■ 098 ■ 逆転する立場
「グラナを倒したか。万が一にもあり得ぬとは思っていたのだが――大したものだよ、君たちは」
声のした方に、七人が弾かれたように顔を向ける。
闇の中、貧民街の通りに姿を現したのは年頃は五十代半ばほどと思われる、しかしその全身に活力を滾らせている初老の男だ。
この顔を、ラジィは知っている。ガレスも、ナガルも、シンルーも知っていた。己のボスについて、護衛としてテーブルを訪れたことがある魔術師たちは知っていた。
「ドン・コルレアーニ……」
「いかにも。俺がこの街のドンだ」
ラジィの呟きに、ドン・コルレアーニが好々爺のような顔で頷いた。
斜め後ろに二人の黒服――護衛の魔術師だ――を従えたコルレアーニが、満身創痍の一同を見て満足そうに応える。
「さて、交渉といこうか。グラナを失ってしまった俺は次の処刑人を必要としていてね。君たち、纏めて俺に雇われるつもりはないか?」
「なんであると思うのかな……頭に蛆でも湧いてるんですかおっさん」
ティナにそう虚仮にされても、コルレアーニの笑みはただただ穏やかに深まるばかりで。
「何故、と問われれば無論、こういう理由さ」
コルレアーニの言葉と共に、ザッとその場を取り囲むような
右手には剣、左手には盾。その盾には燦然と輝くリュキア王国の紋章が刻まれた、すなわちリュキア王国騎士団。
三十名からなるリュキア騎士、即ち三十名からなる
それがずらりと円陣を組んで、ラジィたちを完全に取り囲んでいる。
『我ら大地に蒔かれし竜骨、
更には聖句まで唱えての完全待機だ。満身創痍のラジィたちを相手取ってなお油断せず慢心せず、騎士団が円陣を狭めてくる。
「リュキア王国騎士ともあろうものがマフィアの指示に従って行動か。見下げ果てたものだね」
リュキア王家とそれに従う貴族が嫌いなクィスがハッとせせら笑うと、騎士の間に緊張が走るが――一人がそれを手で制する。
「知ったような口を聞くな小僧。此なるはリュキア貴族アンティゴナ・カルセオリー伯爵直々のご命令である!」
隊長と思しき男がそう声高らかに詠い上げ、その後に、
「いかにも。リュキア貴族たるもの、街を清潔に保つための努力はせねばならぬのでな」
コツコツと石畳を響かせ、コルレアーニの横に現れた人影は――ガレスも、ナガルもラジィも見覚えがないが、クィスには見覚えがある。
「伯爵閣下がわざわざこんな時間にこんな場末までいらっしゃるとは、ウルガータファミリーも随分と大きくなったものだね」
その声に一同は驚愕に満ち満ちた顔を見合わせた。
その驚愕は意外であるが故に生じた貌であったのだが、驚いた理由は当然、ドンと伯爵が結び付いていた事実に対してではなく、
「伯爵閣下、もしかして暇なんですか?」
「こんな夜中によくもまぁこんな下町まで来たものです。案外勤勉な方なのでしょうか」
「驚いたわ。伯爵閣下のような雲の上の存在が貧民街に自らの脚でいらっしゃるとか。その真面目さには素直に頭が下がるわよ」
伯爵がこんなゴミ捨て場にも等しい場所へやってきたことに対する敬意――そう、敬意である。
挑発しているようにも聞こえるが、言及したティナ、アウリス、ラジィの三人は本気で感心しているのだ。
何せ貴族というのはお城の中でふんぞり返るのが仕事なので、現場に出てくるだけでも立派すぎて崇め奉りたくなるぐらいなのだから。
「貴様ら、不敬であるぞ!」
隊長と思しき男がそう声を上げるが、それを伯爵は手振りで諫める。
「僑族の害虫どもよ、お前たちには二つの選択肢がある。この場で虫けらのように死ぬか、コルレアーニについてこの街のウジ虫どもを一掃するか、だ」
「ウジ虫、と仰いますと? 伯爵閣下」
分かってはいるけど一応、ラジィがそう問うてみる。
「決まっておる。我らの商売道具を廃さんとする、金の価値も分からぬ黒蝿どもよ」
なるほど、と一同はもう苦笑いするしかない。
薄々察していはいたことだが、仮にもリュキア王国貴族とあろうものが麻薬商売でドンと蜜月状態にあるとは世も末だ。
せめて「麻薬商売はコルレアーニが勝手にやっていることであり、領主としては解決したいが手が回らない」ぐらいの
