■ 175 ■ 民よ我が神を崇めたまえ Ⅲ






 そうして、ヒューゴの指摘どおりになった。

 クリエルフィの地母神教会リュカバース支部出張店には開店からずっと、一人の客も来ることはない。

 マフィアが品質に問題なし、と報告しているにも拘わらず、誰一人としてクリエルフィの店にも顔を出さないし、クリエルフィの存在をいないものとして扱っている。


 手を出すな、攻撃するな、とラジィに釘を刺されている住人たちの、精一杯の反撃がそれなのだ。

 お前が私たちを人間扱いしないのなら結構、こっちだってお前の存在なんて認識してやるもんか、という、それは虚仮にされた者たちの正当なる怒りである。


 誤解を解こうと――否。クリエルフィがそう無意識で認識していたのは誤解ですらない事実だ。

 自らの愚かしさを謝罪しようにも、誰もクリエルフィには近づいてくれないし、無理に近づこうとすると誰もが逃げて、終いにはマフィアを呼ばれる始末だ。


 ただ話をしようとしただけだ、と説明してもマフィアより住人が・・・信じてくれない。

 それだけリュキア騎士団と組んだことも、ラジィ・エルダートから住居を奪ったことも、このリュカバース庶民からの信頼を損ねる愚行だったのだ。


 自作のポーションは売れず、生活費だけでもうクリエルフィの資産は底を突きかけている。

 マルクなどはガタイが良いこともあって荷役として日銭を稼ごうとも考えたのだが、


「冗談じゃねぇ。ドン・ウルガータお抱えの魔術師に真っ向から喧嘩を売るような奴を雇えるわけねぇだろ」


 そう荷役を纏めているソルジャーにすら雇用を拒否される始末である。

 シヴェル大陸到着後、常識のままに初手を振る舞ったことを、ここに来てマルクは絶望的なまでに後悔することになった。


 あまりに酷いトラップだ、とは思う。その土地の貴族に挨拶をして知己を得るのは貴族としてごく当然の礼儀作法だ。

 だがリュカバースという土地でのみ、それが最低の悪手になってしまう。要するに事前調査が足らなかったのだ。


 それは貴族こそが正義であり会話するに足る存在である、と両者が固く信じていた、両者にとって大前提であったからこその失敗だ。

 両者は与り知らぬことだが、ラジィが「アンブロジオ総務局次長のことは嫌いじゃなかったけど、子供の育て方はダメダメだ」と指摘したのはまさにこの点なのである。


 アンブロジオ自身は単に効率の観点でしかラジィを嫌ってはいなかった。だがその娘であり、善良に育てられた筈のクリエルフィは徹底して「貴族として善良な」娘として仕上がっていた。

 それはアンブロジオ自身が教育に携わっていなかったことの証左である。もしアンブロジオが関わっていたら、いらぬ衝突を避けるために「孤児に対してどう思っても良いが、態度には示すな」ぐらいの忠言はしたはずなのだから。


 アンブロジオは政治部に所属する自分が決して善良などではないことを知っていたから、娘を穢れ無き期待の星とするべく、教育を優秀なガヴァネスに託した。

 だが貴族のガヴァネスにとっての善良の中には、庶民や孤児は含まれていなかった。それに娘の教育結果をガヴァネスの口からしか聞いていなかったアンブロジオは気付くことができなかったのだ。

 結果として、アンブロジオの方が客観的にはクリエルフィより善良寄りになってしまうという逆転現象が起こってしまった。


 政治部の第二席を務めるほどに世の酸いと甘いを噛み分けた男ですら、自分の常識が他人にとっても常識であると錯覚する失敗を時に犯してしまうという、これは証左でもある。

 要するにクリエルフィの失敗はアンブロジオの失敗でもあり政治部の、そして地母神教マーター・マグナの失敗でもあった。故に決してクリエルフィ一人が悪いわけではないのだ。


「もう、これは挽回のしようもありません。人脈はなく資金も底を突きかけています。【至高の聖域サクロ・サンクトゥス】に増員を要請しましょう」

「駄目よ、駄目。それだけは絶対に駄目! 力及ばずどころか現地住民の大半に敵意まで持たれて、それでどの面下げて私に期待してくれたお父様に縋れというの!?」

「お嬢様の報告は地母神教マーター・マグナとしての経験蓄積になります。これは政治部が持たぬ情報であり、決してお嬢様が非難されることはありません!」

「嘘よ嘘! 誰もが私の失敗を嘲笑って論うに決まってるじゃない!」


 ストレスで既にまともな思考ができなくなっているクリエルフィには内密に、マルクは切腹覚悟で増援を依頼する文を送った。

 だが、


「『布教に問題なし、増員不要』って内容にすり替えておけ。筆跡で覚られるなよ?」

「畏まりました、ドン・ウルガータ」


 ラジィの居場所を守ることに一切手を抜かないウルガータは当然のようにその手紙を回収し、筆跡を真似て印章まで細工師パオロに同じものを作らせ、順調である旨の文面に手紙を差し替えてしまった。

