■ 097 ■ 決着
「何故だ、何故応えてくれねぇんだリッカ……アラセリィ……」
グラナの身体は今や、自らの内から零れ落ちた血の池に横たわっている。
致命傷だ。しかし
だが、
「何でだ、何でだよ。誰が邪魔してるんだよぉ……俺たちの絆を、誰が……」
「誰も邪魔してないわ」
ずしゃり、とグラナのすぐ側に力尽きたように崩れ落ち尻餅をついたラジィが、哀れむように上からグラナを見下ろしている。
「貴方は本当の意味で家族を救済できていなかったのよ。だから誰も貴方に応えない、たったそれだけの話」
「嘘だ、そんなはずはねぇ……だってこれまでずっと、なにも問題なんてなかったのに……」
そうだろうな、とラジィは思う。これまではなにも問題はなかった。
だが、今回だけは決定的にこれまでとは違っているのだ。
「貴方は失敗したのよ。貴方は私を救済せずに処刑するべきだった――いえ、貴方の性格からして、私を救おうとせずにはいられなかったのでしょうね。貴方は自分の救済を捨てられなかった。それが貴方の敗因」
「そうだ……俺はお前を救ってやりたかった、救いたかったんだよラジィイ……」
分かってる。ラジィは分かっている。グラナは方法を完全に間違っているとはいえ、人を救いたいというその心は本物なのだ。
「でも、貴方に身を捧げた子たちは私を救いたくなんてなかったのよ。だから貴方たちは同じ価値観を共有する同胞ではなくなり、
その一言に、グラナが目を見開いてラジィを見る。
月光の下で輝くラジィ・エルダートを見る。
鴉の濡れ羽色、光沢を持つドレスのようなローブに、今や金色に輝く金糸のような御髪。精緻に整った目鼻立ち。紅玉より澄んだ真紅の瞳。
幾たび倒れようとも立ち上がる強靱な意志に、それに見合った魔術の才能。輝ける宝石のような少女。
「貴方は人の嫉妬を甘く見すぎだわ。あるいは弱者の残虐性を軽視していた。貴方が救ったつもりでいた子たちはね、私を救いたいなんて欠片も思っていないの。私を踏みつけにして、服を破いて、肌をズタズタに切り裂いて股ぐらに槍を突っ込んで、四肢を切断し目玉をえぐり出して顔を焼き髪を頭皮ごと引きちぎって、どうだざまぁみろって嗤いたいのよ」
「そんな……なんでだよ……同じ救われなかった、同じ苦しみを味わった仲間だろ……同胞じゃないか……家族として迎えるべき不幸な仲間じゃないかよ……」
哀れだ、とラジィは心底グラナを哀れんだ。この男は根っこがあまりに純朴すぎる。
苦労し、虐げられてきた者たちは、だから救われたなら自分と同じ境遇にある他人を救おうとするだろう、と。そうあるべきだし、そんな自分に同調してくれるはずだと信じすぎている。
「貴方は人の死に意味を与えてやるのではなく、人の生に意味を与えてやらなければならなかったのよ。そうすれば、こんな風には貴方は負けなかった」
実際には、救われれば自分もまた人を救おうと思うなんて、そんなことはあり得ない。
これまでグラナは『死を望まれている孤独な少女の魔術師』を一度も救済したことがなかったから、それに気が付くことができなかった。魔術師はみな処刑対象だったから気付けなかった。
だがラジィは
人の醜さを嫌と言うほど知っていた。だからラジィは今日この場に、一流裁縫師フルールが最も可愛く見えると太鼓判を押すローブを纏って参戦したのだ。
これがラジィの仕掛けた最低最悪の罠だ。
天使として一分の隙もなく作られたその容姿を全力で利用した。たまたま己に与えられただけの造形美を見せつけて嫉妬を煽る、卑劣な離間工作だ。
その罠にグラナは気がつけず、生け贄の少女たちは――気付こうとも気付けずとも関係ない。
ラオに一度問われてしまえば自分の気持ちに嘘はつけず、彼らの家族は崩壊し
ラジィ一人になら、グラナは間違いなく勝てていただろう。だがグラナの余力を削る仲間がラジィにはいて、そして生け贄として死んだ者たちに語りかけられる死の超越者がラジィに味方していた。
麻薬の効果がなければ、志を同じくはできなかった。それがグラナの敗因だ。
「駄目だ……俺はこんなところで死ねねぇんだ……なぁラジィ……頼むよ、俺の家族になって癒やしてくれよ……お前なら……分かって、はっ、くれるだろ……」
希うかのような視線を、往生際も悪くグラナはラジィに向けてくる。
各々が手当を終え、止血を終え、両者の会話を見守っていたクィスたちはその情けない有様にグラナを見下したが、
「そう、そういうこと」
ラジィだけは違った。気が付いてしまったのだ。
「貴方が救いたかったのは
「ちげぇよ……ラジィイ、
ラジィは黙って頷いた。そうだ、この男なら人間の救済にも手を抜いてはいなかったろう。
「魔術が時代に噛み合わず、もはや使い手もいなくなり誰にも見向きもされなくなるであろう
