■ 167 ■ ブルーノに降る慈雨
「私はお前をソフィアの中から消そうとしていたんだぞ! お前は私を罵倒して、恨む権利がある! いや、そう在らなくてはならないんだ!」
ブルーノの剣幕を前に珍しくラジィはたじろいでいた。
ブルーノがこのリュカバースで感情を、特に怒気を露わにしたのはウルガータの前以外ではこれが初めてだ。
ブルーノは頭の回転は早いが熱くもなりやすいウルガータの冷却剤であった。これまではずっとそういう姿を維持できていたから、ラジィにとってはそれは意外で、
『いや、父さんならそうするだろ? いきなり自分の娘が夜になったら女の子のスカート捲ってバカなこと言ってたら、治さなきゃって思うじゃん。今の俺ならそれぐらい分かるんだぜ?』
そうリッカルドに「分かる分かるよ、今の俺ってばすげー賢くなったんだもん」みたいな雰囲気で頷かれると、ラジィのみならずブルーノまでも感情が千々に乱されて、どう反応してよいか分からなくなるのだ。
『それにさ、責められない理由もちゃんとあるんだ。怒らないで聞いてくれないか、父さん』
「……言ってくれ」
『うん。これまでの俺ってさ、クリストフによく怒られてたんだけどさ。なんで怒られているのかよく分からなかったんだよ。ずっと理不尽だって思ってた』
これまでの、要するに【
だからリッカルドは成長できなかった。精神的にも大きくなることができないでいたのだ。
『クリストフはこれは前に説明したことだ、っていうのにそれ、俺は覚えてないんだ。だからよく分からないのにそれでは駄目だって叱られてさ。今なら分かるけど――当時は、分からないことを諌められてちょっとムカついてたから』
だから分かるのだと、リッカルドは言うのだ。
『分かれないことをさ、知っていて当然みたいに責められるのは辛いんだ。だから父さんが俺をソフィアの中から消そうとしていたことを、俺は責められない。それを責めたら、俺は辛かった昔の自分に非があったんだって認めることになっちゃうから』
知らなかったことを責められたくはないと。だからブルーノを責める気はないとリッカルドは極めて理性的にそう説明して、
『だから、父さんが俺を認めて、リッカルドって名前を付けてくれたことが何よりも嬉しいんだ――俺、父さんの息子でいていいんだよな?』
その一言でようやく、ブルーノの情けない自縄自縛は粉微塵に砕け散った。
ブルーノが、普段のその毅然とした姿からは想像もつかないほどに情けない足取りで一歩一歩、
「当たり前だ――リッカルド、リッカルド――」
くずおれるようにその胴体に腕を回して、その胸にかき抱く。
「生まれてきてくれてありがとう。こんな不甲斐ない私を父と呼んでくれてありがとう。ノヴェッラ……見ているかノヴェッラ。君の言う通り、子供の命こそが私たちの何よりも得がたい宝だった……! 性別など、関係なく――」
そうして大の大人にしがみ付かれ号泣されたリッカルドの方が、今度は反応に困ってしまったようだった。
致し方あるまい。実質的にリュカバースを統治するマフィアのナンバー2が、正体をなくして落涙しているのだから。
『え、えーとさ、ほら。父さんは胸張れよ! 父さんはこのリュカバースの安定のために頑張ってるんだろ!? クリストフが行ってたよ、麻薬を売りに来る奴らがドンが変わってから来なくなったって!』
ブルーノの配下だけあって、クリストフは麻薬を忌むべきものとリッカルドとソフィアに説いていたのだろう。
そんな励ましもあって、ようやくブルーノは自虐の渦からかろうじて離脱できたようであった。
『だからさ、父さんはリュカバースの皆が言っているようにヒーローなんだろ!? だったら格好良くしててくれよ! その方が俺も胸張れるからさ!』
そんなリッカルドの照れ隠しも衒いもない言葉だからこそ、ブルーノは逆に自虐もせずに素直に頷けたのかもしれなかった。
「……ああ、みっともない姿を見せてすまなかった。リュカバースの安全は私が守ってみせる。だから――」
『任せとけって。ソフィアはちゃんと俺が守ってみせるからさ!』
「だから――リッカルド。お前も幸せになってくれ」
そう告げられたリッカルドが、初めて身を強ばらせた。
「一人の人間として生んでやれなくて済まなかった。普通の人生を送らせてやれなくて済まなかった。こんなことを言う権利がないことは分かっているが――
『そう言われてもなぁ……俺今の時点でかなり幸せだし』
そう求められて、今度は逆にリッカルドのほうが動揺してしまう。
実際のところ、リッカルドからすれば数億カルは下らないというこの身体をひょいと渡された時点で『父さんの人脈すげー! 流石マフィアだぜ』みたいに普通に尊敬していたし、ソフィアの身体の中にいるときなら料理の味や匂いだって感じるし、何より今は自分の身体で動き回れている。
『それともやっぱりあれ? どっかのギルドに入って手に職付けろってこと?』
「ああ、いや、それを強要するつもりはないが……ほら、何かあるだろう? 何も趣味がないとナガル氏みたいにこう」
おっとその先は好ましくない個人批判だぞ、とラジィに視線で止められてブルーノは口を噤んだ。
別に趣味がなくてもナガルは別に寂しい人生を送っているわけではない。その筈だ。
『ならさ、俺早く魔術使ってみたい! ソフィしか使えないって不公平じゃん。父さんが俺を魔術師にしてくれるんだろう?』
「――ああ。私自身はもう魔術は使えないが、洗礼だけならやってやれる」
『よっしゃあ! あ、なら時々でいいからさ、指導してくれよ。ジィが後で教本作ってくれる約束にはなってたけどさ、いいだろ?』
「勿論だ。ただ、あまり時間は取れないが」
『そりゃ仕方ないよ、
そうして
「よかったわね、ブルーノ」
「ああ、エルダート嬢と【
「違うわ、貴方がリッカルドが自慢するに足る大人であれたからよ。そこ、忘れないでね」
ブルーノ・レンティーニは既に一度道を踏み外して貴族の地位を失ったが、それでも大事なものはずっと零さず抱えて、ここまでやってきた。
ドン・コルレアーニのように恨みを買うことなくやってこれたから、リッカルドはブルーノを誇りに思ってくれるのだ、と。
「……席、外すわね」
そうラジィが音もなく去ってくれて、ブルーノは再び静かに泣いた。
ブルーノが思っていたよりブルーノに優しかった世界を、一人噛み締めながら。
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