 当然、差し替えた内容からはラジィの情報を完全に抹消してある。あと残り二年のラジィの平穏を、こんな愚鈍のせいで奪われるなどウルガータからすればあってはならない話だ。


 マルクとクリエルフィの心身が良好であれば、これだけマフィアが浸透しているリュカバースから送る手紙など検閲されて当たり前だと気づけただろう。

 だが両者は既に精神的に散々に打ちのめされており、健全な思考能力は既に失われて久しかった。


 かくして増援など来ることはなく、逆に「順調とのことで安心した。引き続きの布教を望む」という文が届けられてマルクは絶望する。


――まさか政治部は、アンブロジオ様までがお嬢様を見限ったというのか……?


 マルクはマルクで、効率の為なら家族すら切って捨てると噂されるアンブロジオの影にありもしない鬼の影を見て、一人絶望に悲嘆してしまう。

 そしてそういう秘密を抱えたマルクはクリエルフィの前で普段通りに振る舞えず、


「マルク、貴方はもうシヴェル大陸に帰りなさい。私の失敗は貴方の責任ではないのだから」


 自分と心の距離があるマルクは「いい加減己に付き合っていたくないのだろう」と誤解したクリエルフィとの乖離が益々大きくなっていく。

 どれだけ「私の使命はお嬢様を御護りすることです」と訴えても、その訴えはもうクリエルフィには届かない。


 そうして、ついにクリエルフィの所持金が底を突いた。

 最早明日の食事すら用意できないという事実をクリエルフィは黙って受け止め、しかしマルクはこれを許容できず、


「どうかお嬢様の未来を救って頂きたい、この通りだ!」


 ラジィたちの新たな住居にマルクは頭を垂れに向かったが、ラジィはこれに全く取り合わなかった。というより「関わりたくないからもし来たら皆で対応して」と事前に家族に丸投げしていたのだ。

 なので誰もがマルクをラジィに会わせなかっただけで、意図的にラジィが貧困に喘ぐ二人を無視したわけではない。


 エルダートファミリーティナとクィスからマルクの対応を押しつけられたフィンは、マルクに顔を上げるよう告げて、


「主さまはダート修道教会にて人の苦しみを理解し、賤しき孤児から脱却する為に・・・・・・・・・・・・・、十七日間飲まず食わずで身動きすら許されず庭木に縛り付けられていたそうです」


 そうフィンに諭されて、マルクは顔から血が引いていく音が聞こえたような気がした。

 それは教育ではなく、ただの凌辱だ。人目に映る場所で食事も与えず排泄すらその場で垂れ流しだなど、人としての尊厳を奪う、まさに人を人としてみていない――

 カイ・エルメレクがラジィ・エルダートを救ったのは、ならば至極当然の話でしかない。そのような境遇にある者を救わない者が、地母神教マーター・マグナを名乗れるはずがないのだから。


