■ 093 ■ 運命神の降臨
その日のことを、ラジィ・エルダートはよく覚えている。
「お前たち! この連中は敵だ!
七人の訓練兵はそう命令を下され、槍を手に精鋭の神殿騎士たちへと果敢に挑んでいったが、所詮は訓練兵である。鍛えた精鋭になど敵うはずもなく、全員が安々と捕縛された。
「神殿騎士隊長カイ、全員保護しました。ダート修道司祭もこちらに」
「クソっ、クソクソクソ。何故だ、何故私が罰されねばならぬ! 私はここまでこの訓練兵たちを鍛え上げただろうに! 私は私の責務を全うしただけだ!」
訓練兵たちと同様に床に引き倒され、神殿騎士に取り押さえられたダート修道司祭はそれでもまだ自分の非を認めずに、そう呻いていた。
「子供を麻薬中毒にして操るのが貴方の責務ですか。
「多少の逸脱ぐらいは誰だってやっているだろうに! どうして私だけが逮捕されねばならぬのだ! ふざけるな、こんな不公平があるものか!」
「不正を正すことが公平の第一歩なのですが……どうやら貴方と私は永遠に分かりあえることはなさそうですね。連れていきなさい」
そうやって神殿騎士隊長カイが配下にダート修道司祭を連れて行くよう指示を出して――
――違う。
訓練兵Gは否定する。
公平を騙る女を否定する。
ダート修道司祭の言葉に同意する。
「もう大丈夫だジィ。無理言ってカイに連れてきて貰ってよかった。これからは辛い目になんかあわせない。俺がお前を守ってやるから」
そう、思い出した。
ディー、会ったことがある。
だから、助けてくれるのか。
だから、訓練兵Gは助かるのか。
なら、それは訓練兵Gとディーの面識がなければ、訓練兵Gはこの場で死んでいたのではないだろうか?
ダート修道教会には招かれなかった、魔力を持たない子どもたちのように。
訓練兵Gの努力に関係なく、ただ運だけが訓練兵Gを生かしている。
意味がない。
これまでの苦労が全て否定される。
これまでの苦しみの全てが否定される。
全ては運で決まる。
これだけ苦しんでも、これだけ痛い思いをしても、これだけ苦労したのに。
その全てに関係なく、生きるか死ぬかもただ運だけで決まるなんて。
「許せない……」
「ジィ?」
理解した。
この世界に苦しみを生み出すものを
この世に蔓延る苦しみ。
生まれたときから差がついていて覆しようがない格差。
どこに生まれるかでその後の生き方まで定められてしまい、覆しようがないという絶望。
魔獣が脅威? 笑わせるな。
魔獣は一様に人を殺す。貧富も貴賤も関係ない平等な死因だ。むしろ好ましくすらある。
許せないのは隔たり、偏りだ。
高貴な出だと殺されない。
魔力持ちだと殺されない。
お金持ちだと殺されない。
その全てが、まず運から始まり、その差を覆すのが容易ではない。
容易ではないのに、不可能ではないと欺瞞を語り、是正されることはない。
これが苦しみだ。
これが人類全てに共通する苦痛だ。
故に、
「おい、ジィどうしたんだよ!? カイ来てくれ! ジィがおかしいんだ! なんだこれ! ジィが組み変わっていく! 何なんだよこれは!」
掬いましょう。
救いましょう。
あらゆる不運から、貴方たちを救いましょう。
ここに降臨は為されました。
子どもたちよ、喜びなさい。
この
喜びなさい、子どもたちよ。
貴方たちはもう二度と、不運に苦しめられることはないのだから。
§ § §
そうして、ラジィ・エルダートは力を振るう。
グラナを否定するために。
これ以上麻薬中毒者を生まないために。
ティナやクィスを、この戦から生還させるために、ラジィ・エルダートは禁忌に手を伸ばす。
ごぞり、と身体の中で何かが動く感覚がある。皮膚を突き破り、背中から飛び出した翼が光を帯びて、その身をふわりと浮き上がらせる。
魔術を濫用している事による副次的効果だが、ここでは極めて有用だ。
ティナがせっせと足繁く地面を柔くしている、この戦場では。
「ラジィ!? その姿は……」
「攻撃続行」
「ッ! 了解!」
ラジィが長くは続かないと言っていたのを思い出したのだろう。ガレスが変異したラジィを後回しにして己の役目に注力する。
