■ 172 ■ 真の地母神教会リュカバース支部
「ふふっ、【
朝食を終えたクリエルフィがそう晴れ晴れとした顔で、礼拝堂にて深呼吸をする。
これまでは追従していたマルクではあるが、今は少し何と言えば良いか分からなくなっている。
「敗北を恥じることはありませんわマルク。私たちにはまだまだ伸び代があるということではありませんか」
そう気遣ってくれた主の言うことはもっともで、実際にその通りでもあるのだが、
――目に見えた伸び代が普通に
マルクの反省もまさにその通りであるのだ。半人前であることをラジィ・エルダートに暴かれてしまったマルクとしては、やはりこの任務は我らには荷が勝ちすぎるのではと思わずにはいられない。
「二人で頑張ってお父様の期待に応えましょう? マルク」
「は、お嬢様の仰せのままに」
だが主にここまで言われては四の五の言う方が間違いであろう。マルク・ノファトはクリエルフィ・テンフォリスの為に全力を尽くす。
全力を尽くしてから問題点を洗い出して再評価すれば良い。一先ずはやれるだけやってみるだけだ。
「【
確かに、その通りだ。三年間もリュカバースに居て信者が一人、というのは巡礼としてあまりにショボすぎるが、
――多分、面倒臭かったんだろうな。
昨晩のやり取りでマルクも少しだけラジィ・エルダートの人柄を理解できた。
何せクリエルフィと関わりたくない、の一言であっさり引っ越しを決めたくらいだ。恐らく信者を増やすという型の成果を挙げるつもりが【
だがまあ、ならばクリエルフィがその成果を挙げるべく動くことは間違いではなかろう。
「先ずは貴族たちから信者を増やしていきましょうか。私もポーションは作れますからね。分かりやすく
ラジィが自分の調合器材を持っていってしまったため一から買い直しになるが、クリエルフィは貴族である。そこそこの金貨や宝石など換金可能な財を持ち込んでいる。短期的な不安はないだろう。
だが、貴族と面会をするとなると伝手が必要になる。暗殺や誘拐の対象にもなる貴族がぽっと出の小娘に面会の時間を割くには、それ相応の権威が必要になるのだ。
「紹介状が必要ですね」
「それはカルセオリー伯にお願いしましょう」
だが、いざクリエルフィがカルセオリー伯への面会を依頼すると、
「カルセオリー伯もお忙しい方ですので、そうそう負け犬に時間を割くことはできないのですよ。ましてや手ぶらで伯爵閣下に取り次いで貰おうなどとは実に烏滸がましい」
カルセオリー伯の侍従があからさまな侮蔑の視線と言葉を隠そうともせずそう言うもので、クリエルフィは青筋を隠すのに苦労する必要があった。
カルセオリー伯のみならず、侍従如きがクリエルフィに賄賂を寄越せとあからさまに言ってきているのだ。
だがこれは仕方のない話で、幾らクリエルフィが負けを認めずともクリエルフィが荒事でラジィに負けた様子を、リュキア騎士もアンティゴナもしかと見届けているのだ。
ラジィはクリエルフィと関わりたくないから自ら退いた。だが、そういう事情に興味がない連中から見れば、一方的に負けたのはクリエルフィの方だ。
であれば媚を売るならクリエルフィよりラジィの方がいい、と考えるのは悔しいがごく当然な判断である。
利益がなければクリエルフィに協力する意味がないというのは、文句の付けようがないごく普通の考え方だ。
忌ま忌ましさを微笑で隠して侍従に袖の下を握らせ、その上でカルセオリー伯にも土産を用意してリュカバースの貴族階級へ紹介状を用意して貰う。
そうして幾度かの茶会を交えて伝手を得たはずのクリエルフィではあったが、
「どの返答もやんわりとしたお断りの内容しかない……どうして?」
一度の邂逅を歴て、二度目のお誘いに誰もが遠回しに欠席を文で認めてくる。その理由が、クリエルフィには分からない。
茶会の席でクリエルフィは問題なく振る舞えたはずだ。
他にもアミュレットなども融通できるし、解毒ポーションは毒殺を恐れる貴族にとって何よりの安心材料になる。ここら辺の利は如何なる貴族も共通の筈なのに、何故。
そうやって持ち込んだ財の大半をカルセオリー伯に紹介料としてつぎ込んだクリエルフィに、