「あれでマクローはまだマシな方だったんだな……自分の行いを恥じられるだけの良心があったわけだし……」
クィスなどはもう呆れて物も言えない。というか、これに比べるとステネルスやストラトスはかなりまともだな、とすら思えてしまう。
「あの、伯爵閣下、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
ティナが幽雅な所作でそうお伺いを立てると、
「貴様ら虫どもに質問をする権利などない。ただ黙って従え、それが貴様らに許される唯一の道である!」
「まあよい、質問を許す」
騎士が咎め立てしてくるが、伯爵は鷹揚にも質問を許可してくれた。クズなのに変なところで良い人だな、と一同は妙に感心してしまう。
「ドン・コルレアーニと組んで麻薬商売に精を出すと、恐らくリュキア王国の文化、治安水準は目に見えて低下すると思われます。長い目で見れば国益を損ねることになると愚考する次第ですが、よろしいのでしょうか?」
「ほう? 羽虫にしては広い視野を持っているではないか」
どこか感心したようにカルセオリー伯はつるりと顎髭を撫でて、しかしティナに分かってないな、とばかりの視線を向ける。
「他領の治安と文化を維持する義務はそこを治める貴族に帰するものである。よって私がそれを考慮する必要はなかろう?」
そんな返答にティナは「んな訳あるかよ」という顔を微笑の下に押し隠そうとして、
「なんちゅー国家帰属意識の低い連中なんだ……ただの賊臣じゃんそれ」
ティナなのでやっぱり隠すことなく本心を明け透けに語ってしまう。
ただ伯爵閣下は高尚にも立派な人類であらせられたので、害虫どもの鳴き声には何らの感慨も抱かなかったようだった。
「して、回答は如何に?」
ドン・コルレアーニの配下として生きるか、ここで死ぬか。どちらを選ぶか。
そう問われた七人は互いに顔を見合わせて、ここで語るべき言葉を定めた。
『クソ食らえ』
七人の言葉と心が完全に一体化したその返事は、いっそ玲瓏として美しく月夜に響き――
「よかろう。隊長、その七人の首を――そうさな。明後日の朝までに、私の前に並べるように」
カルセオリー伯は命令を下す。所詮羽虫どもには我らが高尚な未来絵図など理解できぬかと、落胆の色など一切見せずに。
明後日、と一日の猶予を与えられたリュキア騎士たちはその意味を正確に把握した。
「隊長、伯爵閣下のご命令ですし、明後日の朝までなら自由にしても構いませんね」
それは貴族社会で鬱屈に生きる騎士たちへの息抜き、ガス抜き。即ち「略奪と陵辱の許可」である。
「……騎士ならば
どうやら騎士の指揮を任されている隊長格は僑族なんぞ頼まれても買わん、というリュキア騎士の
そのお墨付きを得て、リュキア騎士たちが雄の匂いを撒き散らしながら包囲網を狭めていく。
「ガレス、クィス。やれそうですか?」
「瞬殺されていいならな」
「少しぐらいは持つ壁になれたら御の字、かな」
アウリスとラジィは当然として、ティナも十分貴人として美しい少女だ。
シンルーも目に見えた瑕疵があるわけではないし、黙ってさえ、黙ってさえいられれば線の細い女性だ。さぞ屈強な騎士からすればいたぶり甲斐があるだろう。
「あー騎兵隊とか来ないかなー」
「ある意味目の前にいるのが騎兵隊ですけどね。騎士ですから」
「ふ、ふふふ……剣じゃなくて竿握ってるのが騎士とか……大地に竜骨じゃなくて
下卑た笑顔で距離を詰めてくるリュキア騎士団に対し、ラジィたちは本当に打つ手が無い。
精も根も、グラナ相手に絞り尽くしているのだ。鼻くそほじる程度の余力はあるが、あるのはその程度。気力体力魔力が充溢しているリュキア騎士には、もう逆立ちしたって抗える余裕などない。
万策は、グラナを倒した時点で尽き果てている。
「男は殺して海に撒け。女は四肢の腱と喉を切って沈黙させろ。精根尽き果てたと言っても魔術師だ。油断するなよ」
『応!』
三十人からの円陣である。それがたった七人を囲めば当然、数が多すぎて前列後列に別れざるを得ない。
「さぁて女は四人だから穴は十二だぞ! 十八人は後回しだな!」
「どれからいく?」