そんなガレスを支援するために、【
竜鱗の槍を振るい、一閃、二閃。
鮮血が空を舞って、首を庇ったグラナの両腕が地面に落ちる。
既に防御においてグラナの優位性はない。
今のラジィは二柱の神の身体強化を同時に重ねることができるから、その身体能力差はほぼ埋まりつつある。
「そういうことか、そういうことかよラジィィイ! すまねぇミィテ、出し惜しみしてる余裕がねぇ!」
落ちた腕は生け贄によって即座に再生されるが、足場の不自由だけはグラナにもどうしようもない。
【
このおかげで相互連絡が取れない状態でも、常に最適解でグラナの移動を封じられる。
「いいぜぇ、ならば持久戦といこうじゃないかぁ。それだけの力をどれだけ維持できるぅラジィイ?」
幸運は、グラナにはない。幸運の女神がグラナの手を取ることは絶対にない。
ラジィが徹底してグラナの幸運を奪っているから。
「俺の背中を押してくれる家族の力をそんなもんで上回れると思うかぁ!? 愛を舐めるなよラジィイ!! 最後に勝つのは人間の愛の力だってことを教えてやるよぉ!!」
グラナもラジィも、今や救済という言葉を愚弄するだけの存在でしかない。
ある意味グラナが死んでもラジィが死んでも、世界は少しだけ良くなるだろう。
§ § §
ウルガータがヒップフラスコ三口分の思考整理を終えた後、ふたたびフィンが話の続きを紡ぐ。
「
降臨した
その庇護をうけた残り六人の訓練兵とダート修道司祭は自由を取り戻し、精鋭の神殿騎士たちの前に訓練兵が再び立ちはだかる。
今や実力差は反転していた。
あまりに理不尽な状況に、精鋭の神殿騎士たちが一人、また一人と倒れていく。鍛えに鍛えた実力が何の意味も成さずに殺されていく。
「しかし天使が神へと組み変わるのは、主さまが今そうであるように一瞬では終わらなかったようです。生まれたての
即ち、幸運など起こりようがない致命的な確殺を叩きつける。運の抜け道を、覆しようがないほどの暴力で塗りつぶすのだ。
故に手加減している余裕はない。0か1か、生きるか死ぬかの二択しか選べない。
「こうして訓練兵六人を始末した精鋭神殿騎士たちはカイの命令で
その話を聞いたウルガータは疑問に思わざるを得ない。
「何故そのカイさんは
カイは
しかしカイ・エルメレクは【
その【
「はい、神として完全に降臨すれば人としての人格や実体は消滅し、信徒になら誰にも等しく神はその力を貸し与えます。そういう意味では神は確かに平等なのですが、そもそも運を操るというのが問題なのです」
問題、と言われてもウルガータにはその理由がいまいちよく分からない。
誰もが幸運になるならそれは良いことであるように思えるのだが……
「ウルガータ、運というのは絶対値ではなく相対値、要するに運の良し悪しというのは他人と比較して始めて可視化されるものでしかないのですよ」
「そんなことはねぇだろ? 例えば釣りに行けば釣果とか、釣れる日と釣れない日があるもんだ。そいつは運の良し悪しでしかないだろ?」
「いいえ、それは運という概念が既にこの世にあるからそう考えるのです。もしこの世に人間がウルガータ以外一人もいなかったら、ウルガータは釣果の違いを餌の種類、竿の具合、潮の満干、海水の温度などの外的要因に求め、運のせいにはしなかったでしょう」
この世に自分しか人間がいない環境などウルガータには想像出来ないが、確かにフィンの言うことも理解できなくもない。
まず運という他者と比較する概念があって、それを自分一人の状況にも適応しただけだ、と言われればそうかもしれないと感じもする。
「あいつは貴族家に生まれて自分は庶民、だからあいつは自分より運がいい。そういう相対的な比較こそが運という概念の正体なのです。つまり運を操るということは、必ず誰かが不運を押し付けられるということなのですよ」
「それの何が問題なんだ? 少なくとも俺には貴族家の生まれと庶民の生まれ、その理不尽な立場の違いは是正されても良いとしか思えないんだが……」