「お嬢さんはまだ若いから分からぬのだろうが――」
唯一助言をしてくれたのは、現リュカバース駐屯騎士団長の両親である、年老いた温和な老夫婦だった。
「お嬢さんも母国では貴族であるのだろうが、この国においてはその出自は何の意味も持たぬのだよ。この国において、君は庶民以下の一人の僑族にすぎない」
アッティス・ファリスキーという名の老人はそう、顎髭を擦って諭すようにクリエルフィに語る。
「
リュキア王国にとってもっとも価値のあるものは
一から百八の序列を授かった者は王家を除いて
中々百八の序列を生み出せない家は爵位も土地も剥奪されるから、リュキア貴族の誰もがこの百八の序列に連なる子を産むべく、熱心に
実際、カルセオリー伯の長男は序列九十二位を授かり、これが
故にアンティゴナの世は太平だ。よほどの失敗をしない限り、このリュカバース統治はカルセオリー伯に任され、リュキア王家がその権限を奪うことはないだろう。
「そういう国の在り方であるのに、他の宗教を取り入れると思うかね? お嬢さん」
「絶対に……なのですか?
「君は明日から人間扱いされるのを止めたいのか、という問いに首を縦に振れるかい? この国において
引退後に夫婦で海外を回り、リュキアという国を客観視できるようになったという老人はそう、穏やかにクリエルフィに教えてくれるが――クリエルフィはにわかには納得しがたい。
「君がリュキア貴族の目にどう映っているか、分かっているのかい? 絶対たるリュキアという大樹の樹液を啜らんとする汚らわしい羽虫扱いだよ」
「な……!」
怒りのあまり、クリエルフィの言葉は意味のある言語にすらならなかった。他国の貴族をそのように扱うのは、国際関係からしてあり得ないことだ。
だがクリエルフィを見るアッティス老人の視線には哀れみこそあれど、敵意も侮蔑も籠もってはいなかった。
「リュキアという国を興した
ファリスキー家を辞したクリエルフィはとても正気ではいられなかった。
面と向かって羽虫扱いされたのはこれが初めてで赫怒に燃えてもいたが、同時にその赫怒は消火されてもいる。
誰もが影でクリエルフィを嘲笑い財を吸い上げる中、あの老人だけがあえて目の前でクリエルフィを虚仮にして現実を教えてくれたのだ。誰よりもクリエルフィに親切だったのがあの老人だったのだ。
彼が止めてくれなければ、クリエルフィは全ての財を使い尽くしても、何故自分がそうなったのかすら理解できずにいただろう。感謝こそすれ、恨む理由などあるはずもない。
「マルク……」
「……迂闊でした。まさしく精神的鎖国というより他ありません。我々とは根底からして違うのです。利も益も最初から度外視されていたとは……」
これはクリエルフィやマルクが個人として愚かだった、というより
ラジィもそうだが、
それは善意という炎は分かりやすい利益を投入せねば燃え続けることができない、という現実的な視線を持っているからであるのだが――このリュキア貴族社会は違うのだ。
たとえ自分が損をしてでも、
思考の組み立て方それ自体が、シヴェル大陸とは全く異なるのだ。それに気付くまでに、クリエルフィは持参した資産の九割強を投入してしまった。
「影響力のある貴族から信者を得て行くのが
戦略が間違っていたことをクリエルフィは認めざるを得なかった。同時に、自分たちの脆さ弱さを此処で初めて思い知った。
【
クリエルフィとマルクが得た情報だけがクリエルフィの知りうる全てで、それらは虚実が玉石混淆。一切禊されることなく正誤も定かならぬままクリエルフィの耳に流れ込んでくる。
これまでは、正誤を判断するのは外で全てやってくれていた。だが今は情報の正誤の判断もまたクリエルフィの一存でしかないのである。
「これ以降は庶民を相手に布教をしていくしかないわね」
「はい、それしかないでしょうな」
自分が仕入れた情報の正しさを肯定してくれるものが、これまで培ってきた己の自意識ただ一つしかないのだ。
【
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