」


 ごく穏やかにヒューゴはそう諭した。貴族令嬢が庶民の中で生きていく、というのは大変だし、帰れる家があるなら帰った方がいいというそれは優しさだったのだが、


「う……ぐ……ぇっ」


 そう諭されたクリエルフィは口を押さえて蹲り、朝食べたものを吐き戻しそうになってしまう。

 相手を同じ人間として無意識で見做していなかった、というリュキア貴族と己とヒューゴらの関係を意識することは、クリエルフィにとって完全なトラウマになっていたのだ。

 羽虫扱いされた屈辱と、その屈辱を知らずに他人に与えていた己の無知さは、自分が優秀だと信じていたクリエルフィからすれば自らの餓死を受け入れてしまうほどに醜い在り方でしかなかった。


「か、帰るわけにはいかないのです。私は聖務を託されて送り出されたのですから――何でもやりますからどうか仕事を、仕事を下さい!」

「そうは言ってもできる仕事ないじゃん」


 そうクリエルフィに懇願されても、ヒューゴとしてはここまで何もできない相手に振れる仕事はない。

 無論、クリエルフィにできることが何もないわけではない。クリエルフィには貴族として蓄えた高等知識があるし、それが全く何の役に立たないということもまたあり得ないからだ。

 しかし、


「わかるだろ? お前には信頼がないから頭を使うような仕事は任せられないんだ。だから簡単な仕事しか割り振れないけど、お前それ全然できないし」


 貴族ができる仕事、というのは基本的に秘匿すべき情報を含むもので、そんなものをクリエルフィに握らせたいなどとは誰も思わないのである。

 ラジィと敵対してるという時点で、リュカバースマフィアにとってクリエルフィはいつ裏切るか分からない危険な存在でしかないのだから。


 聖霊銀剣を返しての戦闘任務などは論外だ。検討の余地すらない。

 反省したふり、がカルセオリー伯の十八番オハコであるリュカバースにおいて、表面的なしおらしさは何らの担保にもならないのである。


「せめて料理ができればなぁ。お前もジィと同じ魔術が使えるんだろ? 怪我が癒える料理とかなら話題にもなるし信仰も稼げるかと思ったんだけど」


 ハッとクリエルフィは凍り付いた。ヒューゴはただクリエルフィに仕事を与えるだけじゃなく、きちんとクリエルフィが信仰を得られるように、まで考えてくれているのだ。

 クリエルフィは徹頭徹尾自分のことしか考えていないのに、それでもヒューゴはクリエルフィを気遣ってくれていて、


「な、なんで泣いてんだよ!? 別に俺酷い事言ってないだろ!?」


 だからその優しさが、クリエルフィには涙が溢れるほどに嬉しいのだ。

 自分はヒューゴを人として見てもいなかったのに、ヒューゴはそれでもクリエルフィの望みまで含めて未来を考えてくれているのだから。


「なんでっ、ヒューゴは……ふっぐ、ぞんなふうに私のごどを気にがけてくださいますの……?」


 泣きじゃくりながらクリエルフィがそう聞いてくるが、そんなのヒューゴにとっては決まり切ったことでしかない。


「そんなの、ジィが俺たちにそうしてくれたからに決まってるだろ」


 そう、それ以外の答えなんてヒューゴの中からは出てこない。


「まずは俺たちにできる範囲の仕事をくれた。仕事をくれて、それでお金を稼ぐことを教えてくれた。お金で物を買うことを教えてくれて、そのお金を稼ぐには何を学ばなければいけないかを教えてくれた。親方を沢山新色町に呼んでくれて、俺たちを雇うように命じ、俺たちの働ける場所を作ってくれた」


 ヒューゴの舎弟たちは今や、いろいろな工房で自分に合った仕事を行ない、自分の生活費を自分で稼いでいる。


「ジィにそう助けられた俺はだから、同じことを困ってるガキにしてやらなきゃいけない。その為には秩序を守る力が必要で、だから俺はマフィアのソルジャーになって、ガキ共やジィの害になる要因を排除してる。それだけだ」


 クリエルフィがアホなことをやると、それでリュカバースの平和が乱されるからこうやっているだけだ、と説明されて、


「あぁ……これが――」


 これが敗北だ、とついにクリエルフィは悟った。

 ラジィ・エルダートがリュカバース発展の青写真を描いた、というのは冗談でも何でもなかったのだ、と。


 ラジィ・エルダートはたった一人で、これまで見向きもされなかった一都市を地母神教マーター・マグナ政治部が注視するほどにまで成長させた。

 孤児たちを集めて教育し、社会に組み込むことで人助けと経済発展を纏めて成し遂げた。クリエルフィが人に迷惑をかけながらようやく理解したことなど、ラジィにとって前提でしかなかったからこその、この発展だ。


 孤児だのなんだの、そんなことは最初からどうでもいい話だったのだ。

 クリエルフィにはできなくて、ラジィにはできた。何故か? それはクリエルフィがあくまで【書庫ビブリオシカ】候補生程度の実力しかなく、ラジィは紛う事なき【書庫ビブリオシカ】、栄光ある【至高の十人デカサンクティ】の一柱に相応しい能力があるからだ。