あまりにこの世は生まれの違いからなる不公平があり過ぎて、それを是正する手段など人の手には殆ど存在しない。
ウルガータだって叶うなら魔力持ちに生まれたかった。貴族ならなお良かった、とまではティナやクィスを知っているウルガータは思わないが、魔力持ちは今でも羨ましい。
神がその差を調整してくれるなら――無論、ラジィという存在が消える消えないは別にして――それは良いことのようにウルガータには思えるのだが……フィンは首を横に振ってウルガータの問いを否定する。
「誰もがそういう理不尽を是正するためだけに
そう説明されて、ウルガータはそのあまりの理不尽さに眩暈を覚えてしまった。
確かにラジィがウルガータの元に転がり込んできたのは運だ。だが運以外の苦労もウルガータは重ねてきている。
そもラジィが転がり込んできたのだって、ウルガータが麻薬に手を出していなかったからだ。因果があるから、応報があったのだ。
それらを全部無視して運の違いだけと見做され立場を覆されるなら、ウルガータのここまでの尽力が全て水泡に帰してしまうではないか。
「分かりますねウルガータ、何が幸運で何が不運かは個人の主観でいくらでも変わるし、いくらでも悪用できるのです。神がそこを厳密に精査すると思いますか? あのグラナの濫用を見てもまだ貴方は神のさじ加減を信じられますか?」
そうだ、麻薬中毒者の同意ですら、
神の救済は救いを求める人の正当性を多角的には判断してはくれないのだ。
「
要は自分が努力したかしてないかは関係なく、ただ不運だとさえ感じれれば、それだけで
「努力になんの意味もなくなる世界の始まりか……救済を望む声に応えると、余計に世界全体が不幸になるんだな」
魔術にはある程度恣意的に使える面があり、それで楽ができる部分もある。
だが
相対値である運を取り扱う以上、それは絶対に避けては通れないのだ。
「カイさんってのは人格者だな。俺だったら
だが、それはそれとして
その降臨をひた隠しにして自分だけが
流石は【
「はい、カイの判断で
――皆を救う神様にはもうなれないから、ならせめて目に入る範囲だけでも救わなければあまりに不公平だわ。
そう言ったラジィの言葉の意味を、ウルガータはようやく理解できた。
ラジィは驕っていたのではない。本当は神になって皆を救うはずだったのに、もう自分には民を救えないことを心から嘆いていたのだ。
「ジィは今でも神になりたがっているのか?」
「ええ、天使の存在意義がそれですから。理屈ではないのです。生命体が生きるのに理由がいらず、死を徹底して拒むのと同様。天使が神になるのに理由は不要であり、神になれぬなら生きる意義すら失うのです」
理屈ではラジィも
神になれない限り、天使であるラジィは永遠に満たされない。そういう作りになっているのだ。
ようやくウルガータにもあの、一切自分に頓着しないラジィの投げ遣りさが理解できた。
生物が本能的に死を拒むのと同程度に、天使は神になれないことを本能的に拒む。
だからラジィにとって神になる道を断たれた己はゾンビ――すなわち死してなお惰性で動く生物程度の価値しかなく、その認識は如何なる言葉、愛情、信頼でも拭えないのだ。
自己犠牲が存在意義なのが天使という存在なのだ。【
降臨する神の良し悪しは、天使の本能にとって問題にはならないのだ。
だがラジィには人としての理性がある。その理性は己が至ってしまう神の問題を正確にラジィに把握させるだろう。
「生き地獄じゃねぇか、それ」
「主さまにとってはそうでしょう。ですが主さまが死ねば次なる天使が降臨します。次の天使が救済対象とするのはさて、なんでしょうか?」
ウルガータは舌打ちした。決まってる。
当然のように人類は不運から救われたがっている。だからラジィが神にならずこの世から消えても、次の天使がまた
「だから、カイさんはラジィを助けたってわけか、人格者だなカイさんはよ」
その言葉の意味は、先ほどと真逆に成り果てていた。