「では私はその金髪を予約かな」
「あ、俺も!」
「おい! 序列順だぞ! 序列が高い方が先だ!」
「アーまた始まったよ序列論。濡れ場に序列持ち込むとか寝言は寝てから言え」
どう考えても子供のラジィなのだが、他が皆パンツルックである中で一人可憐なドレス(ローブだが)を纏っているのはやはり目を惹いてしまうようだ。
何だかんだで服装ってのは重要なんだなぁ、なんてラジィが考えているのは、ある意味では現実逃避の一環だろう。グラナ相手の罠が、完全に裏目に出てしまっている。
「さーて金髪狙いだと順番が後回しになるぞ? 他人が使った後の穴と初物どっちがお好みだ?」
「あー、じゃあ俺らそっちの桃色の貰うんで」
「早い者勝ちかぁ、ではアルカス班はあちらの茶髪頂きます!」
「ではバトー班は緑髪の女で!」
もはや勝利を確信し押し合いへし合いで迫りくる男たちの顔は、いっそ新色町に来る船乗りたちより遙かに品のない、嗜虐的な笑みを浮かべていて見るに堪えない。
当然だろう。船乗りたちはきちんと金を払って一夜を買う客であり、このリュキア騎士たちは暴力で全てを恣にする劣情の獣であるのだから。
「あぁ、久しぶりにあれをヤれるな。行為中に腹刺すとギュッと締まるからホント気持ちいいんだよなぁ……」
「おい、損壊行為目的なら後に回れよ!」
「どっちにしろ裂けるんだから同じだろ。あんな小さい子なんだからさぁ」
「お前、童顔なのにあそこだけは巨根だもんなぁ!」
ゲラゲラと品のないことを言いながら輪を閉じてくる騎士――と呼ぶことすら烏滸がましい腐敗した禿鷹どもの、
「あ」
序列が低いせいだろう。二重三重になった円陣の外側に押しやられていた一人の騎士が突如として地に倒れ伏したことに気付いたのは、どうやらまだラジィだけのようだ。
そのまま二人、三人と倒れる者が続いても、もはや空想、いや妄想の世界に片脚を突っ込んでいる騎士たちでは背後のことまで気も回らないらしい。
「では、勝った順に正面、口、尻穴だぞ」
呑気にじゃんけんなんかして勝者となった男がグッと拳を握って勝ち誇り、
「さぁ先ずは俺からだ。大人しくしてろよ小娘。腹や脚に穴を増やしたくなければな」
ナガルやクィスたちを易々と殴り倒し、踏み付けにし、ラジィへと向けて伸ばされた手が――
横合いから手首を掴まれヒョイと回され、面白いほど簡単に捻れ曲がった。
「ギ、ギャアアアアッ!! 腕が、俺の腕がァアアッ!」
「悪い、少し静かにしててくれ」
コン、と撫でるように魔力を流されたリュキア騎士があっさり昏倒するにいたって、ようやく他の騎士たちはその存在に気が付いたようだった。
「泣いてないか、ジィ」
月夜に輝くは、収まりの悪い黄金の跳ねっ毛。
獣のような赤い瞳は、しかし穏やかで親しみの籠もった視線を同じ色の髪と瞳を持つ少女に向けている。
「泣いてないわよ。まぁもう少しで悔し涙を流してたかもだけど」
今のラジィと兄妹のように似通った特徴を持つ少年が、その回答にホッと安堵したように溜息を零す。
「よかった。もし間に合わなかったら俺はお前との約束より【
その言葉に、ラジィを除く六人も目の前にいるのが誰か、なぜラジィがこうも余裕の態度でいられるのかを理解した。
【
「きっ……貴様、無礼な! 我らをリュキア騎士団と知っての狼藉か!」
ようやく事態に気が付いた騎士たちがもはや倒れたナガルやクィス、ガレスなど一顧だにせず一斉に闖入者へ向けて剣を構えるが――
構えた先から剣が根元からポキン、パキンと小枝のようにへし折れていく。
あまりに異質な状況に、リュキア騎士はおろかクィスやティナは当然としてアウリスやナガルすら、もはや言葉もなくポカンと気の抜けた顔を晒してしまう。
いったい何が起こっているのか。ラジィと、
「……嘘だろ」
そして一度それを喰らっているガレスだけは気が付けているようだ。
夢でも見ているのか、とばかりに身を起こしかけた姿勢でガレスは固まってしまうが、ラジィからすれば何ら驚くに値しない。
そう、指先をちょっと振るうだけの【
そうやって騎士たちを武装解除した少年は大股でラジィに近づいて――