「で、お前、本当に何もできないのかよ。料理とか」


 そうヒューゴに問われて、だからその可能性に気が付いたクリエルフィは己の【リベル】を起動し、そして理解した。

 ああ、やはり。


「パンを焼く――ぐらいはできると思います」


 クリエルフィにはそんな知識はない。パンの焼き方なんて学んだことも教わったこともない。

 それでもクリエルフィがそう言えるのは――既に己の【リベル】に、それが書き加えられていたからだ。


――ははっ……なんてこと。これが格の違いというものなのね……


 あの時の【写本トランスクリーヴォ】の時点で、ラジィにはクリエルフィがいずれ食うものにも困るであろうことを既に予見していたのだろう。

 だからあの時、大量の情報に紛れ込ませるように、パンの焼き方や、調べてみればスープの作り方などまで絵図付きでしっかりとラジィはクリエルフィの【リベル】に書き記しておいたのだ。


 視点のありか、視野の広さ、見通せる未来がクリエルフィとラジィでは天と地ほども違う。これこそが【至高の十人デカサンクティ】。

 四大宗教地母神教マーター・マグナが世界に誇る、もっとも己に似たりと地母神マーターが認めた最高の十人なのだ。己如きでは、到底届き得ない。


「パンが焼けるか、なら丁度いい。トマスが人手が欲しいって言ってたからな」




      §   §   §




「……知識として知っているだけでは、やはりちゃんと焼けないのですね」


 そうして紹介されたパン工房ベッラルチアで、やはりクリエルフィの焼き上げたパンは酷い不揃いばかりだったが、


「最初の一回でばしっと全部良い仕上がりになったら親方の立場がないだろ――住み込みで働けるかい?」

「ええと、はい。もう地母神教会リュカバース支部は【書庫ビブリオシカ】様にお返ししますので」

「ん。なら丁度いい。妻のお腹の中には二人目の子がいてね。そろそろ働くのも辛くなってくる頃だし」

「動くには動けるけどこの子が……あれ、どこよ! あぁもう、何ですぐ高いところ行こうとするのよウチの坊やは!」


 そんな事情で、クリエルフィはパン工房ベッラルチアの下働きとして働くこととなった。

 夫婦二足のわらじで働いてきたトマスとルチアだが、今ルチアのお腹には二人目の子が宿っている。

 加えて長男もまだ小さく、目を離すとすぐ危ないことをやるので、ルチアを子育てに専属させたい、というのがその理由である。


「でも、私、全然ちゃんと焼けてませんけど」

「それでも知識が全くない子を雇うよりよっぽどマシだからね。それにあれだろ? 料理に治癒効果乗せられるんだって?」

「あ、はい。御厨コクイナ魔術も嗜み程度ですが修めておりますので」

「結構。なら多少は形が不揃いでも十分商品になるさ。製パンギルド員、ベッラルチアの親方トマスだ。宜しくな」

「あ……クリエルフィ・テンフィオスです。宜しくお願いします」


 今度はちゃんと名乗れた、とクリエルフィは胸をなで下ろし、


「じゃ、頑張れよ」

「あの、ヒューゴもありがとうございます」

「おう。あと落ち着いたらマルクに顔見せてやれよ。あわせる顔がねぇって自分からは会いに来れねぇみたいだからさ」


 ヒューゴが手を振ってベッラルチアから去って行く。

 一応、盗んだ食糧には手を付けず返却し、マフィアの口添えもあったことで情状酌量無罪となったマルクは今、街が活性化したぶん人手が足りなくなっている土木作業員として重労働に勤しんでいるらしい。

 早く会いに行きたいところだが、ヒューゴ曰くクリエルフィが自立できるようになってからの方が話が拗れずに済むだろう、とのことで、ならば助言に従った方がいいだろう。




 ベッラルチアという看板のおかげではあるが、『地母神教マーター・マグナの不揃いパン』は働き盛りの荷役や船乗り中心に飛ぶように売れることとなった。

 味に関しては、まぁトマスが監修しているだけあって生地こそ美味だが、ルチアが具材を作っていた頃には程遠い。

 だがそのパンは普通のパンなのに何故か日持ちがよく、何より体力と怪我の回復に多少ながら効果があったからだ。


 飛ぶように売れることもあり、『地母神教マーター・マグナの不揃いパン』はどれだけたってもその形は不揃いのままであった。

 クリエルフィの名誉の為に言っておくと、それはとにかく量産が最優先で形に気を使っている暇が全くなかっただけで、クリエルフィの腕が上達しなかったからではない。


 だが何にせよこれで地母神教マーター・マグナの名それ自体はリュカバースを訪れる船乗りにも広く認知されることとなり――


 後日、リュカバースでは地母神マーターとは愛欲と肉欲の神という間違った理解が形成されていた(※55話参照)ことを知ったクリエルフィがブチ切れてラジィに喧嘩を売りに行くのは、また別の話である。






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