この世の人類が自力で格差を是正できるようになるまで、可能な限り次の天使の誕生を遅らせる。その為にラジィを死なせず神にもせず生かし続ける。
それがこの世の人類のためにカイ・エルメレクが下した判断なのだ。
その結果としてラジィの生き地獄が、この先ずっと続いていくことを承知の上で。
「どうすれば主さまの苦しみを和らげることができるのか、カイはずっとそれを考え続けています。ですが彼女も人の子に過ぎません。万能でないカイがどれだけ尽力しても、主さまは助けられないのです」
ラジィにとって、神になれぬまま生きるのは苦しみだ。だがラジィが死ねば次の天使がどこかに生まれ落ちてしまう。その天使を再びカイが手元に置ける確率は極めて低い。
それが
だがその事実は誰にも語れない。欲深き者がラジィの正体を知れば、ラジィを
しかし何故ラジィを生かさなきゃいけないのかが分からない
救いが、ない。本当にどこにもない。
あるいは
だがラジィは天使である以上、人を救わねばならないという意識が根底に存在している。
何もしないでいるのもやはり、ラジィにとっては苦痛なのだ。
「最終的にカイが出した結論は『いずれ人の世を救うために役立つ知識をラジィに蓄えさせる』ということでした。学んでいる間は、それが世を知り人を知る、救済に必要な研鑽であると主さまがある程度納得できたからです」
自分を救えるのは神だけだという言葉の意味を、ようやく正しくウルガータは理解した。
どれだけの愛も、信頼も、温もりも優しさも人ではないラジィを救えない。
ラジィが救われるのは唯一、
その結果として世界が
「……なら、あれはどういう状態なんだ?」
瞳は赤く染まり、髪は黄金に輝き、背中に翼を、更には今や頭上に光輪まで供えたラジィをウルガータは視線で指す。
あれはどう見ても尋常じゃない。人の取るべき姿ではない。
「主さまは先の説明で一つだけ嘘を吐きました。【
存在しない神の力が振るわれることを、【
だから力を振るいたいならそれを司る神として君臨しろと、ラジィの身体はそうやって修正を受けているのだ。
リュキア第二王子ステネルスらが見たラジィが金髪赤目だったのも、あの凄まじい嵐と稲妻を
「……それは最終的に
「なれません。一度主さまは神として完成し、その際に神臓を抜き取られました。これだけはどうやっても再生できないのです」
「神臓ってのはこの心臓か?」
ウルガータが己の胸を立てた親指でコンコンと叩きながら問うが、フィンは首を左右に振ってみせる。
「違います。神が神としての力を発揮するための動力源のようなものです」
女の外見をしていながら子を成す必要が無い天使の、子宮の位置に内蔵されている、天使が神に至るための臓器。それが神臓だとフィンは語る。
「なくても大丈夫なのか? それ。重要な器官みたいだが」
「天使である間は不要なので、なくても主さまの命には影響しません。しかし神臓がない主さまがこのまま
人にとっては不要だが神には人で言うところの心臓、もしくは脳並みに欠かせない器官のために、それが無い状態で神に戻った瞬間に
「神臓まで修正されて再生する可能性は本当にないのか?」
「皆無です。それは【
ただ、フィン曰く神臓に近い存在、というのもこの世にはあるそうで、それが唯一の懸念らしい。
「何処かから神臓に匹敵する何かを得ていれば話は別ですが、今の主さまはそういったものを備えておりません。よって今の主さまは絶対に
だが
仮にラジィが己の意志で臨界を止められず神の降臨を果たしてしまいそうな場合、強制的に神の肉体を破壊して
それがフィンに与えられた、ラジィを救うための大事なお役目だ。
「そんなことしてラジィは助かるのか?」
「分かりません。神臓を抉り出された時とはまた条件も異なってますので」
最悪は死に至る可能性も高く、可能であればラジィには
「あのグラナが倒れるまでは、主さまも全力を尽くすことを止めないでしょう。私としては少しでも早くにあのグラナが倒れることを願うのみです」
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