自分の身はどうなってもいいから、魔獣討伐に向かった勇者を、恋人を、家族をどうか勝たせて下さい。無力な自分にも、何かをやらせて下さいという苦しみに応えて、天使がその命を擲って降臨した神だ。
「そうだ……人を、救ってきたんだろう? 遙か昔から……ずっと、人を……はぁッ……助けて、きたんだろう……なのに……非道だ……使えないっ……そんな、そんなのは……あんまりじゃないか……」
グラナはずっと、
誰に批判されても生け贄を捧げ、お前を必要としている人はいると、お前は忘れられたわけじゃないと。お前の献身には価値があったのだと、誰に石を投げられようと、グラナはずっと
でも、その為にやったことは、人を生け贄として捧げるただの殺人だ。
「貴方の努力は無意味よ。既に神となった
だからそんなことはやめろ、というラジィに、グラナはいっそ怒りすら抱いたようで。
「人の……思いやりを……報われないからって……無意味だっていうなよ……人を思う心が、はっ…………人を、温めて、心を……救うんだろ……他者を……思う心を……踏みつけに、するな、嗤うな、笑うなよ……それが、一番……大事なことじゃないか……」
そんなグラナの血を吐くような一言は、この場に集った誰にも否定することはできなかった。その言葉は恐らく、この世で最も優しく温かな、美しい言葉の一つであっただろうから。
ラジィが開戦前に「貴方ほど真摯に人を救おうとするものは私たちの中にはいない」と言った意味を、生き残った魔術師たちもまた正しく理解したのだ。
物理的にはグラナは否定しようのない悪だが、精神的には献身的なまでにグラナは善なのだ、と。人の心の美しさを、どこまでも信じ続けて壊れたのがこの男なのだと。
「頼むよ……ラジィ、俺に……
もう、身体に血が残っていないのだろう。薄れ往くグラナの意識は、それでもただ一つだけのことを望んで、唇を懸命に震わせる。
その願いは、あまりに真摯ではあるけれど。
「いいえ。私がそれを否定します。私たちは、私たちのために、私たちのためだけに人が殺されることを良しとはしません。それは私たちが何者にもなれないまま死ぬ以上に、私たちを苛むから」
ラジィはグラナの言葉を否定する。ラジィ自身が天使だからこそ、グラナの言葉には頷けない。
天使は、神になることのみによって救われる。人を救済するために、神になるのだ。その神のために人の命が失われることを、天使は望まない。
それは
「だから、せめて私が記録に残しましょう。
信仰が失われても、信者が一人としていなくなっても、神とは停止することなく動き続ける
そういう知識を紡いでいくのが、ラジィ・エルダートに課された【
「私を信頼してもう眠りなさい、グラナ。私は【
応える声はない。グラナは既に事切れている。
だが、その死に顔にはどこか安堵したような色もあって、だから、多分。声だけは、ちゃんと届いたのだろう。
そうしてラジィがグラナの目蓋を閉ざしてやると、地面がぐもぐもと盛り上がって、
「あー、終わりました? 足音しなくなったから終わってますよね?」
ティナがヒョイと地面から顔を出してくる。
「ええ、ありがとうティナ。私たちの勝利は貴方のおかげだわ」
今日の勝利の立役者は誰かと問われれば、誰もがティナだと応えるだろう。
彼女はラジィによる【
ティナの徹底した妨害がなければ、全員揃ってこの勝利を得ることはできなかったはずだ。
「よっしゃ! はっはー、この変態麻薬クソ野郎めがゴミのように死にやがったなぁザマァミロぉう! へっへー、治りかけた傷のかさぶたが綺麗に剥がれた時みたいなスカッと最高の気分って奴よねぇ!」
そう勝利を無茶苦茶に喜んでいるティナのおかげでその場の空気は完全に台無しなのだが、
「あれ。なんで皆そんな空気読んでない子見るみたいな顔なの? もっと喜ぼうよ! これでリュカバースは麻薬から守られるんですよ?」
なるほど、グラナの思考や善性はさておき、これでドンの切札は失われたわけだ。ティナの言うとおり喜んでもいいだろう。
「しかしまあ、見事に満身創痍ね……」
ガレスは脇腹を押さえているが、この中では比較的軽症だ。だがロクシーが重傷を負っているため、魔術師としては暫くは戦力大幅ダウンだろう。
ナガル、アウリス、シンルー、クィスは胴体に風穴を空けられてるが、簡単な止血はすんでいるし、今すぐ死ぬということもなさそうだ。
ラジィは身体が一度
五体満足なのはティナだけだが、そのティナも魔力はすっからかんで煙も出ない。
そんな満身創痍ではあるが、ラジィたちの勝利には違いない。
ラジィが皆に労いの言葉をかけようとしたところで――
「グラナを倒したか。万が一にもあり得ぬとは思っていたのだが――大したものだよ、君たちは」
パン、パン、パンとその場に乾いた拍手が響き渡った。
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