「いたいいたいいたい! 何すんのよディー! 私のこの大怪我が見えないの!?」
両拳でラジィの頭を挟んでグリグリとこめかみを抉り始めた。
「見えてるわ阿呆! 『それ』は危ないからやるなって俺口酸っぱくして言っただろうがよ! お前の耳は節穴か!? それとも俺の言ったこと何も聞いてねぇのかよ!」
うわぁ地味に痛そう、とティナやクィスは悲鳴を上げるラジィを見て、ちょっとだけ同情する。
「仕方ないじゃない! 強敵だったのよ! 使わなきゃ勝てなかったの! 装備だってないし!」
「危ないことはするなって俺はいつも言ってるだろうが! そういうのやる時は俺を呼べって! あと装備がねぇのは調子こいて
『は!?』
とティナたちはおろかリュキア騎士、また空気に呑まれていたドン・コルレアーニとアンティゴナ・カルセオリー伯爵までもがギョッと目を剥いてラジィを見やってしまう。
そんな周囲の状況に見向きもしない少年は背中に負っていた背嚢を下ろすと、中から小瓶を一つ取りだして蓋を開け、
「モガッ、ガボボッ……!」
それを逆さにしてラジィの口に突っ込み溜息を吐く。
「ああもう、二本しかねぇのに早速一本消費かよ。お前、
「ゲホッ、ゴホッ……だから、仕方なかったって言ったじゃない! ディーの方こそ、その耳は節穴なの? 私の言うことちゃんと聞いてるの!?」
怪我も癒えてすっかり回復したラジィが立ち上がって拳を振り抜くも、少年は易々とそれを受け流してラジィの肩を掴み、
「アダァッ!」
ゴチンとその額に己の額を叩き付ける。完治したラジィが完全に子供扱いだ。
いや、まだラジィは子供ではあるが。
「だからそういう危ないことは自分でやらないで俺を呼べって――はぁ、もういい。ほら。アレフからの餞別だ」
ヒョイ、と放り投げられた剣をラジィが鞘から引き抜いて、その刀身を目にしたガレスやナガルはもうドン引きだ。
竜麟の剣。それが追加でリンゴでも投げ渡すかのような雑な扱いで現れていい筈がない。
「あとラムからローブも預かってきたが――なんだ? お前今日は随分とおめかししてるじゃないか! ようやくお洒落に目覚めたのか? 旅はするもんだな」
「今頃褒め言葉? ディーはいつもいつも気付くのが遅いのよ。そんなんだからモテないんだわ」
「いや、お前服装褒められて喜ぶ女じゃなかっただろうよ」
「私は
「はいはい
その身をごく普通の綿のローブに包み、その両手にはなにも持たず、ただ拳だこで節くれだった手を握りしめただけの少年が、気負うでもなくそうラジィに問いかける。
「ここにいる六人以外は全員。ああ、ディー」
疲れたように腰を下ろしたラジィは、
「間違っても
さも当然の顔でそんなことを言い、
「分かってるよ。俺だって子犬相手に本気で殴りかかるほど馬鹿じゃない」
言われた方もまた当然の顔で頷いた。
「けどまあ、うちの妹分を泣かそうとして――ただで帰れるとは思うなよ」
ブワリ、とその少年が秘めていた闘志を解放すると、ただ漏れ出した神気だけで近くにいたリュキア騎士が卒倒し、泡を吹いて倒れ伏す。
「……うわ、ディーってばまた更に強くなってる。何なのよこいつ」
たった一年見ない間にまだ強くなったのか、とラジィは素で引いてしまった。
満身創痍のクィスたちまで、ちょっと気を抜いたら気絶してしまいそうなほどの圧倒的な神気の重圧。
この威圧感は――冗談じゃない。聖句を唱えたグラナですら比較にならないほどだ。
「き、貴様、何者だ!?」
一応リュキア貴族家当主だけあって序列持ちの魔術師だろうから、少年の身体から溢れ出す絶大な神気が分かってしまうのだろう。
カルセオリー伯に真っ青な顔でそう問われて、少年はゴキリと肩を回す。
「
そうして、その場に立っている魔術師がツァディ一人になるのに煙草一本を吸い終えるほどの時間もかからない。
腰の引けた三十人のリュキア騎士、及びドン配下の魔術師は文字通り何もさせてもらえず、
「これで最後だ、成敗!」
一人残らずツァディの拳に撃沈され、リュカバースの地に倒れ伏した。
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