「十七日後まで井戸水だけで頑張って下さいね。その後であれば支援致します。散々主さまを孤児風情と虚仮にした罪はそれで禊といたしましょう」


 そうして、今度はマルクとクリエルフィが人として扱われなくなる番だった。


「私は優しいでしょう? 主さまと違って貴方たちは束縛もされないし、好きなときに水を飲んでもよいのですから」


 マルクは絶望し、ティナとクィスはやはりフィンを怒らせるのだけは絶対に拙い、と完全に血の気が引いた顔を見合わせていた。

 フィンのドライさは前々から知っているつもりだったが、あくまで知っているつもりに過ぎないと分かってしまったので。




      §   §   §




 そうして、クリエルフィとマルクの断食生活が始まった。

 一週間は何とか耐えられた。だが十日目を過ぎたあたりから限界が来た。

 空腹を紛らわすために水ばかり飲んでいたために水中毒症を発症し、意識障害や錯乱から譫言うわごとを語り幻覚を見てふらつく様には、人間らしさなど微塵も残されていない。


 だが皮肉にも両者のそんな姿は誰の目にも留ることはない。

 ラジィが主である間は千客万来だった地母神教会リュカバース支部は今や、一人の来客すらもない、うら寂れた様相を呈していたからだ。


 そうやって二週間が経過、呼吸困難を引き起こしベッドにすら自力で戻れなくなったクリエルフィを前に、まだ鍛え上げた筋肉という栄養のストックがあるマルクは決心をした。

 まだ動ける、だがマルクがかろうじて俊敏に動けるのもここいらまでが限度だろう。


 だからマルクはクリエルフィをベッドに寝かせると一人闇夜に紛れて外出し、


「お嬢様、起きて下さい」

「……なに?」

「親切な方が我々の現状を目にして食糧を分けて下さったのです。ほら」


 ほら、とパンや野菜などを目の前に広げられたクリエルフィは首を横に振って儚く笑った。


「幻覚だわ」

「幻覚ではありません、ほら、触ってみて下さい」

「幻覚よ。だって私たちを助けてくれる人なんて、ここにいるはずもないもの」


 そう頑なに目の前の現実を認めないクリエルフィに、何とか食事をさせようとマルクは立ち上がりかけて、


「だからマルク、ちゃんと返してきなさい、ね?」


 そんな一言に背中を叩かれ、その場にただ黙って立ちすくむしかできない。

 ややあって、


「マルク・ノファト! お前には商店への不法侵入、並びに窃盗の容疑がかけられている! 十数える内に教会から出てこい!」


 地母神教会リュカバース支部には追っ手が差し向けられていた。

 そう、監視されていないわけがなかったのだ。元よりマフィアにとって二人は危険人物である。暴発しないよう四六時中監視が付けられているのが当然だ。


 だが、マルクもそれは承知の上で犯行に及んだのだ。その先に未来が無いことは分かっていても、それ以外にマルクにできることはなかったのだ。


 だからこそ、


「お嬢様をどうか、何卒お救い下さい……!」


 マルクは素直に出頭し、頭を垂れ無抵抗で鎖に繋がれた。

 罪は罰によって濯がれなければならない。フィンが科した罰に耐えきれなかったマルクは、だから別の裁きを受ける必要があるのだ。


 だが、


「……流石にさ、俺たちで仕事ぐらいは与えてやっていいんじゃないか?」


 衰弱して顔を浮腫むくませ、その美貌も失われベッドから自力で起きることもできないクリエルフィを前にして、ヒューゴがややバツが悪そうにそう提案する。


「自業自得だろ。助ける意義なんか感じないけどな。『弱ってる』は『反省してる』と同義じゃねぇんだぜヒューゴ、そこ混同するなよ」


 そうコニーは反対し、それもまた正しい意見である。何度胃液を吐きながらのたうち回ってもいっこうに懲りないアンティゴナが、この町における悪人の手本なのだ。

 貴族に同情しても相手は改心しない、それがリュカバースマフィアの前提である。


 そういう理由もあり、相手が魔術師であるので護衛としてついてきたイオリベは判断を問われ、解答の前に、


「イオリベはあくまで護衛、意思決定権はマフィアの方にありますのです。私自身の意見をお望みなら何卒追加報酬を――」


 だからこそイオリベを無視してヒューゴは自ら考え、


「ここにいるのはジィが目の前に現れなかった俺たちの可能性の一つでもある。違うか、コニー」

「……だから、ジィに助けられた俺たちはこいつを助けるべきだと? こいつは徹底して俺たちを見下してやがったんだぜ」

「でもコニーだって最初はジィを獲物としか見てなかっただろ」


 それを言われるとコニーも弱い。何せ自らがラジィに敗北するまでの一部始終をコニーはヒューゴらに見られているわけで。


「……分かったよ。だが健康になっても労働を拒否したときには」

「ああ、それ以上は助けねぇ。働かねぇ奴に飯を食う権利はねぇもんな」


 過去、ラジィにそう脅された両者は苦笑を交わした後、クリエルフィの衰弱した姿が人目に晒されないようシーツでくるんで教会から運び出した。

 なんにせよ先ずは入浴と食事だ。ウルガータファミリーであるヒューゴが娼館に運び入れれば、娼婦の身支度をしている元舎弟の子供たちがやってくれるだろう。


「……とりあえず盗んだもんは返してこい。なかったことにしてやるから」

「ありがとうございます、ありがとうございます……!」


 教養のある屈強な大の男に頭を何度も下げられれば、ヒューゴもコニーも居心地が悪くて仕方がない。


「ああいい、返品はこっちでやっておくから一緒に来いよ。腹減ってるんだろ。先ずは飯だ。その後働いて貰うからな」


 そうして、重湯を啜って僅かに正常な意識を取り戻したマルクとクリエルフィはようやく、人が人として見做されないことの絶望と苦痛を正しく理解したのだ。






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